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桃太郎のビジネスコラム 287

☆ ドイツ人捕虜が造った菓子☆

2010.01.20号  

 今では誰もが知る洋菓子、バウムクーヘンはドイツ人捕虜によって、日本で初めて造られた。カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムは1886年にドイツのカウプ・アム・ラインで、父フランツと母エマの10番目の息子として生まれた。国民学校を卒業後に菓子店で修行をしながら、夜間の職業学校へ通った。22歳の時、菓子店協会の会長に勧められて、当時ドイツの租借地であった中国・青島市で、ジータス・ブランベルグの経営する喫茶店に就職。翌年、ブランベルグから店を譲り受けて、自らの喫茶店「ユーハイム」を開店。カールの造るバウムクーヘンは、本場ドイツの味と同じと、在留ドイツ人の間で大評判になる。1914年春に帰郷し、エリーゼ・アーレンドルフと婚約、夏に青島市にて結婚式を挙げる。この直後にドイツはフランスとロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦。イギリスはドイツに宣戦布告。イギリスと同盟を結んでいた日本軍は、青島市に駐留するドイツ軍を攻撃し、青島は11月に陥落。投降したドイツ軍将兵は3906人だったが、日本軍は4000名の大台に乗せるべく員数合わせのために、翌年9月になって在留民間人を捕虜に加えたと云われる。この中に非戦闘員だったカールが含まれており、妻エリーゼは妊娠初期であった。カールは大阪俘虜収容所へ移送されたが、青島に残した妻と、未だ見ぬ子を思い悩む日々を送る。1917年2月、インフルエンザ予防のため、捕虜全員が広島にある似島検疫所へ移送される。1919年3月になって広島県が、似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品の、展示即売会を開催することになった。カールはバウムクーヘンなどの菓子造りの担当になった。カールはバウムクーヘンを焼くための堅い樫の薪や、当時はなかなか手に入らなかったバターなど、材料集めに苦労したが、バウムクーヘンを焼き上げることに成功。広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)で、開催されたドイツ作品展示会にて製造販売を行う。これが日本で初めて造られたバウムクーヘンであった。カールは青島市が日本軍に占領されていた頃、日本人はバターの量が少なめが良いとの経験則を持っていた。この日本人向けにアレンジした味のバウムクーヘンは、大評判を呼び好調な売れ行きとなった。

 1918年11月になって、ドイツ軍は連合軍との間で休戦協定を結び、第一次世界大戦は事実上の終戦を迎える。日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになり、殆どのドイツ人は本国への帰国を希望したが、カールは青島市に戻る予定でいた。しかし、青島市ではコレラが流行しているとの情報を知り、日本残留を決意。ちょうど明治屋が銀座に喫茶店「カフェ・ユーロップ」を開店することになり、社長・磯野長蔵から製菓部主任の肩書きで迎えられた。カールの造る菓子は高い評価を得るようになり、最も人気があったのはバウムクーヘンで、プラムケーキも品評会で外務大臣賞を得たこともあった。カールはようやく生活の基盤も整い、妻・エリーゼと息子・カールフランツを青島市から呼び寄せ、この店の3階で親子三人、仲睦まじい生活ができるようになる。1922年2月、カフェ・ユーロップとの契約が終わりを迎え、今後の生き方を模索している中、ロシア人・リンゾンから横浜市中区山下町で経営していたレストランを、売りたいとの話が持ち込まれた。カール夫妻は横浜まで視察に出向く。売却額は3000円だったが客の入りは悪く、リンゾンの滞納した家賃や滞った仕入先への支払を肩代わりする条件までつけられた。カールは断ろうとしたが、エリーゼは「神の声を聞いた」として購入することにする。店の名前はカールの姓とエリーゼ(Elese)のEをとって「E・ユーハイム」と名付け、ドイツ風の軽食も出す喫茶店にした。近隣には昼食を手頃な価格で出す店がないこともあって、店は評判を呼び大いに繁盛した。しかし、1923年9月1日、関東大震災によって横浜は瓦礫の海と化した。山下町も壊滅的な被害となり、E・ユーハイムも焼失。残っていたのはポケットに入っていた5円札一枚で、それ以外の全ての財産を失う。カール一家は神戸市垂水区塩屋の知人宅に身を寄せ、神戸で再起を図ることにした。何もかも失ったカールはトアホテルへ勤めようとしたが、バレリーナのアンナ・パヴロワの勧めで、生田区(現・中央区)三宮にあるサンノミヤイチと呼ばれる三階建ての洋館に店を構えることにした。救済基金から借りた3000円を元手に、喫茶店「ユーハイム」を開店。横浜時代に育てた弟子達も応援に駆けつけた。しかし、借金だらけで床に麻袋を敷いて寝る日々だった。第一次大戦と捕虜生活、関東大震災を生き延びてきた気丈な二人は、「ワタシタチハ ヨコハマデ イッショウブンノ カナシイオモイヲシマシタ デモ ワタシ タッテイマス」という、エリーゼの言葉で頑張り抜いた。

 ユーハイムの歴史はドイツ人カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムと、妻のエリーゼから始まったが、二人の残したお菓子・技術・言葉は、現在でもユーハイムとユーハイムの職人達に、大切に受け継がれ、ユーハイムの菓子の美味しさの秘密となっている。カールの「純正材料が美味しさの秘密」「一切れ一切れをマイスターの手で」「革新が伝統を築く」といった、職人魂を貫く言葉。エリーゼの「お母さんの味、自然の味」「体のためになるから美味しい」「小さく、ゆっくり、着実に」といった優しい心。二人の仕事に対する厳しさと、優しさがユーハイムの菓子造りの、伝統として受け継がれている。ユーハイムでは売れ残りのケーキは、窯で焼いて捨てるという習慣があり、現在も弟子達に引き継がれている。弟子達に対しては衛生面に気を付けるように厳しく指導。毎日入浴し、三日に一度は爪を切り、汚れのついた作業着は着ない。カフェ・ユーロップに勤務していた時代には、初任給が15円のところ風呂代と洗濯代として毎月3円を支給していたという。原料についても常に一流店が扱う一流品を仕入れた。その姿勢は国内で良いものが手に入らないと、ラム酒はジャマイカから、バターはオーストラリアから取り寄せるなど徹底していた。

 ユーハイムを開店した頃、神戸には外国人が経営する喫茶店がなく、多くの外国人で賑わった。開店してから一年ほど経つと、ユーハイムの菓子を仕入れて売り出す店も現れるなど、経営は順調に拡大した。大丸の神戸店が洋菓子を売り出し、近隣の洋菓子店がバウムクーヘンを模倣して売り出したが、ユーハイムの人気が衰えることはなかった。1937年頃からカールの体調に変化が現れた。エリーゼはカールの振る舞いに尋常ならざるものを感じ、カールを精神病院に入院させた。カールには病識がなく問題行動を度々起こすようになり、ドイツで治療を受けさせることにした。カールは数年後に帰国したが、以前のように働くことはできなかった。1945年にカールは六甲山にあるホテルで静養することになったが、8月14日にエリーゼと語り合ったまま世を去っていった。カールは死の直前に、自分は間もなく死ぬが、戦争は直ぐに終わり平和が来ると話した。1942年にドイツ軍に徴兵されていた、息子のカールフランツは死んだと断言。そして、最後の言葉は「俺にとって菓子は神」と言って、息を引き取った。エリーゼは「死ぬことが少しも恐ろしくなくなった」と語ったほど、カールの死に顔は優しく安らかだったという。翌日、日本では玉音放送が流れ、ポツダム宣言の受諾が発表された。そして、9月2日に太平洋戦争が終結。1947年になってカールフランツは1945年にウィーンで戦死していたことが判明。カールの死後、遺族はドイツに強制送還された。カールフランツが大戦中にドイツ軍に従軍したこと、エリーゼが在日ドイツ人婦人会の副会長を務め、本国へ帰国した経歴があることが理由だった。1948年になり、かつてユーハイムに勤務していた弟子達が、ユーハイムの復興を目指す。1953年にエリーゼはドイツから戻り、会長として迎えられ、その後も社長として陣頭指揮にあたった。エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、1971年5月に他界した。ユーハイムは戦後の洋風化ブームや、1977年から1978年にかけてNHKが放映した連続TV小説「風見鶏」から起こった異人館ブームで業績は急拡大。神戸から全国百貨店に展開する洋菓子メーカーとして、モロゾフ(既号141.洋食文化を支えた老舗)と双璧的存在となる。根強い人気を誇るバウムクーヘンを始め、クッキーやケーキ類を主力商品とする。会社としての設立は1950年1月、資本金約3億8千万、売上高274億円、従業員数560名の中堅洋菓子メーカーに成長した。


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