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桃太郎のビジネスコラム 146

☆ マイセン隆盛の礎☆

2007.04.17号  

ヨーロッパ最初の磁器として知られるマイセンの誕生には、有田焼に憧れたザクセン王オーガスタ一世(1670〜1733)の、磁器への強い愛着が原動力となった。有田焼の酒井田柿右衛門の作風に魅了されたオーガスタ一世は、コレクションとして買い集めるだけでは飽きたらず、やがて王立磁器製作所を設立することになる。マイセン磁器の生産が軌道に乗り、販売が順調に推移するようになった1717年には、ドレスデン新市街にあるフレミング伯爵の館、「オランダ宮殿」を買い取った。これを磁器収蔵と展示のための、いわば磁器の宮殿とすることを計画し、東洋の磁器収集には異常な執着さえ見せた。
オーガスタ一世は隣国であるプロセイン軍人王フリードリッヒ一世が、シャルロッテンブルク宮殿とオラニエンブルク宮殿に所蔵していた151個の中国磁器と、竜騎兵600人を交換した。さすがに自国兵を交換に出すには抵抗を感じ、外国兵ばかりを選んだという。
1719年にはオーガスタ一世の息子(のちのオーガスタ三世)と、神聖ローマ帝国皇帝の姪マリア・ヨゼファの結婚式が、オランダ宮殿で盛大に行われたとき、宮殿には25千点もの磁器があったという。オランダ宮殿が手狭になったため、三翼であった宮殿を四翼に増改築し、四隅の屋根を東洋の楼閣をイメージして、切妻風に高くせり上げさせた。こうした不思議な外観から、オランダ宮殿の名は、「日本宮殿」と改称された。
オーガスタ一世の誰も考えつかないような壮大で破天荒な構想に、彫刻家として手腕を発揮したのが弱冠25歳のケンドラーであった。しかし、オーガスタ一世は日本宮殿の完成を待たず、1733年に62歳の生涯を閉じた。
オーガスタ一世は素手で蹄鉄を曲げるほど力が強く、豪胆な気性もあってか「強王」と呼ばれるほど、逞しい男だったと云われる。誇張されがちな話だが、強王はあらゆる階層に星の数ほど愛妾がいたとされ、360人の子供がいたと伝えられている。
なかでも最も寵愛を受け、権勢を誇ったのがコーゼル女伯爵(16801765)だった。強王は安らぎを与えてくれるコーゼルのために、1706年に王宮の隣地にタッシェンベルク宮殿を造らせ、いつでも逢えるようにと、空中に通廊を造らせた。この宮殿は現在、ドレスデン屈指の最高級ホテルとして使われている。さらに強王は翌年にも、ドレスデン郊外のビルニッツの宮殿と町を彼女に与えた。このピルニッツ宮殿も、現在は「ドレスデン工芸美術館」として公開されている。コーゼル女伯爵は科学や数学にも詳しく、才色兼備の女性であったと云われる。しかし、政に口を挟んだことから寵愛を失い、1716年にプロセインへ逃亡したが、捕虜と交換でザクセンに戻された。以後、49年間幽閉され84歳で没した。
強王の没後32年のことだった。

ヨーロッパの陶磁史上において、18世紀前半はマイセンの時代といっても過言ではない。
この時代に創作された作品によって、300年以上にも及ぶ礎が築かれた。この原点となったのが、オーガスタ一世の磁器に対する異常なまでの執念と、白磁焼成の技術者ベトガー、絵付け師ヘロルト、彫刻師ケンドラー、三人の技術者の才能と努力にあった。
囚われの身となった錬金術師ベトガー(16821719)は、オーガスタ一世から白磁焼成の命を受け、東洋の磁器を参考に、ヨーロッパ初の白磁を完成させた。王立マイセン磁器製作所の初代監督になったベトガーは、王命によりドレスデンにとどまり、引き続き白磁の研究を重ねた。初期の白磁の出来具合は不安定なものであったが、徐々に完成の度を増していった。ベトガーの備忘録によると、素地土をさまざまに配合して、繰り返し焼成された実験結果が書かれている。1708115日付けの記録として、マイセン磁器製作所古文献室に残っている。その文献には白磁のための7つの調合法のうち、3つの調合法が成功したことが、ラテン語とドイツ語で記されている。輝くばかりの白い肌の「やきもの」の原点がここに始まったのである。
しかし、ベトガーは長年にわたる拘禁生活によるストレスと、過度の飲酒や、薬品を用いた実験の繰り返しで、体調を崩すようになった。オーガスタ一世はベトガーに自由の身分を与えたが、生涯ドレスデンに留まることと、白磁の研究を続けることを条件とした。
ベトガー晩年の頃には、マイセン磁器は利益を生むようになったとはいえ、磁器製作所の財政は厳しく、所内では軋轢が絶えず、待遇への不満から逃亡する技術者も出るようになった。磁器製作所の周りには余所者も現れるようになり、磁器に関する情報を探るため、従業員に近づく者もでてきた。そんな頃、ベトガーは1719年に37歳で生涯を終えた。

1720年に技術者の一人が逃亡罪の代償として、ヘロルト(16961775)という画家をウイーンからマイセンに連れてきた。ヘロルトはエナメル彩画に卓越した能力を持っており、すぐに磁器の顔料を習熟した。この頃のマイセンは、染め付けや色絵の技法が未発達だった。ヘロルトの絵付けの才能は、柿右衛門の作風に凝っていたオーガスタ一世の、好みに叶うものであった。野心家でもあったヘロルトは、次第に頭角を現すようになり、数年後には宮廷画家に任命され、絵付け部門の監督、宮廷官、磁器製作所の美術監督と昇進し、マイセンの一時代を担った。ヘロルトが創案した中国風の絵画は、当時のヨーロッパ人を魅了すると共に、東洋に対する幻想を掻き立てる作風であった。マイセン磁器製作所古文献室には、当時ヘロルトが描いた東洋風の人物像を、自由に組み合わせたデッサンが残されている。マイセン磁器の特徴である、細微で色彩豊かな絵付けの伝統は、現在もマイセン磁器製作所付属の養成学校で継承されている。
1756年にプロセインのフリードリッヒ一世が、ザクセンに攻め入って7年戦争が勃発した。
これによりマイセン磁器製作所は、壊滅的な打撃を受けてしまった。製品はもちろんのこと、原型や顔料まで持ち去られた。さらに従業員まで連れて行かれ、ベルリンの磁器工場に入れられてしまった。このプロセイン侵略戦争の前後からマイセンの技術・技術者は外部に流失するようになり、ヨーロッパ各地で磁器窯建設が始まる契機となっていった。
こうしてマイセンはヨーロッパ磁器の礎となり、1775年にデンマークで、王室御用達の製陶所として設立された「ロイヤル コペンハーゲン」などにも影響を与えた。

マイセン磁器製作所が利益を生み出すようになると、オーガスタ一世の磁器収集欲は、より一層熱が入るようになった。巨大な建物を磁器収集品で埋め尽くすことを考え、日本宮殿を造ろうとした。その中には、珍しい動物を飼育展示する動物園のようなモノも計画した。それも動物の実物大である。オーガスタ一世は巨大な磁器彫刻を造る彫刻家として、
ケンドラー(17061775)を自ら抜擢した。
ケンドラーは木や石にしか彫刻の経験は無かったが、磁器という可塑性のある素材の特性をすぐさまに把握し、躍動感溢れる造形を生み出した。磁器彫刻の基礎を築いたケンドラーのスケッチは、マイセン磁器製作所古文献室に今も残り、人物や白鳥には生動感が溢れている。イタリア喜劇「コメディア・デラルテ」や、宮廷生活を描写した小さな人形など、ケンドラーの独創によるものが数多く制作された。これが「ケンドラーの人形」として、現在マイセンが最も得意とする、磁器人形の世界を確立する原型となった。
オーガスタ一世は日本宮殿の完成を見ずして没したが、あとを継いだオーガスタ三世は、磁器・陶器には関心が無く、マイセン磁器製作所はブリュール伯爵に任せきりとなった。
支配人になったブリュール伯爵の下で、ケンドラーの才能は大きく開花することになる。
ブリュール伯爵のために4年の歳月を掛けて制作した「スワン・サーヴィス」は、2200点を超える白磁に白鳥やイルカ、女神や天使などを描き、ロココ調芸術の極致を示す作品となった。ケンドラーが流麗なデザインをした数々の磁器の形状は、マイセンだけでなくヨーロッパ各地の宮廷などに広く伝わり、テーブル・ウェアーの原型となっていった。




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