ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 142

☆ ハリウッドの裏方☆

2007.03.20号  

 ファッションの世界でキラ星のように輝く、多くのデザイナーを私達は知っている。そのデザイナーが引退や死亡したりしても、メゾンは後任のデザイナーに引き継がれ、ビジネスとしても経営権の譲渡・買収により、そのブランドは延々と生き、さらにビジネスを拡大しているブランドを数多く見てきた。ユーヴェルド・ジパンシー、ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、ジャンニ・ベルサーチなどなど・・である。ブランド・ビジネスからは距離をおき、斬新なファッションで流行を創り、その後も数多くのファッション・デザイナーに大きな影響を与えながら、世間には殆ど知られていないデザイナーがいた。彼女の名を聞いたことがなくても、彼女が創りだすファッションは、世界中で多くの人々が記憶している。彼女の名はイーディス・ヘッド。デザイナーのアシスタントからスタートし、亡くなるまでの58年間で、1000本近い映画に関わる。アカデミー衣裳デザイン賞に34回ノミネートされ、オスカーを8回受賞した。この記録は未だ破られることはなく、ハリウッド映画の裏方に徹した人生であった。

 イーディス・ヘッドは1897年10月にカリフォルニア州・サンバーナディノで生まれた。カリフォルニア大学とスタンフォード大学で学び、スペイン語教師の職に就くが、授業の合間にコスチューム・デザインの勉強をしていた。その後に結婚退職、そして離婚した。パラマウント社が1925年に公開予定の、セシル・B・デミル監督の「金色の寝床」のスケッチ・アーティストを募集した。それを新聞記事で知ったイーディスは、当時通っていたアート・スクールの、友人からデッサンを買い取り、それに自分のサインを書き込んで応募した。幸運に面接は合格となり、23年にパラマウント社に入社することができた。初めの仕事はチーフ・デザイナーのハワード・アグリーの下でB級映画のスケッチ・アーティストだった。4年後になってアグリーに代わってトラベス・バンドンがチーフ・デザイナーに就任すると、彼の助手を務めるようになった。この頃のイーディスはアシスタントとして働きながら、アート・スクールに通って猛勉強をしていた。33年に「わたしは別よ」でメイ・ウェストの衣裳を手がけ、彼女の見事なプロポーションを生かしたドレスが気に入られ、以後はウェストの作品で数多くの衣裳を手がけた。36年の「ジャングルの女王」では、ドロシー・ラムーアのエキゾチックな衣裳が注目を浴び、アメリカ中にリゾート・ウェアを流行らせた。38年にバンドンが退社し、実力を評価されたイーディスは、初の女性チーフ・デザイナーに任命された。30年代の彼女は猛烈に働き、3本から6本の映画を同時に担当していたと云われ、時には年間35本もの映画衣裳を手がけたという。ハリウッドにおいて衣裳デザイナーとして成功するには、ファッション界に身を置くよりも過酷だと云われている。41年には彼女の知名度を高めたと云われる「レディ・イブ」が公開され、主演のバーバラ・スタンウィックの肉体的欠点をカバーし、エレガントで官能的に魅せた衣裳は、コピーが出回るほどの人気となり、バーバラをトレンド・セッターへと押し上げた。44年の「誰がために鐘は鳴る」や、46年の「汚名」では、イングリッド・バーグマンの衣裳を担当し、バーグマンの知的な美貌と演技を際立たせていた。49年の「女相続人」では1850年代の、華麗な衣裳をデザインして絶賛を浴びた。イーディスはこの作品で、アカデミー衣裳デザイン賞を受け、初のオスカーを手にした。

 イーディスはオスカーこそ逃したが、自らのベスト・ワークと称した「泥棒成金」では、グレース・ケリーの清楚な魅力と美しさを最大限に引きだしていた。『第二次大戦前に「猫」と異名をとった希代の宝石泥棒ジョン・ロビー(ケリー・グラント)が、再び動き出したとの情報がパリ警察に入り、大警視ルピックは南仏リビエラにやってきた。ロビーは堅気になりリビエラで気楽な別荘暮らしをしていたが、身に覚えの無いことで一転追われる立場となってしまった。仕方なく戦時中にドイツ軍によって爆撃されたフランスの刑務所から、一緒に脱走した旧友のベルタニのところへ相談に行った。ベルタニの指示でロビーはニースへ行き、保険会社のヒューストンに逢った。ヒューストンはロビーに、宝石狂いの母親と一緒にニースへ来ていた、アメリカ娘フランセス・スティーブンス(グレース・ケリー)を紹介した。そこで、木材商バーンズと名乗っていたロビーは、フランセスに一目惚れをしてしまった。ロビーはヒューストンの会社の保険契約名簿から、南仏の金持ちの名前を調べ上げ、金持ちの宝石を「猫」が狙っているとの情報を流して、偽の「猫」の正体を暴こうと考えた。しかし、ロビーは偽猫の正体を暴く前に、フランセスからドライブに誘われ、彼女に自分の正体を暴かれてしまったのだ。ある日、フランセスの母親が宝石を盗まれた。やがてロビーはベルタニが、犯人であることを嗅ぎつけた。ベルタニはロビーを殺そうとするが、間違って部下を殺してしまった。そして仮装舞踏会の夜、ロビーは紳士淑女の集まる前で、宝石を狙う「猫」の手下を掴まえ、手下の口から犯人の名が叫ばれた。「猫」を偽っていたベルタニが捕らえられ、ルピックに引き渡された。事件が落着した後、ロビーとフランセスは堅い絆で結ばれた・・』グレース・ケリーは翌年に、主題歌をコール・ポーターが担当、ビング・クロスビーやフランク・シナトラ、それにゲストのルイ・アームストロングらと共演した「上流社会」の出演を最後に、ハリウッドから引退してモナコ王妃となった。

 50年代に入るとイーディスのキャリアは絶調期を迎える。映画の世界では、現代の流行は勿論のこと、過去の世相を画き、将来の流行を予測する。そして「裏窓」のグレース・ケリーのように知的で優雅な、最新のファッションも魔法のように生みだして魅せた。アルフレッド・ヒッチコックも彼女の才能を認め、ヒッチコックが監督を努める作品では、ほとんどがイーディスの衣裳デザインが採用されている。50年には「サンセット大通り」「イヴの総て」の映画史に残る傑作で、グロリア・スワンソンやベテイ・デービスの衣裳を担当。「イヴの総て」では白黒部門のオスカーを獲得。この年の「サムソンとデリラ」ではカラー部門のオスカーを獲得して衣裳部門をW受賞。翌年の「陽のあたる場所」では4つ目のオスカーを獲得した。エリザベス・テーラーの胸元に花をあしらったドレスが評判となり、パーティ・ドレスとしての流行を創った。そしてこのドレスが、ファッション界におけるウェディング・ドレス創作の原型となり、世界中のデザイナー達に多くの影響を与えた。53年にはオードリー・ヘップバーンが演じた「ローマの休日」では、ブラウスとフレアスカートの清楚な王女姿が大ヒット、翌年もおなじくヘップバーン主演の「麗わしのサブリナ」でサブリナ・ルックが一世を風靡し、2年連続のオスカー受賞となった。60年には中流家庭の倦怠期にある夫婦を描いた「よろめき珍道中」で7回目の受賞に輝く。67年にはパラマウント社からユニバーサル社へ移籍し、69年にシャーリー・マクレーン主演の「スイート・チャリテイ」、70年にハイジャックのパニック映画「大空港」の衣裳を手がけた。そして73年にはポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが、暴力沙汰を蔑視し、頭脳で相手を出し抜く詐欺師を演じた「スティング」で8回目を受賞。30年代の暗黒街シカゴを舞台に、市民とマフィアの衣裳を再現した時代考証が絶賛された。このほかにも、48年「凱旋門」52年「黄昏」53年「シェーン」54年「喝采」57年「パリの恋人」「OK牧場の決闘」58年「めまい」69年「明日に向かって撃て」など、誰もが観たことがあり、記憶に残る多くの名作を担当した。イーディスは依頼されて60年代に、パンナムのスチュワーデスの制服をデザイン。国連ガイドの制服もデザインしたことがあった。そして、映画で彼女がデザインした衣裳を着た女優が、私服をオーダーしたことも数多くあった。しかし、彼女は自分のメゾンもブランドも作らず、ファッション・ビジネスには手を染めなかった。彼女は81年に他界するまで、ただひたすら映画に寄り添い、ハリウッド映画の裏方に徹して衣裳デザインを続けた。ここにデザインされた衣裳以上の、イーディスの美を見る思いがする。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー