ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 236

☆ フリーターの元祖☆

2009.01.21号  

山下亀三郎は1867年、伊予宇和島の近くにある喜佐方という村で生まれた。家は庄屋で裕福な家庭であった。16歳の時に自から旧制中学を中退し、志を立てて家を出た。京都で代用教員のようなことをした後、東京へ出て明治法律学校へ入る。しかし、私立学校で教師のアルバイトをしているうちに、吉原で遊ぶことを覚えて志も頓挫。法律学校も辞めてしまうことになる。その後は二十歳過ぎまで定職にも就かず、親から無心する生活が続き、現在で云うフリーターのような生活振りだった。
余りの放蕩三昧に田舎の母親は愛想を尽かし、最近の息子を溺愛する母親では、考えられない事を始めた。東京でコレラが流行り数百人の死者がでた時、近所の氏神様へお参りに行き「どうか亀三郎がコロリを患って死にますように・・」と本気で祈ったという。コレラなら長患いをしないで、コロリと逝くので家族や世間に迷惑を掛けないで済むと考えたのだ。それほど親も手を焼く道楽息子だった。
亀三郎は放蕩を続けながらも、世間の荒波に揉まれて、人情と商いの機微を学んでいた。
生活に落ち着きを取り戻した亀三郎は、22歳になって製紙会社の店員に雇われ、その後はマンガンを扱う店で番頭となり、商才を発揮するようになる。やがて、開港された横浜に居つくようになり所帯も持った。妻と共に用紙販売会社を開き、二人の丁稚も雇えるようになったが、悪い債権を掴まされて借金が嵩み倒産。亀三郎は債務の返済に汲々となったが、関西の石炭卸商と組んで「横浜石炭商会」を立ち上げた。石炭は高値で売れに売れた。
債務を返済し、野毛山の麓に家も借り、肩身の狭い生活から解放された。亀三郎の運気は、石炭の商いに関わってから上向きとなり、生涯忘れることの出来ない事に遭遇した。

 1896年3月15日、横浜港では日本郵船の巨大船「土佐丸」が出航の準備を整えていた。行き先は神戸、下関、香港を経由してロンドン、アントワープであった。その頃、世界の七つの海は大英帝国の支配下にあった。ヨーロッパ航路は英国中心の同盟国で固められ、新参者である日本の船会社が、参入するのは容易ではない時代だった。これまで日本の第一線で活躍していたのは、2000t級の船が主流だったが、世界の定期航路に参入するには5000t級、14ノット以上の新鋭船が必要になる。世界規模の支店・代理店網や人材の育成など、当時日本最大の会社であった日本郵船でも、社運を賭けた大事業であった。日本郵船は三菱財閥の総力を結集して航路開設に挑戦した。
横浜公園では日本海運が、初のヨーロッパ定期航路の就航を祝う大園遊会が開かれていた。
大礼服に身を固めた紳士淑女が集まり、盛大な賑わいであった。亀三郎も賑わいにつられて、着物に角帯を締めて公園に向かったが、そのような席に招かれる筈も、資格もない亀三郎は路傍にたたずみ、遠くからその盛況を眺めた。日本の海運が世界の銀座通りに乗り出す歴史的瞬間を祝う様子は、亀三郎にとっては眩しく映るのみであった。
「俺もいつかは、あの輪のなかに・・」「日本郵船の岩崎弥太郎は隣国の土佐だ。三菱財閥も幕末や維新の動乱でのしあがった成金ではないか・・」亀三郎の闘争心に火がついた。
土佐丸の出航の汽笛が横浜の空を太く突き破り、ドラの音が鳴り渡った。亀三郎は麦酒の小瓶と茶碗を持って家を飛び出し、野毛山にある伊勢山皇大神宮に駆け上った。境内に着くや茶碗に麦酒をついで、出航する土佐丸に向かって、幾度も茶碗を掲げて乾杯を叫んだ。
石炭の商いが軌道に乗ったとはいえ、亀三郎が船主になるなど夢のまた夢のことである。
「今に見ておれ。俺も船主になってイギリスやアメリカに遣れる身分になってやる」亀三郎、29歳の決意であった。

 この当時は石炭が最大のエネルギー源だった。船や列車の蒸気機関、塩や砂糖の精製、暖房も薪から石炭に変わろうとしていた。石炭の供給を握っていたのも、三菱や三井の大財閥であった。三菱は長崎の高島炭坑を有し、三井は福岡の三池炭坑払い下げを受け、アジアにも販路を拡大していた。国内では石炭と共に、新しい産業が勃興しようとしていた。
一方、明治以降の海運業界は政府の手厚い保護の下、日本郵船と大阪商船が先導。大久保利通が岩崎弥太郎に御用船の特権を与えた事が始まりとなり、両社は多くの船の払い下げを受けた。定期航路を独占し、補助金同様の貸し付けも受けていた。
日本郵船では土佐丸を第一船として、欧州・米国・豪州の三大航路に定期航路を一挙に開設し、世界の海運界を驚愕させた。それまでの定期航路は遠洋と云えども、インド洋までであったが、太平洋を制覇し、インド洋や地中海を経て、大西洋にまで至る大航路である。
しかし、大冒険であった三大航路も大成功を収め、名声と信用は世界中に広まり、日本は一等国になったと称賛された。1915年には世界一周航路も開設され、第一次世界大戦を経て航路は世界中に張り巡らされた。これにより、造船国としての技術は磨かれ、工業製品の輸出は世界の隅々まで伸びて行くようになった。

 亀三郎は土佐丸の出航を野毛山から見送り、船を持つ野望に駆られていた。やがて、石炭の商いで1万円の資金を蓄えた。ちょうどその頃、イギリスの会社が古船を5万円で売却するという情報を得た。気持ちの逸る亀三郎は不足の4万円の目処も立たないのに、1万円の手付け金を払ってしまった。退路のない亀三郎は借金に走り回る。安田銀行では船は担保にならないと断られた。八方手を尽くして走り回り、ようやく渋沢栄一(既号51.泊まりたいホテル)の第一銀行を始め数行から4万円の借金をすることができた。
1903年7月、3000tの古船サンダー号は亀三郎の手に落ちた。生まれ故郷に因んで「喜佐方丸」と命名。岩崎弥太郎の土佐丸を意識して、名付けたのは当然のことだった。亀三郎は念願の船主となり、のちに「海運王」と呼ばれ、日本一の傭船主となった「山下汽船」の誕生であった。亀三郎は36歳の若さだった。
1901年には八幡製鉄所が創業し、鉄鋼産業が産声をあげた。翌年には日英同盟が締結され、1904年には日露戦争が勃発して特需が起きるなど、船の需要が拡大していった。さらに、1914年になって第一次世界大戦が勃発し、戦火が広がるヨーロッパの船腹不足に乗じて、船成金が続々と出現。山下汽船も絶大な恩恵を享受した。トン当たりの傭船料が、大戦が始まってから内地が10倍、ヨーロッパ方面15倍、船価は20倍に跳ね上がった。国内のGDPは大戦開始から5年で3倍となり、年率で25%の経済成長を続けることになった。
現代で云うバブルの発生である。しかし、大戦の終結とともにバブルも破裂。そして船成金の殆どが泡のように散った。さらに、1929年にアメリカ・ウォール街から端を発した世界恐慌で、日本経済も壊滅的打撃を受ける。多くの企業が倒れ、巷では失業者が溢れた。
米と生糸で生計を立てていた農村では、米価は下落し、生糸の対米輸出も激減。娘の身売りや欠食児童の問題が深刻化した。そんな暗黒の時代でも、亀三郎が率いる山下汽船は逞しく生き残った。亀三郎の政界・財界での遊泳術は、右に出る者がいないとまで云われた。
知遇を得た人脈も、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望らの元老達、財界では渋沢栄一、井上準之助、浅野総一郎など錚々たるお歴々である。一介のフリーターのような生活をして、若い頃は失敗ばかりしていた男は、人生の浮き沈みを数知れず見てきた。「頭は人並み、学問もない」と謙虚な姿勢を崩さず、「自分は無学文盲で、契約書も書けない」と、馬鹿な振りをしながら、早耳で情報を集め人脈を築いていった。広い交際範囲から得られた情報は、山下汽船を日本郵船や大阪商船に迫る海運会社に成長させる原動力となった。
その後は海運会社再編の流れとなり、1964年に大阪商船と三井船舶が合併して大阪商船三井船舶。日東商船と大同海運が合併してジャパンライン。山下汽船と新日本汽船が合併して山下新日本汽船となった。1989年にはジャパンラインと山下新日本汽船が合併してナビックスラインとなる。1999年に大阪商船三井船舶とナビックスラインが合併して商船三井となった。現在の商船三井は、日本郵船(三菱グループ)や川崎汽船(旧第一勧業銀行グループ)に並ぶ日本の三大海運会社の一角を占める。連結純利益及び時価総額では首位、連結売上高2位、三井クループに属している。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー