ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 271

☆ 皇室のデザイナー ☆

2009.09.23号  

 ある日の朝、芦田淳は高島屋に出社した。すると、婦人副部長が血相を変えて駆け寄ってきた。宮内庁からの電話で、浩宮様の洋服の仕立てを依頼されたと言う。当時、発表していたヨーロッパ土産から発想を得た少女服を、宮内庁の関係者が見て気に入り、皇太子妃・美智子様に推薦してくれたのだった。芦田は黒いスーツに地味目のネクタイを締め、高島屋が用意した黒塗りのハイヤーで、元赤坂にある東宮御所へ向かった。東宮御所では10畳間ほどの仮縫い室に通され、妃殿下と面談することになった。優しい笑みを浮かべた妃殿下に、深々と頭を下げて挨拶をした後、自己紹介や雑談など夢のような30分を過ごした。帰り際には女官から菊の御印が入ったタバコを土産として拝領。芦田はタバコを自宅に持ち帰って仏壇に供え、大役を仰せつかった喜びを父母に報告した。浩宮様にはダブルのスーツを仕立て、その後、まだ幼児であった礼宮様の洋服も仕立てる。妃殿下もお子様達も大いに満足されたと云う。1966年になって妃殿下から、ご自分の服を作りたいとの直々のお話があった。芦田は36歳にして妃殿下の専任衣裳デザイナーになったのである。御下命は芦田にとって、人生で最高の至福の瞬間であった。戦後は開かれた皇室として国民やメディアの関心を集めており、常に完璧な服作りをする必要があった。公務に必要なスーツやドレスなどを季節や場所、目的などを考慮して仕立てなければならない。通常は2着から3着を平行して仕上げるが、外遊や外交日程が重なるときには、10着ほどを同時に手掛ける忙しさであった。しかし、粗相があっては国家の威信にも関わること。それだけの重責とやり甲斐のある仕事に、斎戒沐浴し全身全霊をもって仕事に取り組んだ。1976年までの10年間努めた妃殿下の、専任衣裳デザイナーの仕事は、芦田にとって人生で一番充実した時間であり、その後の仕事にも大きな自信と信頼を勝ち得るものとなった。芦田には現在も家宝にして大切にしているものがある。妃殿下お手製の針刺しとハサミ用サックである。白と黒の千鳥格子で、縁には白い可憐な花の刺繍が施されており、妃殿下から芦田への感謝と思いやり、それと真心が込められた最高の贈り物だった。

 芦田淳は1930年に開業医である家庭で、8人兄弟の末っ子として生まれた。1951年に東京高等学校(現・東京大学の前身)卒業後、デザイナーを目指し、画家・ファッションデザイナーとして活躍中だった中原淳一に師事し、2年間住み込みで秘書を務める。その後は「ひつじや」「ジョンストン」などの、チーフデザイナーを努める。1960年に東京日本橋・高島屋の顧問デザイナーに就任し、1975年まで続ける。同年、テキスタイルメーカー帝人の、顧問デザイナーにも就任。1963年に渋谷区・美竹町に「有限会社テル工房」をオープンし、プレタポルテの制作販売を開始。高島屋との取引も開始し、全国の有名百貨店へと順次取引を拡大していく。1964年に日生劇場で第一回オートクチュール・ショーを開催し、以後は年2回の発表を行う。1966年には美智子妃殿下の、専任衣裳デザイナーに就任。その後は各宮家妃殿下の用命を多数受ける。1976年には銀座・みゆき通りに自社ビル店舗「ブティック・アシダ銀座」をオープン。翌年にパリ事務所を開設し、パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。1978年にはテル工房を「株式会社ジュン・アシダ」に組織と名称を変更。「エレガント&プラクティカル(品性と実用性)」をコンセプトに、エレガンス・ファッションを展開する。大阪にも営業所を開設する。その後も東京・赤坂見附のベルビー赤坂に「ブティック・アシダ赤坂」をオープン。ハワイでチャリティーショー「芦田淳コレクション」開催。大阪・御堂筋に「ブティック・アシダ御堂筋」オープン。パリのフォーブル・サントノーレ街にブテイック「アシダパリ」オープン。代官山フォーラムに「ブティック・アシダ本店」をオープンして、事業展開も拡大していく。1993年には皇太子妃雅子殿下の御成婚衣裳の制作を拝命。翌年、オートクチュールショー・デビュー30周年を期に、社団法人・科学技術国際交流センターに「芦田基金」を設立した。1995年には国連創立50周年記念チャリティーとして、春夏コレクションを開催。毎年アメリカン・クラブで開かれるジュン・アシダのコレクションには、世界各国の上流階級の婦人達が席を占め、国際色豊かなショーが繰り広げられている。

 芦田多恵(本名・山東多恵)は1964年7月、芦田淳の次女として東京で生まれる。東京英和女学院小・中等部を卒業後、ル・ロゼ高等学校(スイス)卒業。1984年にジャン・パトゥや、クリスチャン・ラクロワの下で実務研修を受け、その後はニコル・ミラー社でもキャリアを積む。1987年にロードアイランド造形大学(アメリカ)卒業。翌年には父親がオーナーを努めるジュン・アシダに入社する。1991年に第一回ミスアシダコレクションを発表し高い注目を得る。その後は、東洋信託銀行ユニフォームのデザイン、東京ディズニーリゾート「キャンプ・ネポス」コスチュームのデザイン、帝国ホテルユニフォームのデザインなどで高い評価を受ける。著書では「おしゃれの正統」(1997年・婦人画報社)を出版したり、「ヴァンテーヌ」「クラッシイ」「ヴァンサンカン」「MISS」などのファッション雑誌にも連載を持つ。日本テレビ系列「ザ・ワイド」にコメンテーターとして出演したり、メドック・グループ・ソーテルヌバルザックボンタンの、ワイン騎士団名誉称号を受賞するなど多方面で活躍。2007年には日本女子大学客員教授に就任している。私生活では、1993年に山東昭子参議院副議長の、甥と結婚し2児の母親となる。安倍晋三前内閣総理大臣夫人・安倍昭恵とは大の親友でもある。本業ではミスアシダブランドの、トップデザイナーとして仲間由紀恵、高島礼子、長谷川京子などの人気女優を顧客にしている。近頃お騒がせタレント・酒井法子も顧客の一人。水野真紀や藤原紀香の、ウェディングドレスをデザインしたことでも話題となった。人気若手女優の桐谷美玲や有村美樹、堀北真希などの衣裳も手掛けており、最近はもっとも旬のデザイナーとして注目を浴びている。

 芦田淳もスポーツユニフォームや、有名企業のユニフォームを数多く手掛けている。1994年の広島アジア大会の、日本選手団公式ユニフォーム。2年後のアトランタオリンピック日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。全日空のユニフォームは、1970年から1974年(4代目)、1982年から2005年(7・8代目)と長年担当する。帝国ホテルでも1990年から2007年まで担当した。東京海上火災や富士ゼロックスなども手掛ける。書籍では、エッセイ集「僕はヤングマン」(1986年、文化出版局)、「髭のそり残し」(1998年、徳間書店)。写真集では「jun ashida デザイナーの30年」(1993年、婦人画報社)を出版している。今年8月1日からは日本経済新聞に「私の履歴書」も執筆。これらの活躍により国内外から数々の賞や勲章を受ける。1971年、FEC(ファッション・エディッター・クラブ)賞。1987年、イタリアの功労勲章・カバエーレ章。1991年、紫綬褒章を受章。2000年、フランス国家功労賞・オフィシエ章。2003年、イタリアの功労勲章・カヴァリエーレ・ウフィチャーレ章。2006年、旭日中綬章を受章。ルクセンブルク・国家功労賞・オフィシエ章などを受ける。芦田淳・多恵父娘は、日本が世界に誇るデザイナーとして活躍しており、日本のファッション界を牽引する存在となっている。


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