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桃太郎のビジネスコラム 277

☆ 江戸時代の伊勢商人 ☆

2009.11.04号  

 鰹節やふりかけ等の調味料を製造する「にんべん」は、1699年(元禄12年)創業で300年以上の歴史を誇る業界最古参企業である。首都圏や東日本では高いブランド力を持つ。創業者である初代・高津伊兵衛(幼名・伊之助)は1679年に勢州(現・三重県)四日市で生まれた。12歳の時に高い志をもって江戸に上り、日本橋・小舟町の雑穀商「油屋太郎吉」で年季奉公に入る。18歳の頃には忍耐強く誠実で、商才に優れた実力を見込まれ、先輩や同輩を追い越して京大阪に上るまで出世した。しかし、その仕事ぶりで店が繁盛すると、主人が贅沢華美に溺れだした。それを伊之助が諫めて争うことも度々起こり、それが主人の不興をかってしまう。また、その仕事ぶりが番頭達からは嫉妬され、嫌がらせを受けるようになる。やがて伊之助は無一文で油屋を辞することになった。伊之助は1699年に日本橋四日市土手蔵(現・野村證券本社付近)で、店と云うよりも戸板を2〜3枚並べた露店で、鰹節や干し魚の商いを始めた。20歳の時であった。そして、伊之助の誕生日である3月17日を創業記念日とした。寒暑の中、類い希な商才と人柄、そして食うも食わずもの苦労を重ねた伊之助は、5年間で200両の貯えを作ったと云われる。そして当時の、江戸最大の問屋街として豪商が軒を並べていた小舟町に、本格的な「鰹節問屋」を開業したのは25歳の時だった。誠実なる良品廉価の商いは、世間の信用も厚くなり商売は大繁盛。新進商人の英傑とまで云われた。そして翌年に伊兵衛と改名し、店の屋号も「伊勢屋伊兵衛」とした。暖簾印(商標)には伊勢屋と伊兵衛のイ(にんべん)をとり、商売を堅実にするためのお金(かぎの形)を合わせて「カネにんべん」とした。江戸の町人達は伊勢屋と呼ぶ代わりに、誰が言うともなく「にんべんの店」と云ったり、「鰹節のにんべん」と呼ぶようになり、通称は江戸町民によって命名された。これが現社名の由来である。にんべんに古くから伝わる「ミツカネにんべん」は、3つあるイ(にんべん)はそれぞれ人を表しているとされ、「お客様」「造る人」「商いをする人」で、この3つの信頼関係が出来たときに、商売をさせていただけるという、感謝の気持ちが込められているという。

1720年には瀬戸物町(現在の本社位置・室町2丁目)に移転して本店とする。掛売りが当たり前であった当時、利幅を薄くして現金売りを旨とし、伊兵衛が自ら大書きした「現金掛値無し」の看板を掲げて大繁盛となる。1716年に徳川吉宗が8代将軍に就き、幕府権力の再構築や都市政策などの諸改革(享保の改革)が行われた時期であった。吉宗は1717年に大岡忠相を江戸町奉行に登用し、町奉行所や町役人の機構改革に着手。翌年には新金銀交換法を定める。1720年には江戸町火消し「いろは48組」の創設。祖米の検査不十分な奉行を処罰。1721年には目安箱の設置。その翌年には諸大名には上米を課し、米価を引き下げ、新田開発を奨励。1723年には物価引き下げ令を発する。1724年には倹約令を発し、衣服の売価を制限した。このように次々と改革の嵐が吹き荒れる時代背景の中、伊兵衛は代金回収に不安の残る掛売りを廃止し、薄利多売の現金商売を旨とする商いに徹していった。1749年に3代目が伊兵衛を襲名。加賀前田侯を始め諸侯の乾物御用を請ける。1760年には宝暦の大火の罹災者に餅を寄贈。数々の善行が認められ筑前黒田侯より紋を賜る。6代目の当主となった伊兵衛はアイデアマンで、1830年には日本で最初の(世界最古とも推定されている)銀でできた商品券を創案し普及させた。この天保時代も幕府権力の再構築の改革(天保の改革)が行われた時期であった。11代将軍・家斉は多くの愛妾を持っていたと云われ、風紀が乱れ賄賂が横行していた。12代将軍・家慶は老中・水野忠邦に命じ、質素倹約と重農主義を旨とする政策を打ち出し、頽廃した家斉時代の幕府高官を左遷。倹約令を発布し、風俗の取締にも乗り出し綱紀粛正を図った。諸大名や旗本なども質素倹約を強いられ、このような時期の商品券は大いに受けたものであった。1737年に7代目が当主となり、蜀山人や狩野栄川などの文化人達との交友も広がり、国宝級の名品を多数所蔵するようになり、名実共に江戸の大商人の地位を築いていく。1849年には8代目が当主となり、勘定奉行より御用達を承るようになり、名字帯刀も許された。

 江戸時代の流通経済分野で中心的役割を担い、目覚ましい活躍を果たしたのが、伊勢商人と近江商人(既号169.近江国の行商人)であった。なかでも、江戸の経済を制覇した伊勢商人の原動力は、実直な伊勢人気質と鋭敏な時代感覚であった。井原西鶴の「日本永代蔵」では、伊勢商人のことを「人の気をみて商い上手は此の国なり」と記している。「西鶴織留」では「惣じて神職のかたはいふに及ばず、万の商人までも伊勢は人にかしこき所を見せずして、皆利発なり」と書いている。多くの伊勢商人が、江戸日本橋周辺で豪勢な江戸店を構え、江戸の経済を牛耳るほどの強大な経済力を持ち、その力を現代まで持続させてきた。伊勢の国出身の商人は、他国の人から伊勢商人と呼ばれ、17世紀初め頃から江戸・大坂・京都の三大都市へ盛んに進出した。とくに徳川家が幕府を開き近世最大の都市に発展した江戸には、伊勢の商人が他国に先駆けていち早く出店。第5代将軍・綱吉の頃には、「江戸に多きもの伊勢屋、稲荷に犬の糞」という俗語まで登場。他国の商人達からは「近江泥棒、伊勢乞食」とまで陰口をされるほど、近江商人と共に際だった存在だった。伊勢商人が営む江戸店の特徴は経営組織にあった。経営者である主人は伊勢の本家から江戸店の経営に眼を光らせ、江戸店は支配人や番頭などの幹部従業員が取り仕切っていた。本家とは独立採算の経営体となっており、その利益は毎年本家に上納される仕組みだった。収益を得た本家の主人は、遊芸や文化と趣味の世界を大いに楽しんで居たようである。このような経営組織を支えていたのは、江戸店の独特な雇用形態にあった。番頭から手代や丁稚に至るまで、殆どの従業員が伊勢の国出身者であり、地縁で結ばれた者同士が寝起きも共にする家族的な職場制度であった。伊勢商人達には商いをする上で信条としていた3つの徳目、始末・才覚・算用が一貫して硬く守られていた。始末とは倹約に励み、贅沢をせずに節約を旨とすること。才覚とは商いをする工夫や発明、発想を磨き積極的な攻めの経営を心がけること。算用とは商いとしての利益を生み出す計算力を養うことである。この3つを具現化したのが伊勢商人だった。なかでも、三井家の元祖・三井高利は松阪木綿の呉服商・越後屋(後の三越百貨店)を1673年に開業。現金掛け値無しの店頭販売や、一般庶民向けに引き札(現在で云うチラシ)を配布して宣伝するなど、当時としては画期的な手法で売上をのばした。西鶴の日本永代蔵のなかでも、大商人の手本として絶賛されている。

 時代も江戸から明治に代わり、伊勢屋は1904年の日露戦争で、鰹節の供給を一手に引き受けることになる。大正時代となった1918年には個人商店の伊勢屋伊兵衛から、資本金100万円の「株式会社高津商店」と法人組織とする。昭和の時代となると、1941年に11代目が日本鰹節類統制株式会社の社長を兼任。その後は戦災で店舗を焼失するも、1948年に店舗を新築。そしてこの年、通称であった「にんべん」を正式社名に改称した。1964年には「つゆの素」を発売し、以後ロングセラー商品として人気を呼び、現在でも同種の商品ではトップシェアを誇っている。1969年に創業270周年を迎え、鰹節削りぶし「フレッシュパック」を業界に先駆けて発売し、大ヒット商品となる。1973年に12代高津伊兵衛(現・会長)が襲名。1979年には第18回農林水産祭・水産部門で天皇杯を受賞。時は移り平成時代となった1997年には、第46回全国水産加工たべもの展で、「本枯鰹節フレッシュパック」が農林水産大臣賞を受賞。1999年には創業300周年記念式典を帝国ホテルにて開催。そして今年、創業310周年を迎え、13代当主となる高津克幸が代表取締役社長に就任した。現在のにんべんは、資本金8800万円、社員数210名、本社のほか全国に13ヶ所の事業所と、全国に14ヶ所の協力工場をもち、盤石な企業体質を誇るメーカーとなっている。


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