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桃太郎のビジネスコラム 159

☆ 伝説のプレーヤー☆

2007.07.17号  


 フランスのテニス代表チームは、1920年代初めから30年代初頭まで、世界のテニス界を席巻していた。アンリ・コシェ、ジャン・ボロタ、ジャック・ブルニョン、そしてルネ・ラコステ、四人のメンバーは 27 年のデビスカップで歴史的勝利を収め、その後も次々と
タイトルを獲得した。この四人にはムスクテール(四銃士)というニックネームが付けられ、デビスカップは32年まで連続年間フランス・チームの掌中にあった。
四人の華々しい活躍に観客達は、個々にニックネームをつけて呼ぶようになった。アンリ・コシェは“マジシャン”、ジャン・ボロタは“跳ねるバスク人”と呼ばれ、ジャック・ブルニョンは“トト”という愛称が付けられていた。
ルネ・ラコステはムスクテールの一員として、27年のデビスカップで初めてアメリカ・チームを撃破して優勝したことにより、テニス界の伝説的プレーヤーとしての第一歩を踏み出した。チームのデビスカップ連覇に貢献し、ローランキャロスにてのフレンチオープンは25 年、27 年、29 年と三度の優勝を飾り、英国ウィンブルドンでは 25 年と 28年に勝利を収め、フォレストヒルのUSオープンでも26年と27年に連覇を成し遂げている。
コート上におけるラコステの、類い希なる集中力の強さと冷静な判断力は、観客と対戦相手に強い印象を与えていた。しかし、彼は恐るべきプレーヤーとされてはいたが、ニックネームが付けられることはなかった。
ラコステには愛称こそ付けられなかったが、彼には後に世界に誇るトレードマークともなるエンブレムがあった。そしてラコステはエンブレム誕生を、語るのが大好きであった。
「それは27年のデビスカップで出会ったフランス・チームのキャプテンとの賭だった。
キャプテンは、私がこの大切な試合に勝ったら、ワニ革のスーツケースをプレゼントすると約束したんだ。私はコート上の獲物は決して逃さない、執拗な性格を見越してのことだった。勿論、私は勝利したさ。それからアメリカのメディアは私の事を“ワニ”と呼ぶようになったのさ。それを耳にした友人のロベール・ジョルジュが、ワニの刺繍をデザインしてくれたんだ。その後の私は、その刺繍がついたブレザーを着て・・・」

27年の大会では全試合を、一人の熱心な観客が見守っていた。オープン早々にウェールズ公やチャールズ・チャプリンなどの有名人を招待した、名門ゴルフ・コースであるシャンタコゴルフ場の創始者ルネ・ティオン・ドラショームの愛娘であった。彼女はゴルフの英国オープンで優勝し、その後 13 回もフランス・チャンピオンになったシモーヌ・ティオン・ドラショームであった。フランスの女性ゴルファーとして、真のチャンピオンであったシモーヌは、30630日にマダム・ラコステとなった。
ラコステとシモーヌの愛娘のカトリーヌも、両親の影響を受けてスポーツ界で素晴らしいキャリアを積んだ。母の跡を追って始めたゴルフは、64年に19歳にして世界大会で団体優勝を経験する。67年には全米女子ゴルフオープンでも優勝した。このタイトルを外国人として初めて獲得。しかも、当時の最年少で最初のフランス人チャンピオンとなった。
69年にはイギリスの大会でも優勝し、フランス・チャンピオンのタイトルも67年、69年、
70年、72年と度獲得している。母シモーヌと同様にカトリーヌ・ラコステも、その名をフランス女子ゴルフ界に伝説を残した。

テニスチャンピオンのラコステは、発明家としての才能も持ち合わせていた。20年代には、ラケットをよりしっかりと握るため、自分の木製ラケットのグリップに、テープ(絆創膏)を巻くことを思いついた。このアイデアはすぐに知れ渡り、瞬く間に何処のテニス・コートでも見られるようになった。
20年代の終わりには、試合の合間にスマッシュを練習する時に、ボールを打ち上げるトレーニング・マシンを自分用に開発した。30年になるとトレーニング・マシンを量産する計画まで立てた。63年にはスチール製のラケット第一号 T−2000 を考案し、このラケットはアメリカで大々的に販売された。66年から78年の間にジミー・コナーズやビリー・ジョン・キングなどに使用された。そしてこのラケットはグランド・スラムのタイトルを46回も獲得し、このラケットは、その後数多くのテニスラケット開発を導くことになった。
ラコステは現役プレーヤーだった頃、アメリカの暑いテニス・コートでも、快適で汗を完全に吸収する通気性に優れた織り目のコットンで、何着ものポロシャツを自分用に創らせていた。ラコステがこの第一号となったポロシャツを着て、コート上に立つと騒然としたセンセーションが巻き起こった。しかし、フランス・テニス連盟は、肌にピッタリとしたラインが少し下品であるとの評価を下したという。

この時代のテニス・ウェアーは、白のシャツとパンツで、運動に適した服装では無かった。そこでラコステは半袖の伸縮性に優れたシャツを開発した。これが現在もラコステの看板商品であるポロシャツの原点である。
25歳で現役を引退した後、4年後にはテニスシャツのデザインを始める事になり、ラコステ創業へとつながった。33年にはフランス最大のニット製造会社オーナーである、アンドレ・ジリエと共にワニのロゴの入ったポロシャツ製造会社を設立した。
現在のラコステは、フランスが世界に誇るアパレル企業として、香水、革製品、時計、眼鏡類、そして創業の原点となったポロシャツを扱うファッション・ブランドとなった。
フランス展開のポロシャツは、他国生産のものと異なり、やや細身で着丈が長く、シルエットが美しいため「フレンチ・ラコステ」と呼ばれて人気が高かった。フランス以外での生産が増えたことと、EU 統合で Made In France の表記が無くなったため、最終生産の
フレンチ・ラコステをマニアが買いに走るという事態までおきた。
アメリカでライセンス生産していたアイゾット社の「アイゾット・ラコステ」も人気が高く、現在ではライセンス契約が切れたため、デッド・ストックかリサイクル・ショップでしか入手できない。日本ではファブリカがライセンス生産する「ファブリカ・ラコステ」が、日本人向けのサイズ設定、品質の良い縫製、多様なデザインが好評となっている。
02 S/Sからはクリストフ・ルメールをクリエイティブ・ディレクターに迎え、イメージを一新しており、ファッション製の高いアイテムを出している。クリストフは「ラコステではデザイナーの意志を主張するより、ラコステの歴史を尊重することが重要だ」と語っている。03年からスタートした銀色のワニがシンボルの「クラブライン」は、ラコステの製品群の中でも、品質、デザイン・価格共に最高級のラインとなっている。
フランス・テニス界伝説のプレーヤーは、ファッションの世界でも伝説になろうとしている。




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