ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 290

☆ 草の根運動で会社設立☆

2010.02.10号  


 私たちの暮らしにとって、塩が不可欠な必需品であることは、誰もが知っている。人々の食を育む「塩」の恵に、さまざまな言葉や言い伝えが多いのも、身近さや塩の大切さの表れでもある。人々の塩への思いは、洋の東西や古今を問わず同じである。「しおらしい」とは、控えめで慎み深く可愛らしいとの意である。しかし、その語源は封建時代にまで遡る。当時の主婦にとっては、塩は貴重品であった。そこで出陣する武士達が持つ塩包みを目当てに、言い寄ることが度々あった。馴れないことをする彼女たちの態度は、いかにも恥ずかしそうで、塩欲しさの言い寄りと直ぐに見破られた。この“塩が欲しいんだなと察しがついていた”が転訛した言葉だと云われている。「サラリー」の最初の語源は、ヨーロッパで塩を買うために、兵士に与えられたお金を表す言葉だった。塩を給料として与えたとの説もある。ラテン語の“Salarium(塩の)”である。その“塩のお金”が、後に兵士に限らず一般的な俸給や給料を云うようになった。因みにサラリーマン(Salaried man 又 Salaryman)は和製英語である。「敵に塩を送る」 とは、敵対する相手が困っている時に、助けの手を差し延べることの喩えである。戦国時代に甲斐・信濃に領地を持っていた武田信玄が、東海方面への進出を企て、1567年に今川氏との同盟を破棄した。これに怒った今川氏が北条氏と手を組み、武田領内への“塩留め”をおこなった。現在で云えば経済封鎖である。武田信玄の領地には海が無かったため、領民は塩が摂れずに苦しんでいた。そこで、武田信玄のライバルだった上杉謙信が越後から信濃へ塩を送り領民を助けた。この史実が言葉の語源である。「忠臣蔵」は元禄15年(1702年)12月14日の討ち入りの話で有名であるが、これも塩にまつわる話が発端であった。浅野内匠頭は勅使饗応の大役を受けたが、儀礼伝授役の吉良上野介に、賄賂を送らなかったことで苛めに遭い、刃傷に及んだとされている。しかし、浅野が吉良を斬りつけたときに「浅野が“この間の遺恨覚えたるか”と叫んで斬りかかった」と、浅野を取り押さえた梶川与惣兵衛が記述を残している。これは浅野の領地である赤穂は良質の塩が豊富で、吉良の領地である三河では塩の開発に難儀していた。因縁の始まりは、勅使饗応の大役を受ける以前に、浅野は秘伝となっていた塩の作り方を、吉良に教えなかったことや、吉良の嫉妬や羨望もあり、苛めの原因となったとされる説もある。

 人々の生活に欠かせない塩は、永らく国が管理していた。1949年6月にたばこ・塩・樟脳の専売業務を行ってきた大蔵省専売局が独立し、日本専売公社が発足した。1962年4月に樟脳専売法が廃止となる。1985年4月には日本たばこ産業株式会社が発足し、たばこの独占製造権と塩の専売権を継承して、日本専売公社は解散した。1997年3月に塩専売法が廃止され、4月に塩事業法が施行される。この間の1971年4月に塩業近代化臨時処置法が成立し、翌年には国内の塩田が全廃されることになった。長年に亘って食してきた塩田製の塩が無くなり、新たにイオン交換膜製法で、塩化ナトリウム99%以上の高純度塩が、世界で初めて登場。しかし、専売制のため画一化された塩となった。塩造りの難しさは、にがりの加減にあると云う。しかしイオン交換膜製法では、にがりも不純物として除去されるため、塩の旨味も無くなってしまった。処置法が施行される前年、150年の伝統を持つ瀬戸内海の伯方島塩田も潰れることになり、これに危機感を持った愛媛県松山在住の有志達が、塩田塩を残すための運動を始めた。化学薬品のように純化された過精製のイオン塩より、自然に近い方が良いと「塩の危機」を訴える。署名運動の結果、5万人の署名が集まり、国会や関係省庁へ請願。1973年6月に生産上の制限はついたが、自由販売塩として許可された。「伯方の塩」の誕生である。伯方塩業株式会社の設立は、1口10万円の無担保、無保証、無期限の塩による出世払いとして出資を募った。たちまちのうちに数百万円の資金が寄せられる。特定の資本を背景にしたものではなく、各地の消費者や団体などの無償活動であった。食の安全安心と、伝統的食味を求める消費者の、草の根運動の所産であった。

 最近、大相撲の人気が奮わない。昭和30年代には戦後屈指の大相撲黄金時代があった。横綱・栃錦と横綱・初代若乃花(師匠の大ノ海が幕下時代につけていた四股名で本人は二代目と言っている)の、いわゆる「栃若時代」の頃である。その時代に栃錦の親友で出羽錦という力士と、若乃花の弟弟子に若秩父という力士がいた。二人の対戦では、仕切り直しに花びらが舞い落ちるように盛大に塩を撒く若秩父、指先にちょいと摘んでチョロッと塩を撒く出羽錦。あまりにも対照的な塩の撒き方に、観客も大いに沸き上がった。こんな様子を「塩などは安いもんだと若秩父」「出羽錦塩の値段を知っており」などと川柳にも詠まれ、多くの人達が大相撲を楽しんでいた。出羽錦は1947年の11月場所に入幕し、この場所より制定された三賞の第一号受賞(殊勲賞)者となった。三役在位17場所。獲得金星10個(高見山に破られるまで歴代一位)。史上初の幕内通算1000回出場。幕内在位期間16年10ヶ月は、年6場所制になってから歴代一位。若乃花とは3度の引き分けを記録するなど、実力が備わった名力士であった。制限時間を告げる呼び出しの声に、「ホイキタ」と言って土俵に上がる剽軽さで人気も非常に高かった。自分が初土俵の頃は生まれてもいなかった大鵬とも数々の名(迷?)勝負。猫だましをやったり、立会にいきなり万歳をして両差しを狙った大鵬の両腕を抱えて極め出すなど、ユニークな力士でもあった。39歳で引退した後は、年寄・田子の浦を襲名。年寄り在職中からテレビドラマやバラエティ番組などに出演し、タレント親方のハシリでもあった。日本テレビ「底抜け脱線ゲーム」ではレギュラーまで勤めた。相撲協会を定年退職してからは、NHKで相撲解説を勤め、軽妙洒脱な話で人気を博す。今回の相撲協会理事選挙で話題となった貴乃花親方が、まだ貴花田の四股名だった頃、初優勝の賜杯を渡したのが、協会理事長を勇退する初代・若乃花だった。これを解説席で「勇退の伯父にはなむけ初賜杯」。その後の貴花田の活躍を「寝て起きてまた強くなる貴花田」。1990年9月場所に入幕して9勝6敗の好成績だった曙を「曙が朝日に変わる九月場所」と詠むなど、解説中に突然川柳を詠むことでも、視聴者を大いに楽しませた。最近の大相撲は、協会理事選挙における二所ノ関一門の分裂騒動、選挙での造反投票、横綱・朝青龍の一般市民への暴行と、引退に追い込まれた品格など、土俵外での話題が多い。協会関係者は旧態依然の体質を改め、日本人スター力士育成など、往年の黄金時代復活を期して貰いたい。因みに、現在両国国技館で使用されている塩は「伯方の塩」である。

 伯方島でも弥生時代の製塩土器が出土されている。縄文・弥生時代は天日直煮製塩で、海水が沸騰しても外側に溢れないように、口縁を内側に丸めて造られている。底の形も熱効率が良い形になっているが、煮詰める途中で割れることもあったようで、塩造りも簡単ではなかった。日本では地質的に岩塩は産出せず、塩造りに有利な気象条件にも恵まれていなかった。先人達は様々な工夫を凝らし、藻塩焼き製塩(奈良時代)、揚浜式塩田製塩(室町時代中期)、入浜式塩田製塩(江戸時代)などの技術を開発してきた。近世では海水を煮詰めただけの塩は、にがり分が多すぎて味や健康面でも良くないとされている。塩を焼いたり(炒る)、二年塩とか三年塩と云って梅雨と土用を二度・三度と越してにがりが減った塩が珍重されてきた。これが“枯らし塩”と呼ばれて、にがりがバランス良く残っていて「旨味」の素となっている。いわゆる「食べて美味しい塩」なのだ。1953年から1970年まで造られていた流下式塩田塩は、この“枯らし塩”の逸品であった。塩業近代化臨時処置法の成立後は、海水から直接塩を採ることができなくなった。専売公社から許された製塩法は、その当時、専売公社がメキシコやオーストラリアから、輸入していた原塩(天日海塩)を利用する方法であった。それまでは自由販売塩許可の前例が無かったため、原塩を使うこと以外にも、熱効率の悪い平釜を使うことや、専売塩を誹謗しないことなどの制約を受け、袋のデザインや文言にまで専売公社に、お伺いを立てなければならなかった。1997年の塩専売法廃止により、海水からの直接製塩が認められた。そして、2002年3月に塩が全て自由化され、原料塩の産地も選択可能となった。古代から造られていた塩が僅か8年前まで、事実上政府の管理下に置かれ続けていたのは驚きである。愛媛県・松山在住の有志達の草の根運動により、法に風穴を開けて以来、最近では全国各地から地場の特色をアピールした塩が販売されるようになった。


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