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桃太郎のビジネスコラム 193

☆ 津軽藩のサクラ☆

2008.03.18号  


サクラは日本の文化や風土に最も深く、関わってきた花木である。待ちこがれた春になると絢爛豪華に咲き乱れ、開花後には直ぐに花吹雪となって散ってしまう姿は、日本人の心情に訴えるものがある。江戸・享保時代の国文学者・本居宣長は「もののあわれ」を説いたが、まさにサクラは“もののあわれ”を具現した花である。
サクラの語源は諸説あるが、昔はサクラの咲き方や花のもちかたで、その年の稲が豊作か凶作かを占ったとされる。「サ」は稲の精霊、「クラ」は花の咲く様が神座(かみくら=集まり籠もっている様)のようなことから、サクラと称せられたという。
サクラの散る様を惜しんで、詠われるようになったのは、平安時代の貴族達が詠うようになってからと云われる。800年頃に編纂された「万葉集」には、40首しか詠われなかったが、905年に完成した「古今和歌集」には、百首以上も詠まれている。この時代は、894年に藤原道真は遣唐使に任ぜられたが、道真の意見により遣唐使が廃止され、道真は太宰権師に左遷された。しかし、これにより日本独自の文化が芽生える契機となった。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、西行櫻の銘木を残した歌人・西行法師は、「願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」と詠った。
サクラを愛でるために栽培し、サクラ文化が開花するようになったのは、室町時代以降である。室町幕府の3代将軍・足利義満が、1378年に京都・室町で築いた新邸は「花の御所」と呼ばれ、数々の名桜が咲き誇ったと云われる。その後は戦国時代に突入し、各地にある名桜は絶やされてしまったが、織田信長の天下統一により、再びサクラを愛でる平和が訪れた。豊臣秀吉の下で栄華を極めた安土桃山時代には、屏風絵・能衣裳など多くの工芸品の意匠に、サクラの文様が使われるようになった。

江戸時代になり、花好きの将軍や大名の保護育成により、サクラ文化は全盛期となった。
特に寛政から天保時代にかけての50年間は、250種以上の品種改良が進められたと云う。
一般庶民の間で花見を楽しむようになったのは、8代将軍吉宗の頃からだと云われている。
吉宗はサクラの植栽を奨励し、向島界隈の墨田堤や飛鳥山では、庶民の娯楽として大いに賑わった。当時はソメイヨシノが主流となっている現在と違い、いろいろな品種のサクラが、時期をずらしながら咲き誇り、花見ができる期間は現在よりも長かったと云われる。
上野のお山(東叡山)も名所であったが、将軍家とつながる寛永寺の境内となることから、庶民には敷居の高い場所であった。そもそも花見は梅が主役であったが、平安時代からサクラに変わったと云われる。「日本後記」には、「花宴の節はここに始まる」と記されている。当時の花見は貴族や上流階級の人々に限られていた。現在ではサクラを観ることが出来なくなった御殿山もサクラの名所であった。芝・増上寺の鐘の音が御殿山まで響いてきたと云われ、「御殿山 芝のひびきで 花が散り」という句が残っている。
江戸・染井村(現在の東京・豊島区駒込近辺)の植木屋が、ソメイヨシノを売り出したのは、サクラ栽培が全盛期を過ぎた頃で、名桜の寿命も過ぎるようになった幕末であった。
ソメイヨシノは接ぎ木によって容易に増やすことができ、生育も早くて花付きもよい上、花が大きくて美しいことから江戸を中心に急速に広まった。現在ではサクラというと、ソメイヨシノを指すようになった。
その後、明治・大正・昭和の時代になって、日清・日露の戦争、第一次・第二次の世界大戦に突入することになり、「散華」という言葉と共に、軍国主義を象徴する花となった。庶民も花見などとは、云っていられない時期で、不具を託った時代もあった。
そんな中でも、1909年に東京市長・尾崎行雄が 2000本のサクラを、米国ワシントン州に贈った。これがポトマック河畔のサクラである。しかし、この時に贈られたソメイヨシノは、虫害のため全て焼却されてしまった。1912年に改めて 3000本のサクラを贈り、現在に至っている。米国では大戦で日米が対立したときに、このサクラを切り倒そうという運動もあった。花を愛する心は万国共通で、大切に守られたサクラは、今でも春には美しい花を咲かせ、毎年「桜まつり」が行われている。日本から最初に送った苗木は、足立区・荒川土手の桜であった。しかし、このサクラは大戦で焼失したため、米国側がポトマックのサクラの苗木を贈り、1992年に接ぎ木をして数十本が植えられた

提灯やライトに照らされて、闇夜に浮かび上がるサクラは、昼間に観るサクラとは違った風情がある。日経プラス1では、光に映える夜桜を堪能出来る場所のランキングを発表。
旅行会社や各地の観光関係者らが、全国60ヶ所の夜桜スポットを候補として選び、11人の専門家がアンケート調査にてランキングを作成した。
ダントツ1位は青森県弘前市の弘前公園。2位は長野県伊那市の高遠城址公園。3位、秋田県仙北市の桧木内川堤・武家屋敷通り。4位、新潟県上越市の高田公園。5位、東京都千代田区の千鳥ヶ淵緑道と続いている。何れも昔の武家社会と関わりの深い場所である。
青森県の弘前公園は、11人の専門家の内5人がトップに挙げ、他を圧倒する得票で1位となった。約50ヘクタールの敷地にあり、天守閣や濠などをライトアップさせ、様々な見所を引き立てる工夫が凝らされている。天守閣や濠の周りがサクラ色に染められ、幻想的な景観を創り出している。特に西濠のサクラのトンネルは圧巻である。
公園全体の手入れも行き届いており、約2600本のサクラが闇夜に浮かぶ。今年も4月23日から5月5日に「弘前さくらまつり」が行われる。

津軽氏・津軽藩は天皇家や徳川家とも親戚となる由緒ある家柄である。2代目信枚には、将軍家から満天姫が嫁いでいる。元伯爵で旧津軽藩主の家柄である津軽家当主義孝の四女・華子は、正仁親王殿下と結婚され、戦後初の宮家である常陸宮家を創立された。
津軽藩は1567年に陸奥弘前藩として、4万7千石の初代藩主に津軽為信が就いた。徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた翌年の、1604年に為信が町割りに着手。
3年後に為信が京都にて永眠したため、信枚が22歳で2代目を継ぎ、高岡城(現・弘前城)の造築に着手し、1611年に東西約615叩南北約950叩49.2任両襪完成した。
1628年に高岡を弘前に改称し、弘前城と呼ばれるようになる。
5代信寿の時、藩士が京都から桜の苗木25本を持ち込み城内に植栽した。以後、城内を始め近隣にサクラだけでなく、松並木や銀杏などの植林植栽が行われるようになった。
1871年に廃藩置県により、弘前県となり、同年に青森県となった。1882年に旧藩士・菊池楯衛がソメイヨシノを1000本植栽。1901年から03年にかけて、旧藩士であった市会議員・内山覚弥の提案により、ソメイヨシノを 1000本植栽。14年には弘前在住の宮城県人会がシダレサクラを寄贈。52年に「津軽氏城跡弘前城跡」として国史址指定を受ける。
56年には市議・福士忠吉が7年木ソメイヨシノを 1300本寄贈。68年に市内ライオンズクラブが、本丸にヤニベニシダレを寄付。73年に県緑化推進委員会がソメイヨシノ95本、
八重桜50本寄贈し、外濠と二の丸に植えられた。 75年には開園 80周年記念として、三の丸に昭和桜24本を植栽。85年にも開園 90周年で、同じく三の丸に八重桜 11 25本が植えられた。89年には弘前公園が都市公園100選に選ばれる。2006年には日本の歴史公園100選に選ばれた。
現在の公園内には、1882年に菊池楯衛により植えられた1000本の内の1本と云われる、推定樹齢120年の日本最古のソメイヨシノがある。このソメイヨシノと、同時期に植えられたと思われる日本最大幹周のソメイヨシノもある。二の丸にある園内最大の大枝垂れは、
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年に弘前在住の宮城県人会が、寄贈したシダレサクラである。同時期に植栽され、棟方志功画伯が「御滝桜」と命名したシダレサクラもある。
弘前公園には市内外の個人や各種団体が、記念植樹などの植栽や寄付が多数行われている。公園内にはサクラだけでなく、推定樹齢400年の松や、銀杏も植えられており、その他草花等も多数手入れがされており、地域社会が一体となって、公園造りが行われている。




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