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桃太郎のビジネスコラム 165

☆ ピアニストの憧れ☆

2007.08.28号  


深さと豊かさを備えた低音と、煌びやかな高音。小鳥がさえずるようなピアニッシモから、二千人のコンサートホールでも響き渡るフォルテまで。「比類なき響き」と称される名作に、多くのピアニスト達が憧れてきた。
スタインウェイのピアノはベヒシュタインや、ベーゼンドルファーと並んで、ある時期まで御三家と呼ばれてきた。なかでもスタインウェイのピアノは、多くの伝説的なピアニストや作曲家達が限りない信奉を寄せてきた。その結果として「神々の楽器」とまで呼ばれ、世界で最も有名なピアノとして知られるようになった。
1836年にドイツ・ニーダーザクセン州の家具職人であったハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェグは、ヘルツ地方ゼーセンにある自宅キッチンで初めてピアノを造った。
その後10年間で482台もの楽器を製作することになる。そのなかの1台は、今でもニューヨークにあるメトロポリタン美術館に展示されている。
1850年には家族と共にアメリカ合衆国に移住し、その3年後にヘンリー・エンゲルハート・スタインウェイと名前を変えた。そしてニューヨークでスタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)を設立した。1855年にクリスタル宮殿で「アメリカン・インスティチュート・フェアー」が開催され、ここで弾かれたスタインウェイのピアノは、高い品質のピアノであることが公式に認められた。1867年に開かれたパリ万国博覧会では、公式報告書でスタインウェイのピアノが、賞賛を浴びた事が記されている。1880年にはヘンリーの母国であるドイツ・ハンブルグに生産拠点を設立。1903年に出荷台数が10万台に達し、記念すべき10万台目のピアノがホワイトハウスに寄贈された。

ヘンリー・エンゲルハート・スタインウェイは優れたピアノ職人であったが、正式社名を「スタインウェイと息子達」としたように、彼の息子達もピアノの設計や、ビジネスに才能を発揮した。
一家がニューヨークに来たとき、ウィリアム・スタインウェイは14歳であった。ビジネスを会社組織にして初代社長となった彼は、ショールームや工場を拡張した有能な経営者としての印象が強いが、労働組合には厳格に対処し、展示会の受賞のための運動や、アーティストを招聘するための運動では、過剰な手段を執ったこともあった。
冷徹な経営者としての一面もあったが、困った人達や友人達のためには、手をさしのべることも忘れなかった。彼がニューヨークに来て勤めたウィリアム・ナンズ&カンパニーが倒産して給与が未払いになると、快くその給与を放棄し、その後は経営者の生活のために年金を払い続けたという。友人のクローバー・クリーブランドが、3度目に大統領選挙に立候補したときにも、スタインウェイ・ホールを提供し、演説会を行うなどの協力もした。
共通の友人の紹介でダイムラーの自動車販売会社も設立した。ロングアイランドに工場を移転させた後、従業員の通勤の便になるなることもありフェリーを就航させた。鉄道やバス事業の経営に乗り出した事もあった。友人達への協力や、会社としての事業拡張は結果として、ニューヨーク市の産業発展に寄与することにもなっていった。
スタインウェイ・ホールは1864年にショールーム部分が完成し、その翌々年には2000席のコンサートホールがオープンした。このホールはニューヨークの音楽の殿堂として、様々なコンサートや、演説会や講演会に利用され、カーネギー・ホールの完成を受けて使命を終えた。ウィリアムは多くの演奏家達にも支援の手をさしのべていた。特にヨーロッパでも一流ピアニストであった、アントン・ルビンシュタインを初めて招聘したのもウィリアムだった。ルビンシュタインがスタインウェイ・ホールで弾いた、さよならコンサートでは4000人の聴衆が集まったとされる。そして彼は「スタインウェイだけがスタインウェイです。世界の何処にも、そのようなものはありません」と讃えたという。
ウィリアムの人柄と人脈を通して、多くの文化人や財界人、そして協力者達の信頼を得たことが、スタインウェイ社の成功の基盤となった。1896年にウィリアムが亡くなったときには、ニューヨークタイムズ紙は社説で彼の功績を讃え、市長は半旗を掲げて死を悼んだ。
ウィリアムの手腕と功績は、一企業の社長という以上に、当時のニューヨーク市にとっては、大きな存在となっていた。

ベーゼンドルファーなどのヨーロッパの名門メーカーは、ピアノを残響豊かな宮殿などで使用することを前提として造られていた。一方のスタインウェイは、産業革命で豊になったとはいえ、アメリカ市民が利用する音響的には貧弱な数千人規模の、多目的ホールでの使用を前提としたピアノ造りであった。独自の考えに基づくピアノ造りは、現在では常識となっている音響工学を、設計に取り入れる手法を生み出した。
スタインウェイのピアノは、透明感溢れる音色に特徴がある。ジャズやクラッシックだけでなく、音楽のジャンルを問わず弾くことができる。特に電気信号へ変換するマイクなどを通した場合にも、違和感なく聞くことができる。因ってレコーディングする場合や、放送局で使用する場合では、他を圧倒しており、独占的なシェアーを握ることになった。
創業以来、百を超える特許を抱え、ピアノ造りで革命を起こしてきたスタインウェイは、世界的に広くピアノ製造業者の規範となった。これらのことから、現代のピアノはスタインウェイによって完成されたと言える。

1941年、第二次世界大戦にアメリカが参戦し、スタインウェイ・ハンブルグは敵国財産として、ドイツ政府の管理下におかれた。2年後に大戦の爆撃によって工場は破壊されてしまった。1953年はスタインウェイ創業100周年を迎え、ハンブルグの中心部であるコロナーデンにスタインウェイ・ハウスがオープンされる。
1988年には50万台目のピアノが製造され、アメリカの家具デザイナー、ウェンデル・キャッスルが9ヶ月かけてデザインをした。又、このピアノに花を添えたのは、世界中のコンサートでスタインウェイを弾く、800超えるピアニスト達の直筆サインが、刷り込まれていたことだった。翌年には鍵盤に象牙を使用することを止めた。樹脂製の鍵盤を使用することで、動物保護にも関心を寄せる企業の先駆けとなった。
1900年代後半になって、スタインウェイの経営は順風満帆とはいかず、1972年にCBSによって買収された。その後は複数の個人投資家への売却を経て、1995年にセルマーの傘下に入り、現在は旧UMIグループと「スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメント」を核とする楽器製造企業複合体を形成している。この企業体は1990年代後半にはアメリカ経済のバブル現象で、楽器業として最も高い売上高をあげ、財務体質を急速に改善させていった。
大戦の敗戦国であるドイツや、ヨーロッパ諸国のピアノ・メーカーが、戦災で壊滅的打撃を受けて疲弊していた。一方、財務体質が改善されつつあったスタインウェイは、良質な素材の確保では圧倒的優位に立ち、戦後の高級ピアノ市場で、独占的なシェアーを確保するに至った。
2003年にスタインウェイは、創業150周年を迎えた。これを記念してファッション・デザイナーのカール・ラガーフェルド(既号164.ブランド名はバレエ組曲から)にデザインを委嘱し「創立150周年記念限定 カール・ラガーフェルド・モデル」
を発売した。創立者であるヘンリー・エンゲルハート・スタインウェイの、「可能な限り最高のピアノを」の哲学を継承し、斬新でありながら、長い時の経過にも耐えられるモデルを完成させた。
日本では1997年よりスタインウェイ・ジャパンが、100%子会社として展開している。輸入総卸元として全国20の特約店を通して販売。あわせて調律技術者の研修も行っている。




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