ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 150

☆ 世界に誇るクチュリエール☆

2007.05.15号  


森 英恵(Hanae Mori)は192618日、島根県六日市町(現在の吉賀町)に生まれた。東京女子大学国文科を卒業後、48年に森 賢氏と結婚したあと、ドレスメーカー女学院で再び学び、51年に新宿でスタジオ「ひよしや」を設立した。その頃は家庭洋裁を教える洋裁学校や、注文服を創る洋装店がわずかにあっただけで、ファッションという概念も、デザイナーという言葉も無い時代であった。卓越したテクニックと類い希な創造性で、日本のファッション・ビジネスの礎を築き、日本が世界に誇るクチュリエール(*1)は、「洋の東西」融合をテーマに創作活動を続けてきた。
50年代の日本映画の全盛期には、「太陽の季節」「狂った果実」「彼岸花」「秋刀魚の味」「四十八歳の抵抗」等々、400本にものぼる映画衣装を手がけた。
60年には広範なデザイン界での活躍に、第4回FCE「日本ファッション・エディターズ・クラブ賞」を受賞。63年には大衆ファッションへの、関心の高まりを受けて「ヴィヴィド」を設立して、未開拓であったプレタ・ポルテ(*2)の分野に進出した。64年の東京オリンピックでは日本選手団の制服をデザイン。翌年にはニューヨークで、初の海外コレクションを発表し、ニーマン・カーマスなどの高級百貨店で成功を収めた。67年には日本航空客室乗務員の制服をデザインし、国内のトップ・デザイナーとしての地位を確立する。

70年には「ハナエ・モリ・ニューヨーク」をオープン。74年にはロンドン、次いでスイス・ドイツ・ベルギーにも上陸した。この頃は、夫である賢氏のマネジメント手腕によって、ハナエ・モリ・グループのビジネスは上昇気流に乗っていった。
7511月、パリのホテル・モリスで初のコレクションを発表し、得意な蝶や友禅風のプリント・ドレスを披露、「東洋的ファンタスティック・モード」を導入したとして絶賛された。翌年には「ハナエ・モリ・インターナショナル」を設立。77年にはサンディカ(*3)に加盟し、東洋人として唯一のメンバーとなる。同時にパリのモンテーニュ通りに、オートクチュール・メゾン(*4・*5)をオープンし、初のオートクチュール・コレクションを発表。
78年には表参道にHANAE MORIビルを完成させる。また、ピエール・カルダンと共に中華人民共和国から、ファッション産業への協力要請を受けて招聘された。
85年にはパリのフォープル・サントノーレにブティックをオープンし、ミラノ・スカラ座ではオペラ「マダム・バタフライ」の衣裳をデザイン。翌年もパリ・オペラ座のバレエ「シンデレラ」の衣裳を担当。さらにその翌年には、劇団四季のミュージカル衣装を、デザインをするようになった。
88年にはソウル・オリンピック銀メダリスト、小谷実可子の水着をデザイン。89年にはモンテカルロに、ブティックをオープンすると共に、デザイナー活動35周年を記念し「森 英恵展」を開催した。

ハナエ・モリは9900年のA/W(*6)から、プレタポルテに新スタッフを投入。森 英恵を補佐するクリエイティブ・ディレクターに森パメラが就任。パメラは57年に米カルフォルニアで生まれ、モデルとして来日していた。長男でハナエ・モリの社長でもあった森 顯氏と結婚。ハナエ・モリでカシミアをはじめ、スポーツ・ラインを担当した。森 泉など
5児の母でもある。
森 泉は82年生まれで、19歳でモデル・デビューを果たし、第48回FECモデル・オブ・ザ・イヤーを獲得し、祖母とW受賞となった。パリ・コレクション(*7)にも出演するカリスマモデルとして知られている。モデルとして資生堂「TSUBAKI」などのTVCMや、雑誌「CanCam」などにも登場、「おしゃれイズム」などではTVタレントとしても活躍。
森 英恵は初期に蝶のモチーフで評価を得たため、シンボルマークとなっていた「蝶」のように、世界を舞台に舞いつづけ多くの賞を受賞している。73年 ニーマン・マーカス賞。
78年 ヨーロッパ一流品賞、第7回 パイオニア賞、第7回 シンボル・オブ・マンアワード(米)。88年 朝日賞、紫綬褒章。89年 レジオン・ドヌール賞(仏)、文化功労賞。米レックス・アワード賞は67年、70年、76年と3回受賞した。そして、96年には文化勲章受賞の栄誉に輝いた。
ハナエ・モリのファンには世界各国のセレブが顔をそろえる。故グレース王妃やナンシー
・レーガン、ソフィア・ローレンなどが名を連ねている。93年の皇太子ご成婚にあたり、
雅子妃のウェディング・ドレスもデザインした。また、故美空ひばりとは長年に渡る交友関係にあり、森 英恵はひばりの大ファンでもあった。88年に東京ドームで行われたラスト・コンサートの、不死鳥をイメージした衣裳も彼女の作品であった。

森 英恵は90年代になっても衰えを見せない活躍を続けた。90年にはパリやモナコでコレクションを開催。92年には第4回神戸ファッション・フェスティバルのメインイベントとして「森 英恵とパリ・オートクチュール」を開催。同年のバルセロナ夏期、94年のリレハンメル冬期オリンピックの日本選手団公式ユニホームをデザイン。96年にはザルツブルグ音楽祭で、オペラ「エレクトラ」の衣裳。翌年には創作能「高山右近」の衣裳をデザインした。98年の「日本におけるフランス年」では「森 英恵とパリ」を開催。
00年にはパリ・オペラ座「シンデレラ」の衣裳。東京・パリ・アジア・ニューヨーク・水戸で開催した、森 英恵展「東と西の出会い」では多くのファンを喜ばせた。
しかし、ハナエ・モリはバブル崩壊後のダメージが蓄積し、飲食などの多角化に乗り出したが失敗。01年末にプレタポルテを含むライセンス事業を、三井物産とロスチャイルド・グループに売却すると発表。翌年5月にはオートクチュール部門のハナエ・モリが、東京地裁へ民事再生法の適用を申請した。デザイナー活動51年目の苦渋であった。
02313日に三井物産の100%株式出資を受けて「ハナエモリ・アソシエーツ」を設立。次男の森 恵氏も加えてオートクチュール事業を継続したが、0477日の04年A/Wオートクチュール・コレクションを最後に森 英恵は引退することとなった。
ショーではドビルバン仏内相夫人を始め、著名人が多数詰めかけた。主役の登場にはコレクションでは珍しい、スタンディングオベーションで迎えられた。日本が世界に誇るクチュリエールが飾った有終の美であった。

*1=デザイン・テーマの決定から、裁断・縫製までの全てを統括し、企画を製品化する機能と権限を持つ総責任者を「クチュリエール」と云う。男性の場合は「クチュリエ」。
*2=オートクチュールのデザイナーによる高級既製服。この時期は単に既製服の意味。
*3=パリの高級衣裳店組合のこと。1868年にシャルル・フレドリック・ウォルトによって創立され、パリオートクチュール・コレクションやパリプレタポルテ・コレクションを主催し、服飾関係の専門学校も開設している。設立当初は同業者組合として発足したが、組合規約が無くて組合員数も多くなり、安仕立ての衣装を販売する組合員店が多くなってしまった。1911年にサンディカを再発足させて、オートクチュールと銘打つ為の厳格な規約を定め、その規約に沿ったクチュリエ又はクチュリエールのみを、正式メンバーとする事にした。これによりサンディカも、オートクチュール自体にも、付加価値がつくことになり、それ以降はファション界最高峰の組合として君臨していく事になる。
*4=パリのファション界では、サンディカの組合員になっているメゾンで、創られる特別注文の高級仕立て服のみを、オートクチュールと云う。
*5=サンディカに加盟し、組合規約の条件を満たして経営されている衣裳店を「メゾン」と呼び、現在は23のメゾンがある。現在は加盟していないブランドが数多くあるが、ブランド・イメージ等を考慮し、ほとんどが規約を準拠しているようだ。
*6=年二回行われるコレクション。A/WはAutumn & Winter、S/SはSpring & Summer。
*7=通称「パリ・コレ」と云われる。100以上のブランドが参加する最大のコレクション。五大コレクションと呼ばれるプレタポルテ・コレクションの一つで、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ、東京(開催順)で開催されている。




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