ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 136

☆ 試作品番号No5☆

2007.02.06号  

 ガブリエル・ボヌール・シャネルは1883年8月20日に、フランス・オーベルニュ地方のソミュール市で生まれた。15才の時に母を亡くし、困った父親は二人の娘を孤児院に預けた。ガブリエルはここで5年間過ごしたが。父は再び娘の前に現れることはなかった。ガブリエルは20歳を過ぎてからコーラス・ガールを夢見て、歌手修行をしていた時期があった。その頃、好んで唄った曲に出てくる、犬の名前が「ココ」だった事から愛称となった。27才になった1910年に、パリのカルボン通り21番地で帽子専門店「シャネル・モード」を開店した。13年にはリゾート地ドーベルにモードブティック一号店を開店する。15年になると、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンして、オートクトュールのデザイナーとして本格的にデビューする。ゆったりとしたシュミーズ・ドレスを発表して評判となり、それまでの窮屈なコルセットから女性を解放する画期的な提案であった。女性のファッションに、機能性という概念を持ち込んだ革新的なことだった。日常生活での動きやすいスーツは、デザインも女性の何気ない仕草の麗しさが表現されており大好評となった。16年に第一回シャネル・オートクチュール・コレクションを発表。ココの「色を多く使うほど醜い」との思想から、喪服のみに用いられていた黒を、初めてファッションの世界に提案した。また、下着の素材とされていたツィードを、初めてスーツなどのフォーマルなスタイルに使用した。女性がパンツを着るスタイルもシャネルが初めてだった。その後、ロシア皇帝の宮廷調香師エルネスト・ボーに「私の服に後光が射すような、それでいて王者の慎みを湛えた香りを」とのオファーを与えた。「試作品番号No.5」が完成し、21年に本店をカルボン通り31番地に移転したと同時に発表した。シャネル初の歴史的名香「No.5」は、脂肪族アルデハイドを大胆に使用した香調が評判となった。ファッションと香水を初めて結びつけたが、当時の顧客はパリの富裕婦人層の一部でしかなかった。

 29年にはブティック店内にアクセサリーなどの、ファッション小物の売場を設けるようになった。ツィード・スーツにパールのネックレスや、金メッキのブレスレットを派手につけるファッションを流行らせた。翌年になると「シャネル・バッグ」を発表し、チェーンを調節してショルダー・バッグにできるのは画期的なアイデアであった。キルティングで施されたステッチは、革を長持ちさせると共に、表面の傷を目立たせなくする機能的な配慮もなされていた。34年にはコスチューム・ジュエリー専門のアトリエを開き、本物の宝石とフェイクを一緒につけるジャンクジュエリーも定着させた。39年になり第二次世界大戦が勃発すると、香水とアクセサリーのブティック以外の全店を閉鎖する。44年にココは連合軍によるフランス開放とともにスイスへ逃亡。この理由はナチス・ドイツによるフランス占領中に、ドイツ軍将校と愛人関係にあったからとされる。54年には閉鎖店舗を再開する。同時にオートクチュール・コレクションも復活させた。60年代はカーディガン風の襟無しジャケットに、膝丈スカートの「シャネル・スーツ」を発表して大流行となった。71年、ココ・シャネル死去。がむしゃらに働いたココは、「誰も働かない」日曜日が嫌いだったと言う。34年から亡くなるまで一時期を除いて、本店から通り一本隔てた超高級ホテル「リッツ」のスイートルームにたった一人で住んでいた。理由は孤独が嫌いだったとの説がある。このホテルは故ダイアナ妃が、最後の時を過ごしたことで関心を持たれたように、絶え間なく人が行き交っている。ココはデザイナー、そして実業家としての業績は偉大な足跡を残したが、恋多き一人の女性としては寂しい晩年であったようだ。

 51年にジョー・ディマジオが現役を引退して一年後の春、大リーグのアスレチックス球団がPR戦略に、新人女優として売り出し中のマリリン・モンローを宣伝写真に起用。この写真を見たディマジオは「自分もあんな美人と、一緒に写真を撮られてみたいもんだ」と冗談を言った。これを聞いていた映画関係者が、知名度がある往年の大打者とモンローのゴシップを画策し、映画の都ハリウッドで会食をセットした。食事が終わってディマジオがモンローを送って行く途中で「野球の事は何も知らなくてごめんなさい」と謝るモンローに、ディマジオは「私こそ映画の事は何も知らなくて」と慰めの言葉を返した。この馴れ初めがきっかけで二人は54年1月にゴールインした。2月1日午後5時35分、ディマジオ・モンロー夫妻はハネムーンで羽田空港に降り立った。米軍キャンプ慰問と野球指導のため、同行したサンディエゴ・パドレスのフランク・オドウル監督らと共に、帝国ホテルまでオープンカーを連ねた。翌朝、ディマジオのために開かれた記者会見では、質問はすべてモンローへ集中した。この時に「何を着けて寝たか」と、記者団に聞かれたモンローは「シャネルの5番だけヨ」と答えた。このエピソードは同行した記者達によって、アメリカ本国はもちろん、フランスを始めとするヨーロッパへ打電され、「シャネルの5番」は一躍メジャー・ブランドとなった。日本でのハネムーンは岩国の米軍基地や、朝鮮で10ヶ所以上にも派遣されていた国連軍の駐屯地慰問、ディマジオの野球指導などで1ヶ月近い滞在であった。この間に二人の仲には早くも亀裂がうまれ、11月にはわずか274日という短い結婚生活が終わった。その後、モンローは新しい恋を求めては挫折し、心ないマスコミ攻撃では、傷つき孤独になった。そんな時はいつもディマジオの元へ戻り、彼の変わらぬ愛が傷を癒してくれた。62年にモンローが謎の死を遂げたときも、親しくしていた男性の中では、ディマジオだけが葬儀に参列していた。ディマジオは生前に約束した通り、20年間続けて火曜日から土曜日までの毎日、ロスアンゼルスにあるモンローの墓前に赤いバラの花束を贈り続けた。ディマジオは死ぬまでモンローのことは語らなかったが、一度だけ女性誌が5万ドルを提示したときに答えた。「世の中にはカネに代えられないものがある。それは愛の思い出だ」

 創業者のココは画期的なデザインを立て続けに発表して、それまでのレディース・ファッションを古くさいモノに変えてしまい「皆殺しの天使」とまで呼ばれた。日本では74年にレブロンやディオールで活躍したフランソワーズ・モレシャンが、シャネルの美容部長として再来日した。彼女は講演や各種メディアで、ファッション・アドバイザーとしてシャネルのブランド価値を上げると共に、日仏文化交流にも貢献した。ココの死後、シャネルは方向性の見えない時期が続いていたが、83年にカール・ラガーフェルドがオートクチュール・デザイナーに就任。シャネル・ファッションを甦らせると共に、過去に発表されていたバッグ、財布、ジュエリーなどのシリーズも再現させた。ラガーフェルドはシャネルのブランド・ポリシーである「古い価値観にとらわれない女性像」を踏襲し、93年の春夏パリコレクションでは、女性モデルにブリーフを着せて世間を驚かせた。ココが生涯認めなかったミニスカートも2年連続で提案。レザーのバイカーズジャケットもラガーフェルドによって、シャネルのラインに加えられた。ツィードはシャネル・ブランドを象徴する素材である。ウェストミンスター公爵らの着ていたツィードを、愛人だったココが気に入り、女性用のコートやスーツに取り入れた。それ故、銀座ビルも夜に点灯するとツィード模様が、浮き上がる仕掛けになっている。ラガーフェルドも様々なツィードの作品を発表している。04−05秋冬パリコレではツィードのジャケットに、ローライズパンツを合わせた少年風の作品を発表した。90年代のスーパーモデルブームの、きっかけを作ったのもラガーフェルドだと言われている。日本人スーパーモデルの川原亜矢子に、シャネルのオーディションを勧めたのも彼だった。ラガーフェルドは「シャネル」のほか、イタリアの「フェンディ」、自らの名を冠した「ラガーフェルド・ギャラリー」を手がけている。フェンディは彼がまだ駆け出しの65年からラガーフェルドを起用している。Fの字を組み合わせたロゴ「ダブルF」も彼が考案した。フランスの老舗ブランド「クロエ」の主任デザイナーも長く務めていた事がある。彼が「キング・オブ・ファッション」と呼ばれるのは、革新的で洗練されたデザインと、その幅広い活動が評価されているからである。84年に40才代になって初めて自分の名を冠したブランド「カール・ラガーフェルド」を立ち上げたとき、のちの伊勢丹社長・小柴和正が業務提携して支援した。このブランドを伊勢丹は世界で初めて導入し、伊勢丹オリジナルとして注目を浴びた。シャネルは01年に当時としては日本最大の、売場面積を誇る東京・表参道店をオープン。04年12月には東京・銀座に世界最大級のブティックを含む10階建て「シャネル銀座ビルディング」がオープンした。ラガーフェルドがデザインした、可愛くてゴージャスなツィードのシャネル・スーツは、女性なら一度は着てみたい憧れのブランドである。


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