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桃太郎のビジネスコラム 167

☆ 60万人の「聖地」巡礼☆

2007.09.11号  

 7月4日スポーツ報知は、3日に米メディアが伝えたニュースとして、米作詞家ハイ・ザレットがコネティカット州ウェスポートの自宅において、99歳で亡くなったと報じた。

Oh, my love, my darling,        あ〜 僕の恋人よ 愛しい人よ
I’ve hungered for your touch      僕は君の肌のぬくもりに飢えてきた
a long, lonely time.          長い間ひとりぼっちで
Time goes by so slowly         時が過ぎゆくのはこんなに遅いけど
and time can do so much,        時は多くを変えてしまう

Are You Still Mine ?          君は今でも僕のものなのかい?
I need your love, I need your love,   君の愛が欲しい 君の愛が欲しいんだ
God Speed your love to me !       神よ、彼女の愛を、今すぐ届けておくれ!

Lonely river flow            孤独な川は流れ
to the sea. to the sea         海へ 海へと注ぐ
To the open arms of the sea       すべてを抱き留めてくれる海へ
Lonely river sigh            孤独な川は叫ぶ
Wait for me. Wait for me        待っていて 待っていて欲しいんだ
I’ll be coming home wait for me !   愛する君の処へ行くから 待っていておくれ!

アレックス・ノースが作曲し、ハイ・ザレットが作詞した「アンチェインド・メロディ」の一節である。55年公開の映画「アンチェインド」は、トッド・ダンカンが演じた囚人ビルが恋人に逢いたくて、刑期を全うして故郷に帰るか、脱獄して逢いに行くか悩む物語。「アンチェインド・メロディ」は、映画のオリジナル曲としてビルが歌っていた。(B級映画だったためフィルムも、主題曲のディスクも現存していないという)トッド・ダンカンは黒人声楽家の草分け的存在で、ニューヨークのシティ・オペラに黒人歌手として、初めて登場したことでも知られている。その才能はガーシュインにも認められ、35年に歴史的名作「ポギーとペス」が初演されたとき、初代のポギー役に抜擢された。この曲は、56年のアカデミー賞にノミネートされたが、オスカーは「慕情」に譲ってしまった。その後5人の歌手がカバーしたがヒットせず、65年にザ・ライチャス・ブラザーズがカバーして大ブレイク。さらに90年、ザ・ライチャス・ブラザーズが映画「ゴースト/ニューヨークの幻」のために再び収録しリバイバル・ヒットとなった。ザ・ライチャス・ブラザーズの名唱により、スタンダードとなったこの曲は、20世紀で最も多く演奏された曲の一つでもある。ビング・クロスビー、ペリー・コモ、パット・ブーン、アンディ・ウィリアムス、クリフ・リチャード、ジョージ・ベンソン、ニール・ダイヤモンド、トム・クック、ジョン・レノンなど多くがカバーしており、シングルやアルバムに収録されている。この錚々たるアーティスト達こそ、名曲の証となっている。

 エルビス・プレスリーは幼い頃から、黒人音楽に慣れ親しんでいた。「アンチェインド・メロディ」は、デビューの頃から人生の歩みと共に聴いてきた曲でもある。築き上げてきた富と名声、プリシラとリサ・マリーが去っていった挫折。そして、その栄光の軌跡が終局を迎えようとしていた時、愛を求める歌は悲痛な叫びにも似て・・。自らの思いを歌に託すエルビスを思うと、胸に迫りくるものがある。ピアノを演奏し、入魂の弾き語りを炸裂させたライブは、アルバム「The Great Performances」に収録されている。肥満した肉体を、はち切れんばかりのジャンプ・スーツに包み、烈しくピアノを弾き、汗がしたたり落ちる。聴衆は孤高の発する力に圧倒される。熱唱するとは、このような唄い方なんだと、納得してしまう。間奏の時には人なつっこい顔で、聴衆を見ながら微笑む。次にはマイクを差し出すチャーリー・ホッジを、ニタッと笑顔で見上げる。「声の調子はどうだい? 衰えていないだろう?」と、目で会話をする。そして感動的なエンディングに向かって、God Speed your love to meと歌いつぐ。曲のクライマックスである。ラストの高音パートであるto から me にかけての歌い方は、自分の人生の、何かが込められているような情熱が迸っている。もしかしたら、エルビスからプリシラやリサ・マリーに対するメッセージ・ソングだったのかも知れない。歌い終わってYeah(よし、やった)と、かけ声を掛けてピアノから立ち上がった様は、聴衆に向かって「どうだい?僕の唄に満足してくれたかい?」と、誇らしげに語っているようでもあった。音源はCBSがテレビスペシャル「Elvis In Concert」用に撮影していたものだった。まさか誰もが、この音源や映像がエルビスの遺作になろうとは、思っていなかったであろう。77年6月21日のことだった。そして2ヶ月後の8月16日、エルビスは逝ってしまった。

 01年6月30日、日本の総理大臣小泉純一郎は、とってもゴキゲンだった。米ブッシュ大統領がキャンプデービットへ招待してくれたのだ。芝生の上でキャッチボールをし、野球の体験話をして、“真昼の決闘”など映画の話にも興じた。二人の絆の始まりである。06年7月1日washingtonpost.comは「Bush Takes Koizumi For Tour of Graceland」と報じた。大統領は外国にいる親友が、首相として9月に引退するのを前に、最後のアメリカ訪問のプレゼントとして、伝説的な歌手が住んでいた大邸宅へ、特別な旅行を計画した。大統領はワシントンからメンフィスに飛ぶための、8時間の日程をやりくりし、滅多に同行取材をやらないのに、300人もの記者が同行した。世界中のファンが訪れる聖地(エルビス博物館)は、現職大統領の初めての訪問をもてなすために、82年の開館以来、初めて一般客を閉め出した。博物館の中にはプレスセンターまで設置された。一方の小泉首相は、かつて自分のお気に入りを選曲して、CDを発売するほどのエルビス・ファンである。大統領専用機のスタッフは、大統領とローラ・ブッシュ、それに小泉首相か搭乗するときには、インターホン越しに“ラブミーテンダー”と“ドントビークルーエル”をプレイした。そして空の旅では、エルビスの映画が観賞できるようになっていた。グレースランドでは、56年製の紫色キャデラック・エルドラド・コンパーチブルや、映画ブルーハワイで使われた60年製MGなど、エルビスお気に入りの車が展示されていた。プリシラとリサ・マリーが出迎えてくれ、小泉は有頂天になっていた。小泉はリサ・マリーに笑いかけて「貴女はエルビスに似ている」と言った。「Arigato」と、リサ・マリーが感謝を返すと、「エルビスと私は誕生日が同じなんです」と付け加えた。大統領は「チョット聴いてくれないか」と、ワシントンポスト紙のリポーターを呼んだ。小泉は“ラブミーテンダー”を少し歌い始め、それから“好きにならずにいられない”を歌った。大統領は「君は“ブルー・スェード・シューズ”を歌うと思ったよ」と言った。プリシラはエルビスのプライベート・グッズを小泉に披露した。小泉はその中にあったサングラスを、逸る思いで掴んだ。そして勢いよく身につけ、ギターを弾く振りをして、動きもエルビスの真似をして“Glory, Glory, Hallelujah ”と歌い出した。大統領は小泉を楽しく過ごさせてやりたかったのだ。「私は彼がエルビスを、好きなのは知っていた。でも、こんなにもエルビスを、愛しているとは知らなかった」大統領は、はしゃぐ小泉を見ながら、この日の任務を終了した。

 アメリカが生んだロック歌手エルビス・プレスリーの、没後30年の命日にあたる8月16日、エルビスの大邸宅や墓地がある米テネシー州メンフィスのグレースランドには、世界中から数万人のファンが訪れ「ロックの王様」に祈りを捧げた。命日の前日である15日には、エルビスを偲ぶキャンドル・サービスが行われ、会場付近には早朝からファンの長蛇の列ができた。命日を挟む一週間で、約7万人以上のファンが詰めかけるという。邸宅脇の庭園にあるエルビスの墓には、ファンが列をつくって順番に追悼。墓の周辺はファンが持ち寄った、赤いバラなどの花で埋め尽くされた。40度近い猛暑の中、ファンの行列は絶えることがなく、騒ぎは熱中症で死者もでるほどヒートアップしていた。敷地内にはファンからの贈り物も飾られ、日本のファンからの花飾りも置かれていた。42歳の若さで帰らぬ人となったエルビスは、国外でのツアーは行わなかった。それにも拘わらず、その人気は死後も上昇を続けた。エルビスの「聖地」とされるグレースランドには、世界中から巡礼に訪れるファンが、毎年60万人にも上るという。昨年、エルビス博物館は米政府から歴史建造物に指定された。(参考資料:8月17日 産経新聞・速報記事)


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