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桃太郎のビジネスコラム 286

☆ 地下足袋屋の転身☆

2010.01.13号  

 石橋正二郎は1889年2月に、現在の福岡県久留米市で父・徳治郎、母・マツ夫妻の二男として生まれた。家業は着物や襦袢を縫う仕立屋だった。久留米商業学校卒業後に病弱だった父の希望で、兄・重太郎(家督相続で二代目・徳治郎を襲名)と家業を継ぐことになる。しかし、間もなく重太郎が徴兵され、正二郎が一人で家業を取り仕切ることになった。職人の技能に頼る仕立屋を切り盛りするには、正二郎一人では手が回らなくなり、それに仕立屋の将来を考えると、業容を変更して足袋製造を専業にする方が良いと決断。業容の転換後は、思った通りに商いも順調に回転するようになった。縫製用機械の導入や、古い徒弟制度を廃止して給与制を採用するなど、経営の近代化を進めた。文数(足袋の大きさ)によって違った小売価格を、一律な価格に変更するなどの顧客志向も打ち出す。広告宣伝も九州地方では最初となる自動車を購入し、街の中を走らせて宣伝をするなど、当時としては画期的な手法を取り入れた。1914年には商標を「志まや足袋」から「アサヒ足袋」に変更し、業容はますます拡大していった。そしてこの年、第一次世界大戦が勃発。正二郎は大戦による物価高騰を見越して、原材料を大量に仕込んだ。これも見事に当たり事業は更なる発展を続ける。1918年には兄・二代目徳治郎を社長に、自らは専務取締役として「日本足袋株式会社」を設立。足袋大手メーカーの一角となる。1921年には「張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)」を考案し、会社は飛躍的な発展を遂げるようになった。

 1920年代、地下足袋やゴム靴の増産に次ぐ増産で活況に湧いていたが、正二郎はクルマ時代の到来を予見していた。当時の日本には5〜6万台しかなかった時代に、海の物とも山の物ともつかない自動車タイヤ事業に乗り出した。1929年に日本足袋の倉庫を改造し、タイヤの試作を開始。来るべき量産体制に備え、米国にタイヤ製造機を発注することになった。そこで急遽、タイヤに社名を刻印する金型を製作する必要に迫られたが、社名が日本足袋では相応しくないと云うことになった。海外のタイヤメーカーが、創業者の名前を付けている例が多いことを知っていた正二郎は、迷うことなく自分の姓を英語に直訳してStonebridge を発音してみると、どうも語呂が良くない。そこで石と橋を逆にして bridgestone にしてみたら語呂が良い。それにkeystone の意味合いもある。キーストーンとは建築土木で云う要石のことであり、先々タイヤを輸出する時にも好都合と考えた。翌年4月、正二郎率いる日本足袋タイヤ部が、資本も技術も純国産の自動車タイヤ第一号を完成させた。海外ではニューヨークの株式相場の大暴落に端を発した大恐慌が起き、世界経済が混乱していた時期であった。1931年にブリジストンタイヤ株式会社を設立し、正二郎は社長に就任する。ブリジストンタイヤは、それまで海外メーカーから調達していた国産自動車メーカーに、圧倒的シェアを獲得するようになる。プリンス自動車(1966年に日産自動車と合併)には資金面で援助するなど、国産自動車の発展にも貢献。やがて輸出も順調に拡大するようになったが、米国の老舗メーカー・ファイアストン社が、同じ stone が付いているのは商標権の侵害だと訴えてきた。これに対してファイアストン社と同様に、創業者の名前であると主張して和解。その後の1988年にファイアストン社は、ブリジストンの傘下となる。

 鳩山安子は現内閣総理大臣・鳩山由紀夫と、自民党衆議院議員・鳩山邦夫の母である。1922年に石橋正二郎の長女として久留米市で生まれる。中学に入学するのを機に上京し、東京府立第二高等女学校、女子学習院高等科に進学。高等科在学時に父・正二郎が勧める縁談で、元内閣総理大臣・鳩山一郎の長男・威一郎と見合い結婚。1942年には帝国ホテルで、政財界の重鎮を招待して壮大な式を挙げた。夫である威一郎は1941年に東京帝国大学法学部をトップで卒業後、大蔵省に入省。主計局畑を歩み、主計局長から大蔵事務次官にまで昇進。事務次官在任中の1972年には、田中角栄内閣総理大臣の日本列島改造論を背景とした至上命令により、相沢英之主計局長(後に衆議院議員、再婚相手は女優の司葉子)、橋口収理財局長(後に公正取引委員会委員長)、高木文雄主税局長(大蔵事務次官を退官後に国鉄総裁)らと超大型予算を編成。この積極予算は1971年のニクソンショックに伴うインフレの兆しや、1973年のオイルショックなどと相俟って、戦後最悪の狂乱物価を招く結果となった。1972年に退官したが、後に超インフレ予算として批判されることとなった。1974年には参議院議員に初当選し、当選一回ながら福田赳夫内閣で外務大臣に抜擢される。1992年に政界を引退。翌年12月に享年76歳で他界。正三位勲一等を授与される。鳩山家と石橋家の系譜も華麗なものがある。威一郎の祖父は第六代衆議院議長・鳩山和夫。母方の祖父は貴族院議員・寺田栄であった。叔父の鳩山秀雄は菊地大麓(元男爵)の娘・千代子と結婚している。安子の弟・石橋幹一郎は団伊能(元男爵)の娘・朗子と結婚。またその息子・石橋寛の妻・里沙と、邦夫の妻・エミリーは姉妹で、鳩山家と石橋家は二重のつながりを持つ。作曲家でエッセイストの団伊玖磨は朗子の兄妹で、祖父は戦前の三井財閥の総師・団琢磨(元男爵)である。安子の妹・敬子の娘・悦子は元内閣総理大臣・宮澤喜一の長男・宮澤裕夫と結婚。末妹・多摩子は元衆議院議長・石井光次郎の長男・石井公一郎(元ブリジストンサイクル社長)と結婚。従弟・石橋慶一は元内閣総理大臣・池田勇人の末娘・祥子と結婚している。安子は威一郎との間に生まれた由起夫と邦夫兄弟の教育は徹底していた。学習院中等科を卒業させた後は、東京大学受験に備えるため、都立小石川高等学校と筑波大学付属高等学校をそれぞれ受験させ、その教育ママ振りは凄まじいものがあったと云われる。安子の持つ資産も庶民では考えられない額に達する。石橋家の相続で103億円の一部、鳩山家の相続では152億円を受け継いだと云われる。1200万株所有するブリジストン株(170億円相当)は年間配当だけでも3億円を超える。1990年代にはブリジストン大株主十傑の7番目くらいに鳩山安子の名が載っていた。音場御殿と云われる屋敷の資産価値は50億円を超えると云う。田園調布にある由起夫の自宅と土地、駒込にある邦夫の豪邸も安子が買い与えたとされる。兄弟二人が政治家になる際も、猛反対する威一郎を説き伏せ、二人の選挙事務所をポケットマネーで用意。1996年に二人が民主党を結党した際には、50億円の資金を用意したが、結党後に交付された政党助成金で回収したとされる。一家の持つ総資産は400億円以上と云われ、庶民には溜め息のでる数字である。

 ブリジストンタイヤは、自動車用タイヤを経営の基盤としたが、自動車関連部品、ウレタンフォーム及び関連用品、精密電子部品、ゴルフ関係を中心とするスポーツ用品、自転車関連等々、多数の業種に参入し、石橋財閥とも云える企業グループを形成。1984年には社名からタイヤを外して、ブリジストンに社名変更した。事業の発展に伴い社会貢献事業にも力を傾けた。1929年の日本足袋時代に九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)へ、キャンパス敷地1万坪と鉄筋コンクリート校舎を寄付。1952年にはブリジストン美術館を開館。1955年にベネチィア・ビエンナーレの日本館建設資金を外務省に寄付。その翌年には久留米市に石橋文化センターを寄付。約3万屬良瀉呂鉾術館、体育館、プール、文化会館、野外音楽堂、遊園地などを併設した巨大な総合文化施設である。その後も母校の久留米商業高等学校へ講堂と柔道場を寄付。東京国立近代美術館の建物も寄付するなど、さまざまな貢献事業を行う。正二郎は企業活動を通じて、日本のゴム産業や自動車産業の発展に多大な貢献が評価され、2002年に日本自動車殿堂入り。2006年には米国の自動車殿堂入りも果たす。正二郎が仕立屋から地下足袋屋へ、そして現在の自動車タイヤを主力とする事業へと転身して築いたブリジストンは、資本金1263億5400万円、従業員15605名、連結従業員数137981名、連結売上高3兆2344億円、営業利益1315億円(2008年12月31日現在)となっている。第一号のタイヤ生産から80年後の今日、世界の三大メーカーの一角を占めるビッグビジネスに成長した。


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