ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 119

☆ 変遷する堅実経営☆

2006.10.03号  


シャツの起源は古代エジプト人が、布を長方形に裁断した真ん中に穴を空け、これに首を通して着用したことに始まったと言われている。また、古代ローマ時代の膝丈まである長い筒状の被りモノ衣裳(チュニック)が、のちに分離して短い衣料品になったとも言われている。短い意味のShortを語源に上着をShirt(シャツ)、腰から下をSkirt (スカート)と
呼ぶようになった。ワイシャツは英語のWhite Shirtから生まれた日本語である。
日本では明治時代になり、文明開化とともに洋風化の波が到来した。1872年(明治5年)11
12日に、礼装として洋服着用を義務づけた太政官布告が出された。鹿鳴館時代を描写した風俗画に描かれている洋装である。現在はこの日が洋服記念日になっている。
今年で創業 120 年の堅実経営で知られるアパレル・メーカーがある。 1886年に東京府日本橋で浅野百蔵が 39歳の時に、シャツやコートの製造販売業として浅野商店を創業した。
10年後に書額「潮音響谷間」に感銘を受け、これから着想した「潮谷号」の冠称をつけて「潮谷号浅野商店」と名乗り、のちに「潮谷商店」と改称した。
その後、洋装が一般化するようになり、業容も膨らんできたのを機に、潮谷を転じて「蝶矢」を商標登録した。アパレル・メーカー蝶矢(現・チョーヤ)の意匠商標の原型である。
1907年、蝶矢は東京府主催でおこなわれた「東京勧業博覧会」でシャツ類一等賞を受賞した。その後の大阪博覧会などでも多くの賞を受け、シャツメーカーとしてのブランドを確立していった。そしてこの年の2月、日本を代表する紡績会社・日清紡績が設立された。

19年に日清紡績の社長に就任した宮島清次郎は、吉田茂元首相、根津財閥総帥である根津嘉一、日清製粉創始者の正田貞一郎らと親交が深く、日本工業倶楽部理事長などを務め、社業のみならず、日本の将来を見据える幅広い活躍をした経営者であった。
45 年には池田勇人内閣時代に、小林 中・水野茂夫・永野重雄とともに「財界四天王」と呼ばれ、昭和の名経営者といわれた桜田 武が社長に就任した。桜田は日経連会長も歴任し、当時の政財界に絶大な影響力を持っていた。
このような名経営者を輩出した日清紡は、堅実経営で知られ、含み資産も多い超優良企業である。この超優良企業が来年2月には、創立100周年を迎える。日清紡では創立100年を迎えるにあたり、日清紡の精神風土を企業理念として明文化した。
「わたしたちは、世界の人々の快適な生活文化の向上に幅広く貢献します」
「わたしたちは、企業は公器であるとの考えをもとに、社会や地球環境との調和を図り、公正・誠実な事業活動を行います」
「わたしたちは、企業価値を高め、21世紀においても存在感のある企業グループを目指します」

世の中では「成功の報酬」に酔いしれている陰に「成功の復讐」が待ち構えている。
企業経営者は誰しも成功体験を持っている。故に企業が現存しているのである。しかし、過去の成功体験を検証せずに、将来の経営戦略を建てる経営者が、少なからずいるのが現実である。因って、「昨日のお客」が買ってくれたモノを、「明日のお客」に勧めてしまったり、マーケットの変化を見落としてしまったりしている。昨日と明日では「求められているモノが違うのに」「そこに落とし穴があるのに」である。
堅実経営を忘れ、株式市場で時価総額の上昇プレミアムを駆使して急成長し、フジテレビを狙ったニッポン放送の買収劇では世間を騒がせ、自家用ジェット機まで手に入れて我が世の春を満喫していたH・T。
モノ言う株主として株主保護を訴え、株価が上昇すると巧みに売り抜けたり、大阪の人気球団・阪神の親会社である阪神電鉄の、株式を買い占めて世間を敵に廻したりして、インサイダー取引を暴露されてしまったM・Y。
二人は共にマスコミを賑わし、時代の寵児ともてはやされ、ヒルズ族の象徴的存在となっていた。しかし二人の絶頂の結末には、逮捕されるという成功の復讐が待っていた。
また、わずか 5年のバブル期に、土地や建築ブームで酔いしれたばかりに、待っていた復讐の代償はあまりにも大きく、創業 1428年の歴史に幕を閉じた企業がある。
ケージー建設は 726日に大阪地裁から自己破産手続き開始決定を受けた。同社の旧社名は金剛組で、日本最古とされる企業であった。金剛組は仏教が伝来(538年)した40年後の
578
年に、聖徳太子が大阪・四天王寺を建立するため、朝鮮半島の百済から招いた宮大工が起こした会社とされている。金剛正和前社長は40代目にあたる。
伝統技術を生かした寺社建築や、文化財の復元・補修などに加え、一般建築なども手がけていた。業態転換の遅れや一般建築の競争激化、バブル期に購入した土地の不良資産化等で、借入金が膨らみ自力再建が困難となってしまった。
千四百余年に渡る堅実経営で営々と築き上げてきたものが、僅かな期間の経営の失敗で泡沫と化したのである。寺社建築部門や社員は、中堅ゼネコンの高松建設が設立した新会社「金剛組」が引継ぎ、伝統技術の継承を目指している。
 

 日清紡は芙蓉グループ(旧根津財閥系)に属し、祖業は綿紡績である。歴代経営者は堅実経営を是として堅守してきた。47年には紡績事業の将来に不安を感じた、当時の桜田社長は非繊維事業へ本格参入した。戦後の復興がはじまり、繊維業界が隆盛を極める前である。
日本が対米繊維輸出自主規制を宣言したのは、71年の佐藤内閣の時代であり、約四半世紀も前に、事業構造の転換を決断した先見性は、驚くべきことである。
現在でも綿紡績事業は国内首位ではあるが、海外の低価格品に圧されて苦戦している。
国内トップクラスに成長したブレーキ製品事業、ユニークなニッチ路線を展開する家庭紙などの紙事業、工場跡地を有効利用した不動産事業が収益源となっている。
ビジネスドメインの再構築にも積極的に取り組んでおり、バイオテクノロジー、燃料電池、電気二重層キャパシティなど、次世代の事業育成に先行投資している。
売上高では85年から05年の二十年間は、概ね二千数百億円で推移している。これをデータ的に見るとバブル期の抑えた経営、バブル崩壊後の守りの時期、この十年は将来に向けた仕込みの時期と、ここにも堅実経営の姿勢が顕れている。
近年の日清紡は仕込み期間を経て、新たな展開を見せ始めた。企業規模拡大のために積極的なM&Aを展開しており、04年にアパレル・メーカーのチョーヤを傘下におさめた。
05年には約2割の株式を持つ日本無線の、子会社である新日本無線の株式を、村上ファンドとTOB合戦を演じたが、勝利を収めて子会社化した。エレクトロニクス部門強化のため、超音波診断装置が主力で、放射線測定装置も手がける医用機器メーカーのアロカも傘下においている。
今年度は連結売上高・2740億円、純利益・100億円、ともに過去最高となる見通しである。
3 ヶ年計画の最終年 08年度の売上高・純利益は、それぞれ今期比1.3倍、1.6倍の計画で
あり、
先行投資を回収する時期に入ってきた。
事業の構成も繊維事業25.3%、ブレーキ製品事業16.4%、エレクトロニクス事業26.1%、紙製品・化成品・不動産等の事業32.2%とバランスの取れた、偏らない構成となっている。
所有する不動産等の含み資産や、1350億円にものぼる利益剰余金など、財務体質においても超優良企業である。会社が存続するためには、祖業の縮小も厭わず、世の変遷とともに積極的に業態変換を図る日清紡は、既に繊維メーカーとは言えない事業構造となっている。




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