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桃太郎のビジネスコラム 246

☆ 樹齢1000年の巨木☆

2009.04.01号  

 福島県のほぼ中央部、郡山市から東へ9辧阿武隈山地の西裾に田村郡三春町という町がある。東京からは約200劼砲△蝓日帰りドライブを楽しめる圏内である。
町名の由来は、近隣に小高い山がいくつも連なり、そこからは郡山盆地を一望することができるため、見張りをする「見張る」から「三春」に転じたという説。南北朝時代の文書に初めてミハルの地名が記録に表れ、「御春」と記されている。これはミハルの読みが先にあり、後から三春の文字を充てたと解釈されている説。一般的な説としては「梅・桜・桃の花が一度に咲き、三つの春が同時に来るから三春と呼ばれるようになった」と言われる。
しかし、現在の三春周辺の気候では、こうした状況に出逢えるのは稀なことである。
三春町では街を象徴するものとして、三つの花鳥木を指定している。街の花として親しまれ、美しく可憐な花を咲かせる「松波」。街の鳥には「三つの春」に由来する町名に相応しく、美しい声で季節を告げる鳥「うぐいす」。街の木に指定されているのは、街のシンボル的存在であり、国の天然記念物にも指定されている「三春滝桜」に代表される「枝垂れ桜」。
三春滝桜は樹高13.5m、根回り11.3m、枝張りは幹から北へ5.5m、東へ11.0m、南へ14.5m、西へ14.0mもある巨木である。幹の中心部に空洞ができているため、正確な樹齢は確認できないが、専門家の推定によると1000年以上であることは間違いないという。
開花は4月中から下旬に掛けて咲き、四方に伸びた太い枝から薄紅色の小さな花が、ほとばしるように咲き競い、その様は滝の水が流れ落ちるかのように見えることから、滝桜と呼ばれるようになった。

 三春滝桜はエドヒガン系の紅枝垂れ桜で、日本三大桜の一つと云われる名木である。皇居新宮殿正殿・松の間を飾る橋本明治画伯による杉戸絵「桜」は、三春滝桜をモデルにしたと云われている。また、緑の地球キャンペーンの一環として、読売新聞社と国際花と緑の博覧会協会が選定した新名木百選に認定されたこともあり、人気投票による名木ベスト10にも選ばれている。2005年3月19日付けのNIKKEIプラス1の、何でもランキング「さくらの名木を見るなら」においても第一位を得ている。
三春滝桜が東の横綱と位置づけられれば、西の横綱は岐阜県本巣市にある根尾谷の淡墨ザクラといわれる。それに山梨県北杜市にある実相寺の山高神代ザクラ(幹径は国内最大)を加えて日本の三大桜と呼ばれ、この三本は共に1922年10月12日に国から天然記念物の指定を受けた。
三春滝桜の根元には1855年(安政2年)に祀られた小さな神明宮があり、滝桜が神の徳をもつ御神木として尊崇されたことがうかがえる。祭礼は花が満開を迎える頃に執り行われ社の左右に大きな幟が掲揚される。桜花は紅枝垂れと云われるだけあって、名が体をよく表現している。満開を過ぎるまで紅色の艶やかさが個性を主張し、見る者はその妖艶さに圧倒される。枝垂れる枝は、土の下に眠るものを一斉に指し示しているようにも思われる。
1000年もの時を経た桜木は、木を超越して樹霊を宿しているようにさえ感じられる。

 戦国時代、三春は紀州熊野新宮(現・和歌山県新宮市)の荘園・田村庄の一部であった。
元々の田村庄の中心は守山(現・郡山市田村町)であったが、1504年(永正元年)に田村義顕が、三春大志田山に居城を移したと伝えられ、これ以降、三春が田村地方の中心部となり城下町として発展した。
田村氏は義顕・隆顕・清顕と続き、清顕の代には田村地方のほかに北の安達、西の安積、南の岩瀬地方まで勢力圏を拡大した。清顕は1586年(天正14年)に没したが、清顕には跡継ぎとなる男子がなかったため、清顕の一人娘・愛姫の夫である伊達政宗を後ろ盾に、清顕の甥である宗顕を当主にして伊達政宗の南奥羽統一を助けることとなった。しかし、1950年(天正18年)豊臣秀吉による奥羽仕置きにより、田村家は改易となり、旧田村領は伊達政宗の領地となった。
翌天正19年に秀吉は奥羽の大名の再編成を行い、三春は蒲生氏郷が藩主を勤める会津藩の一部となる。会津藩主は氏郷の死後、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生氏郷と代わり三春を預かる城代も短期間で交代。しかし、その間にも城の改修や寺社の建設は進められていた。
やがて、1627年(寛永4年)に蒲生忠郷が病死すると蒲生家は改易となり、代わって伊予松山の加藤嘉明が会津藩主となる。
時代も江戸に変わり加藤氏の三男・明利が三春藩主となる。嘉明の与力大名ではあるが、三春は3万石で独立することになった。しかし、同時に二本松5万石の藩主となった嘉明の娘婿・松下重綱が急死したため、寛永5年の正月には明利は二本松に移り、代わって三春には重綱の嫡子・松下長綱が入った。その後、1644年(正保元年)に長綱は発狂したとの理由で、夫人の実家である土佐藩山内家に引き取られ、松下家も改易となった。翌、正保2年に常陸宍戸(現・茨城県笠間市)から、秋田俊季が5万5千石で入り、その後は明治維新まで秋田氏の城下町となった。

 農耕民族である日本人にとって、桜と農耕は深い関わりがあった。さくらの「さ」は穀霊、「くら」は神の座すところと伝えられてきた。かつての日本人は野山に開花した桜を神の訪れと考えていたのだろう。人々は野山に「お詣り」に出掛け、訪れた神と饗宴し、供物を下げて持ち帰り、集落の人達や家族と、神事のあとの酒宴に興じ、その後の野良仕事のための英気を養ったのであろう。
豊臣秀吉は1594年(文禄3年)に吉野山で、徳川家康や伊達政宗らの武将、茶人や連歌師など総勢5000人を集めて、花見の宴を開いたという。さらに1598年(慶長3年)には天皇のお膝元の、京都・醍醐寺で盛大な花見の遊園を催し、権力を誇示したと云う。
平安時代初期、嵯峨天皇が神泉苑で開いた詩宴が、花見宴の始まりと云われ、この王朝の花宴文化が、武家社会に持ち込まれるようになった。花見宴は秀吉のように支配する側と、支配される側の関係を持ちつつも、やがて庶民にも伝播するようになった。以来、花見は1200年も続く、日本人の伝統的な行楽となる。
1836年(天保7年)に編纂された「瀧佐久良記」には、歴代の三春藩主が滝桜に寄せる思いが記されている。桜木を御用木として周囲の畑地を無税にし、竹の矢来で桜木を囲み、養生に努めさせた。開花が近づくと早馬をだして状況を報告させ、見頃ともなれば、共どもを引き連れて花見宴を催した。三春盆歌の一節には「滝の桜に手は届けども、殿の桜で折られない・・」。滝桜を日本一の桜に育てたのは三春の民であり、“殿の桜で折られない”と歌わせた三春の歴代の殿様である。三春は出自の違う幾人もの藩主を迎えたが、何れの藩主も桜を愛でる施策だけは守り続けた。三春に生きてきた先祖代々の人達は、生国の歴史や伝統を尊び、礼を尽くして生きてきた。この町に生きた幾多の人々の思いが、今日に至っても1万8000人の、三春町民に脈々と受け継がれてきた。
人々は開花する桜花に浮かれ、喜び、そして散る花の儚さを味わってきた。文学は可憐な繊細さを説き、絵画は絢爛と咲き誇る様を模し、歌は情念を発してきた。桜花はそうした人間の感情を吸い上げ、明日への希望と輝きを与える。
昨年は三春滝桜の開花から落花までの、シーズンに33万8000人が訪れ花見を楽しんだ。



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