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桃太郎のビジネスコラム 195

☆ プロが選んだNO1旅館☆

2008.04.02号  


昨年のゴールデンウイークは、東京ミッドタウンなど新しくできた名所に人々が殺到し、成田空港では海外で過ごす人達が、過去最高となりごった返していた。一方、日本人にとって最高の癒しである温泉は、厳しい環境が続き、旅館やホテルも“勝ち組”と呼ばれる一部を除き苦境が続いている。日本屈指の温泉街である熱海も、老舗旅館がバタバタと廃業に追い込まれ、その跡地にリゾートマンションが次々と建設されている。全国で年間100
軒ほどの旅館が経営破綻しているという。
そんな中で、かき入れ時を目前にした325日、開湯1200年の歴史を誇る石川県・和倉温泉を、能登半島地震が直撃した。老舗温泉街の宿泊キャンセルは6万6千人、損失額は推定で20億円にも達した。27軒ある旅館の内、20軒以上が休業に追い込まれてしまった。
「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で、27年連続で1位に選ばれた「加賀屋」でも、客室が配管設備の損壊で水浸しになり、壁には亀裂が入り、食器が壊れるなどで、操業停止に追い込まれていた。加賀屋では「日本一の旅館」のプライドにかけて、営業できない期間を“おもてなしを高める”社内研修とし“災い転じて福となす”戦略をとった。
余震の不安と戦い、厳しい研修の末、約1ヶ月後に営業再開にこぎつけた。この苦境で経営側と社員達は、家族のような絆で一体となった接客に邁進するようになった。そして今年1月の第33回「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において、28年連続で総合1位の評価を得ることができた。

 今から約1200年前の大同年間、薬師岳の西麓に湯が沸き出したのが、和倉温泉の始まりと云われている。その後に噴火口は塞がれてしまったが、約900年前の永承年間の大地震により、今度は海の中に湯が噴き出したと伝えられている。湯は陸から100団の海中だったため、小舟で湯を汲み取りに行き、湯治に利用していたと云う。
加賀屋は石川県・七尾市和倉町にある。小田与吉郎は大百姓の三男坊であった。与吉郎は大変な力持ちで、田舎相撲では大関格だったという。ところが、百姓のような仕事は大嫌いで「一生のうちに庭を草履履きで歩いて過ごせる暮らしがしたい。そんなことが出来るような商売をする」というのが、口癖だったという。
与吉郎の父・与右衛門が持病のリュウマチに悩まされ、和倉の温泉へ湯治に通うようになった。乗り物など無い時代で、馬に乗り手綱を引かせて朝早く家を出、晩方に和倉へ着いたという。一週間、二週間の滞在もしばしばあり、暇にまかせて世間話をするうちに、定宿にしている館の前の宿屋に客が無いのに気がついた。聞くと、当時は湯本から埋桶で湯を引き、各旅館はその客の数によって組合に湯銭を払っていた。その宿屋では中庭に穴を掘ったら、湯が湧き出てきたため、自分の土地に自分が掘った湯なのに、組合に湯銭を払う理由はないと主張した。和倉に湧いた湯は組合の管理とする意見と対立し、村八分のようになってしまった。商売が出来なくなった宿屋は、百姓になっているとのことだった。
この話を父・与右衛門から聞いた与吉郎は、自分の性にあった商売を待ち望んでいた矢先であり、すぐさまに乗り出していった。数回の交渉にて商談成立へと進んだという。
当時のお金で三千円だったが、大百姓とはいえ三男坊にとって、そんな大金があるはずもなく、親類・縁者から借り集め、和倉へ移ることになった。十二室で三十人収容の古い旅館が、加賀屋のスタートであった。時に、1906910日のことだった。

 第54代横綱・輪島大士は石川県・七尾市の出身である。金沢高校や日本大学の相撲部で活躍し、70年1月場所に幕下付出でデビュー。幕下を2場所連続で全勝優勝して、当時の最短記録で十両昇進。十両も4場所で通過して、初土俵から1年で入幕を果たした。
72年の9月場所では千秋楽に、貴ノ花と水入り大相撲を制し、場所後は共に大関昇進。
73年5月場所では全勝優勝して、場所後に横綱に推挙される。史上初の学生相撲出身の横綱であり、本名の四股名で横綱になったのも初であった。
74年7月場所では大関・北の湖を1差で追いかけて千秋楽を迎えた。下馬評では圧倒的優位にあった北の湖を、本割り結びの一番、決定戦も「黄金の左」下手投げで破り、横綱の意地を見せた。場所後は北の湖も横綱に推挙され、輪湖時代到来と思われたが、翌年には腰痛で3場所連続休場するなど不振を続けた。しかし、輪島は復活を遂げた。76年、77年は真の輪湖時代を迎えた。4度の相星決戦、決定戦が1度、互いに5度の優勝を遂げた。
77年の7月場所では、3度目の全勝優勝、11月場所では相星決戦を制し、大鵬に次いで双葉山と並ぶ12度目の優勝を勝ち取った。この頃が輪島の絶頂期でもあった。晩年は若手力士が台頭する中、797月場所、8011月場所と優勝を飾り先輩横綱としての意地を見せつけたのは、立派な精神力と言えよう。
力士引退後は相撲界においても、転身したプロレス界においてもストレスの溜まる時期があった。その後の評論家やタレントとしての活動は、持って生まれた性格の良さと、不具の時期にあった誤解も解け、各界に知遇を得て再び活発な活動をしている。テレビのクイズやバラエティー番組でも、持ち前のボケキャラで人気が再沸騰した。
かつてクイズ番組で、早押しボタンを押したものの、答えが解らなくなり「えっと〜」と考え込んでいたら正解だった。出された問題は「日本の歴史で鎌倉・室町・江戸のうち、一番長かったのは何時代でしょう」だった。バラエティー番組では、女性の名前を訊ねたとき「“きょうこさん”“きょう”は東京の京ですか、京都の京ですか」。兄弟を訊ねられると「兄弟はいないけど、妹が一人いる」。海外旅行では、トイレ(WC)を探して「CMは何処だ」等々逸話が山ほどある。この飾らない人柄が現在の人気の秘密でもあろう。
現在、輪島は石川県の観光大使としても活躍している。地元の優良店が東京などに、出店するときには応援に駆けつけ、場を盛り上げている。地元イベントにも積極的に足を運ぶ。
今年2月にも1月場所で優勝したばかりの、弟分である横綱・白鵬を引き連れて地元入り。
若い関取が子供達と稽古をすると「横綱も土俵に立ちたくなったんじゃないの」と“チビッコ力士と現役横綱の対決”や“横綱と赤ちゃんのだっこ撮影”を演出。トークショーでは、昨年の能登半島地震復興の激励などに尽力している。もちろん、地元入りしたときには必ず、子供の頃から懇意にしている加賀屋に立ち寄っている。

 加賀屋は開業したときの経緯からしても、和倉では三流旅館であった。しかし、温泉街の館主達の必死の努力で、地方からの団体客が押し寄せるようになった。大手企業の団体客は、和倉にある一流旅館だけでは収容しきれず、何軒かに分散して宿泊する事もあった。
加賀屋でも客が増えるにつけ、一流のお客に三流のもてなしでは、和倉の名を汚す。中興の祖とも呼べる二代目女将・小田孝は、和倉で一番の接客で答えようとした。館主である夫・与之正も堅実経営で支えた。二人で「声なくして人を呼ぶ」経営に邁進した。現在のように、テレビCMなど無い時代である。口コミで客を呼ぶには、徹底したサービスで客に喜んでもらい、リピーターとなって貰うしか方法が無かった。客の出向かいには金沢駅まで出向くことも厭わず、接客や料理の吟味は勿論のこと、些細な事まで気配りを徹底させた。社員達にも徹底させるためには、女将自らが先頭に立った。
無我夢中の努力が実り、加賀屋も戦後には一流と云われる旅館となった。戦後の落ち着きを取り戻した58年には、昭和天皇・皇后両陛下が能登半島視察の際の宿泊を賜ることとなった。その後も一流と云われることに、恥じない経営努力に努め、サービスにはより一層の磨きが掛けられた。68年には天皇陛下(当時の皇太子殿下)の宿泊も賜った。この間に客室も再三の増築をはたし、和倉だけでなく日本の一流旅館となっていった。
81年、第6回「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において、初めて総合1位の評価を得た。83年には再び昭和天皇の宿泊を賜り、陛下は女将に「元気でやっているかい」と、声を掛けた。女将は感激で身が震える思いがしたという。後日、女将が著した奮闘記のタイトルを、陛下から頂いた言葉「元気でやっているかい」として出版した。
加賀屋は28年連続で総合1位の評価を得たが、この間に女将の座は、三代目となる小田真弓に受け継がれている。先般も加賀屋を題材としたドキュメンタリー番組が、TV放映されていたが、一流と云われる座を28年間も守り続けることの凄さを、改めて知らされた思いである。




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