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桃太郎のビジネスコラム 168

☆ 横浜のシンボル☆

2007.09.18号  


日本に外国様式のホテルができたのは、17世紀頃と言われている。その元禄時代の頃は、鎖国をしていた時期で、唯一通商国として滞在を、許されたのはオランダ人であった。
本格的な設備を持った最初のホテルは、1867年にできた東京・築地の「築地ホテル」であるとされている。
1854年の日米和親条約の締結以降、欧米との通商を余儀なくされ、それに伴って往来の激しくなった外国人に、対応しなければ成らなくなった背景があったようだ。明治時代になるとホテル建設は急激に増加し、その多くは外国人専用であった。
1887年初頭、外務大臣井上馨は財界の大物、渋沢栄一や大倉喜八郎らに諮り、首都・東京に新ホテルの建設を進めた。総建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造り3層建ての「帝国ホテル」(既号:51 泊まりたいホテル)が、189011月に完成した。
1907年に帝国ホテルとメトロポールホテルが合併して「株式会社 帝国ホテル」が設立された。大正時代になりアメリカ人フランク・ロイド・ライトの設計により、新館が完成したが、その落成披露の準備中に関東大震災が発生した。

横浜港は船が日本と外国の往来の主流であった頃、その玄関口として多くの渡航者達が、足を踏みおろす場所であった。山下町界隈では渡航者達の宿として、多くのホテルが立ち並んでいた。なかには帝国ホテルを凌ぐ繁栄をもって、“横浜のシンボル”と謳われた「グランドホテル」があった。しかし、1923年9月1日に起こった関東大震災は、華やかだったホテル街を瓦礫の中へ埋めてしまった。それまでは東京に勝るほどの、発展を遂げてきた横浜市も壊滅的な被害を受けた。やむなく被災地には外国人のために仮設宿泊所が建てられたが、その光景は「テントホテル」と揶揄されるほど無惨なものであった。来日する外国人にとっても、くつろぐ事のできない横浜は東京への通過点となってしまった。
そこで当時の有吉忠一横浜市長は、市議会にホテル建設計画を提出。市政財界の支援を得て“横浜復興のシンボル”として「ホテルニューグランド」の建設に乗り出した。ホテル名は市民から公募されたものである。かつてのグランドホテルに代わる新しい横浜のシンボルとしての意味と、「(震災後の)新しい大地」という、復興の願いを込めたものとなった。192712月1日、瓦礫を埋め立てた山下公園を正面にして、ホテルは産声をあげた。

ダグラス・マッカーサーは1903年に、米陸軍士官学校を卒業した。彼の自伝には、卒業後に父であるアーサー・マッカーサー中将と、9ヶ月に亘るアジア旅行をし、思い出深い国として日本を挙げている。1937年にはフィリピン軍事顧問として、当時のケソン大統領に随行し、帰途に訪日している。再婚したジーン夫人とのハネムーンも日本であった。
その後も含め四回の来日で常宿としていたのが、ホテルニューグランドであった。
1945年8月30日、午後2時05分にダグラス・マッカーサーは、愛機バターン号で厚木基地に降り立った(既号62.マッカーサーのサングラス)。日本への五度目の訪問目的は、皮肉にも大好きな日本を占領統治することだった。
厚木飛行場に着いて「閣下、これからどちらへ」と、問われたマッカーサーは一言「ホテルニューグランド」。世界のVIPに愛され、のちに「ヨコハマのミスターシェークハンド」と呼ばれた二代目会長・野村洋三が、マッカーサーを迎え入れた。そして、最初に詫びたのが、何のもてなしもできないことだった。ホテルニューグランドは戦禍を免れたとはいえ、横浜は空襲で壊滅的打撃を受けており、猛暑のさなかに扇風機も用意できない惨状であった。その夜の献立は干鱈を使ったムニエルだったが、彼は手を付けなかったという。
サービスが行き届かず恐縮するボーイ達にも、彼は礼儀正しく応対する人物だった。数日後、横浜市民に米軍から大量の援助物資が届けられたという。
マッカーサー元帥専用室に当てられたのは、横浜港に面した3階にある315号室だった。副官には「気に入った」と告げていたという。彼は僅か3日間の滞在で、次の居留地へ移ることになったが、同ホテルは315号室を「マッカーサーズ・スイート」として、今日に至るまで記念にしている。

このホテルにはもう一室特別な客室がある。小説家・大佛次郎が 1931年から 10年間も
長逗留した318号室である。「鞍馬天狗」シリーズで空前の人気を博した大佛は、「318号室は僕の部屋だよ」と言って憚らなかった。1973年に築地にある国立ガンセンターで亡くなったとき、鎌倉の自宅へ帰る遺体は、ホテルに立ち寄り全従業員に見送られた。
ホテルニューグランドは外国人専用ホテルとして、創業当初からサービスに定評があったが、1964年の東京オリンピックや、1970年の大阪万博の開催などを契機に、ホテルを取り巻く環境が変わり、日本人の利用度も高まるようになった。団塊の世代が成人し、彼らの新しい価値観や、消費行動が時代をリードするようになった。「ディスカバージャパン」が流行語にもなり、思い思いのスタイルで国内旅行を楽しむ日本人が増え始めた。若い女性達は「アンノン族」と呼ばれ、より洗練されたライフスタイルを求めていた。
ホテルニューグランドでは、時代の変化に対応した企画を次々とスタートさせた。日本人客に対して初めて仕掛けたアプローチが新婚セットであった。その後もパーティーの企画・勧誘などを展開した。
創業以来の「外国人専用ホテル」 「伝統」 「ヨコハマ」 「質の高いサービス」等々、多くのセールスポイントや、イメージに魅せられ、着実に日本人客にも受け入れられていった。
1991年には新館「ニューグランドタワー」をオープンさせ、翌年には本館前面改装工事も終えた。 1997年には新館屋上にスカイチャペルの増築も行った。
2002年には横浜高島屋にカフェをオープンするなど、伝統を守りながらも、常に新しい歴史を開くホテルとして、横浜のシンボルであり続けている。




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