ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 104

☆ いつも今が始まり☆

2006.06.13号  



「おいは、中学を四年でやめる。これ以上、父さん母さんの苦労はみておれんのじゃ。多くの姉弟の長男として進学は断念する。事業を起こして、どうしても金儲けするぞ」16才の若者が5才年下の弟に自分の決心を伝えた。
若者の先祖は島原藩主松平家の直臣で150石を与えられていたという。勘定奉行、槍奉行、旗奉行として代々古野文太夫源清某(ふるの ぶんだゆう みなもとの きよ なにがし)の名で仕えていた。祖父は尋常小学校の校長を務めた。父は後を継いで小学校の訓導となった。
1937年、当時の緊縮財政のあおりを受けて、学校の収支は立ち行かなくなった。武士気質の父は月給67円の職を退いた。僅か30円ばかりの恩給だけでは、10人の子供達を養うことなぞ不可能なことであった。「兄さんが事業をやるなら、おいも中学行かんで手伝います」
11才の弟は、兄がどんな事業をするのかも知らずに精一杯の答えをした。
ラジオの受信契約が300万軒を突破した時代であった。兄はラジオ修理の資格である“指定ラジオ相談所主任技術者”の資格を取った。翌年には“甲種電気工事人免許”も取得した。父は40円のお金を工面して門出を祝ってくれた。
ラジオの修理業は順調に繁盛していった。39年には島原半島の西南端の港町・口之津町に進出し、ラジオの製造販売「古野電気商会」の看板を掲げるようになった。
しかし、38年に国家総動員法が発布されてから、電力国家管理、日ソの軍事衝突、アメリカからの日米通商航海条約の破棄通告、石炭統制など戦時色が日増しに濃くなってきた。
兄の清孝は「兄さんはいつ徴用されるかわからん。お前も免許を取って事業を継いでくれ」と、14才になったばかりの弟清賢に言った。清賢は全国最年少のラジオ技師となり、翌年には“甲種電気工事人免許”も取得し『古野電気』快進撃の原型ができた。


兄清孝はラジオの仕事だけでなく、甲種電気工事人免許を生かした家庭電気工事にも進出した。しかし、この仕事は電力会社の下請け仕事で利幅は少なかった。つぎに狙いをつけた仕事は、口之津港に停泊する船の電気艤装工事を一式請負う仕事であった。
石油ランプから電灯への切替機運にあった機帆船の電気工事を、舶用ラジオ取付の仕事を足がかりに請け負うようになった。得意分野の仕事への選択と集中でもあった。
発電機、照明、ラジオ取付などの一式受注は、金額も大きく仕事も順調に伸び、眠る間もなく仕事に追われているなかで、41年に太平洋戦争が勃発した。
兄弟の裏表のない働きぶりと、仕事の確かさは評判を呼ぶようになり、仕事が途絶えることはなかった。兄清孝が激務のすえ倒れると、弟清賢は16才にして陣頭に立った。
病も癒えた清孝が発電機の修理をしていたとき、高圧線が短絡したような閃光が走り、少し経つと耳をつん裂くような爆音が聞こえた。長崎市と口之津町とは直線距離でわずか30劼任△襦4589日のことであった。そして815日に太平洋戦争は終結を告げた。
古野兄弟も軍需工場へ駆り出されていた多くの友人を失ったが、悲しむ間もない戦後の慌ただしさのなかで、天は兄弟に好機を見舞った。
県下の漁船がネットローラーを取り付けるために続々と口之津へ入港してきた。取付工事で停泊する 1ヶ月の間に、電気工事も済ませようとする注文が相次いだ。大型工事が続き一家総出で働き、県下に「古野電気商会の手に掛からない船はない」と言われるほどになっていた。社名は広がり、事業としての蓄えも厚みを増していった。


口之津町の古野電気商会は建造ブームも手伝い繁忙状態を極めていた。工事代金は現金も入るが、背負いきれないほどのトウモロコシだったり、ラジオの修理代が白米だったりして、大家族であっても差し当たり困ることは無かったが、清孝は何か物足りなかった。
そんなとき、戦時中に漁師が言った言葉を思い出した。清孝の仕事ぶりにご機嫌だった漁師は「長年の経験で、魚がおるかどうか、おるとすりゃ何百箱おるか判っとるよ」「おやじさん、どうしてかの」「それはな、親兄弟にも教えられん漁師の秘密ばい」そして漁師がポツリと一言漏らした「泡よ、泡が出とりゃ必ず魚は下におる」22才の清孝が、この一人の漁師に逢うことがなかったら、今日の『FURUNO』は無かったかも知れない。
泡で魚群が判らないかという発想は、これまでのラジオの普及期や、漁船の電化時期のように時代のニーズを先取りすることとはまったく違う。清孝が名付けた『魚群探知機』なる発想は誰にもなく、そんなニーズは何処にもないのであった。
開発に掛かってみると、参考になる本もなければ、指導を仰ぐ経験者もいない。超音波が山彦のように反射して帰ってくる電波の、時間を計算して魚群探知に応用できないかを考えたが、学者は「おやめなさい、もっとまともな仕事をするように」と諭した。
無理もないことである。戦時中に海軍が対潜極秘兵器といわれた“探信儀”でさえ、何十トンもの鉄の塊である潜水艦の艦影をよく見つけられなかったのだ。
試作機に改良を重ねた実験機をやっとの思いで漁船に取り付けてもらったが、満足のいく結果が得られず、逆に長年の経験と勘と度胸で海の男達を操る漁労長のプライドを傷つけてしまった。インチキ機械として漁師達に足蹴にされたり、電気が流れると魚がビリビリと痙攣してしまうなどと言われ、感電してしまえと海に投げ込まれたりもした。
世界最初、世界唯一の思いは狂気の沙汰、全てが異質なものとして扱われた。
48年、孤立無援であった『FURUNO』に救いの神が現れた。五島列島岩瀬浦の桝富丸船主・桝田であった。東京の銀行を退職して網元の家を継いだインテリである。当時の五島周辺は大漁に沸いていた。その中で桝富丸は不名誉などん尻船だった。魚群探知機の実験機が持ち込まれると、「わしらが獲らんから、面当てか、辞めてやる」と漁労長が憤慨して下船してしまった。仕方なく清賢がにわか漁労長となり乗り込んだ。県下の漁場、潮流、魚の生態を調べ上げたデータを元に、1ヶ月 20日の操業で 3 3000箱(一箱 150)のダントツの水揚げ高一位となり、3ヶ月間他船を寄せつけぬ独走であった。水揚げの多い日には一晩で600万円の売上記録を作ってみせたこともあった。
プロの誇りと自信を持つ船頭達が後に続き、4910月には岩瀬浦全船団が装備完了した。


グルメブームもあり空前のマグロブームである。一本釣り上げると数百万円にもなるマグロ漁は、荒海で格闘する漁師達のロマンでもある。「巨大マグロ伝説〜マグロに賭ける人々」(05.12.25 テレビ東京)「巨大マグロを追え!一獲千金にかける男達荒海太平洋!死闘伝説」(06.04.28 TBSテレビ)などテレビ放映でも取り上げられている。
番組の中では 一年に 60本ものマグロを釣り上げる漁師を追う一方で、船に最新の装備がなく一本も釣り上げる事のできない漁師もいた。この青森・大間の漁師は父親に出資して貰ったソナーを装備して、目出度くマグロを釣り上げるシーンが取り上げられていた。もちろん魚影を映すソナーには『FURUNO』のマークがついていた。また、津軽海峡の反対側にある函館・戸井の若き船長率いるマグロ船団も紹介されていた。船団が装備しているレーダーアンテナの多くにも『FURUNO』の文字が刻まれていた。
古野電気は創業1938年、設立1951年、兵庫県西宮市に本社を置き、連結売上高800億円の船舶機器総合メーカーとしてのブランドを確立している。
世界40ヶ国に営業拠点を有し、国内でも全国の主要漁港には支店・営業所・出張所を持つ。船舶レーダーは40%、魚群探知機では60%の世界シェアを占めている。
 今から20年くらい前にある会合で、当時の古野清賢副社長にご挨拶する機会を得た。
会合のなかで魚群探知機の開発経緯の思い出話や、会社経営の苦労話などを聞かせて頂いた。いくつか印象に残っている言葉を紹介したい。
「父が工面してくれた40円と、父が持つ何倍もの無形の信用で創業することができた」
「技術は無限、だから自分たちの思いは必ず形になると信じて今日までやってきた」
「お客さんには箱(機械)を買って貰うのではない。箱が生み出す効果を買って貰うのだ」
「いつも今が始まりなんだ。だから辛いことがあっても、未来に向かって頑張れるんだ」
お話の後の懇親会では見事な「黒田節」の舞いを披露してくれた。




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