ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 302

☆ 天才デザイナーの死を悼む☆

2010.05.05号  

 2月11日、奇才と云われたデザイナーのリー・アレキサンダー・マックイーンが突然に世を去った。1969年生まれの40歳という早すぎる悲報は、世界のファッション界に大きな衝撃を与えた。グリーンストリートに面した自宅で亡くなっているのを、家政婦が発見したという。アレキサンダー・マックイーンの事務所では、公式サイトに「リー・マックイーンの家族に代わって、アレキサンダー・マックイーンの創設者で、デザイナーのリー・マックイーンが遺体で発見されたという悲劇のニュースを発表する。我々はショックと悲しみをリーの家族と共有している段階で、この悲劇のニュースにコメントすることは不適当である。リーの家族はプライバシーを求めている。メディアがこれを尊重することを望む。」という声明を発表。2月18日になってグッチグループのCEOロバート・ポレットはアレキサンダー・マックイーンのビジネスを「その創設者とクリエイティブディレクター不在のままで継続する」と発表。アレキサンダー・マックイーンの「コレクションはパリ・ファッション・ウイークの期間中は展示される」とコメントした。リー・マックイーンは反抗的でスキャンダラスな発想と、端正な美しさという、相反する要素が同居した服創りで、時代の先頭を走り続けてきた。ロンドンの下町には悪ガキどもが屯する。リー・マックイーンは容姿だけでなく、反抗的で乱暴な言動も悪ガキ達にそっくりであった。創作活動はイギリスの上流階級の伝統的スタイルに挑戦するかのように、汚れや下品さ、怒りなどの表現に目を向けた。動物の骨や朽ちかけた生花、血糊を思わせるシミが付いたような生地。ショーのタイトルもイギリス国内の地域対立を連想させる「ハイランド・レイプ」や「放尿」と言った物議を醸すものであった。巨漢や義足のモデルを起用して、「美とは何か」を世に問いかけた。しかし、その作品はロンドン中心部のショッピングストリートで、高級紳士服の仕立屋が並ぶサヴィル・ロー通りの、職人仕込みの技で、徹底的に創り込まれたものであった。この通りはオーダーメイドの名門紳士服店が、集中していることで世界的にも有名。かつてはウィンストン・チャーチル英国首相や、ホレーショ・ネルソン英国海軍提督、ナポレオン3世などの顧客を抱えていた。チャールズ皇太子などの王族も通うことから「golden mile of tailoring」の異名をもつ。英語では客の要望に合わせた紳士服を仕立てる店を「ビスポーク・テイラー」というが、これは客に希望を話させる(Be spoke)から作られた造語でありサヴィル・ロー発祥であると云われている。日本ではサヴィル・ロー(Savile Row)に当て字をして「背広」の語源になったとされる。この地でリー・マックイーンは、デザイナーとしてのセンスと技術を磨いた。

 リー・マックイーンはタクシードライバーの息子として、6人兄弟の末っ子としてロンドンで生まれた。中学卒業後にパブで仕事をしていたが永くは続かず、偶然に仕立屋職人が人手不足というニュースを見る。サヴィル・ローで仕立職人の見習いを始め、ここからファッションのキャリアをスタートさせる。2軒の店で3年間仕立を学び、ロンドンの舞台用衣装を扱うバーマンズ&ネイサンズでもキャリアを積んだ。その後、コージ・タツノの下で働くが、まもなくコージ・タツノが倒産したため、これを機にイタリアに渡りロメオ・ジリなどの下で修行を重ねる。21歳でロンドンに戻ってからは、多数のデザイナーを輩出している伝統校セントマーチンズに、パターンカッティングの講師として職を得る。そして、自らもセントマーチンズの大学院課程に学び卒業。1991年に卒業コレクションが、雑誌ヴォーグの編集者で、スタイリストとしても知られていたイザベラ・ブロウの目に留まり、デビューすることが決定。このとき、ブロウは業界でリー・マックイーンが全く無名であったにも関わらず、卒業コレクションを破格の5000ポンドで全て買い取ったと云う。翌年に自らの名を冠したブランド「アレキサンダー・マックイーン」を立ち上げる。1993年のロンドン・コレクションにてデビュー。1996年に27歳でジバンシーのデザイナーに大抜擢される。当初はコレクションを酷評されたが、徐々に認められるようになった。そしてこの年、ブリティシュ・デザイナー・オブ・ジ・イヤーを若干26歳で受賞(その後も3回、計4回受賞)する。

 ケイト・モス(本名Katherine“kate”Ann Moss)は1974年生まれの、イギリスのファッションモデルである。公称サイズは身長167僉体重47圈3サイズは84−58−86僂妊皀妊襪箸靴討肋柄なタイプである。これまで300以上の雑誌の表紙を飾っており、多くの広告キャンペーン出演でも知られている。英・米・仏版のヴォーグ、アナザーマン、ヴァニティ・フェア、フェイス、Wなど主要なファッション雑誌のほとんどに登場し、何れも大々的に取り上げられている。英版ヴォーグの表紙には26回、Wの表紙も17回飾っている。Wの2003年9月号ではケイトを「ミューズ(ギリシャ神話で詩歌・音楽・学問・芸術などを司る女神)」とまで呼んだ。世界のファッション・アイコンとして、グッチ、ドルチェ&ガッバーナ、ルイ・ヴィトン、ヴェルサーチ。カルバン・クライン、ロベルト・カバリ、ミッソーニ、ロンシャン、デイヴット・ヤーマン、ディオール、イヴ・サンローラン、バーバリー、ステラ・マッカートニー、リンメル、ブルガリ等々、ビッグブランドのキャンペーンに登場。商業的には大成功したモデルの一人である。ケイトはロンドンで旅行代理店を営む家に生まれ、学業は得意ではなかったが、スポーツの成績は優秀だったと云われる。14歳の時にジャマイカでバカンスを楽しんだ後、ニューヨークのJFK国際空港でスカウトされ、15歳で雑誌フェイスの表紙を飾った。時のスーパーモデルであるシンディ・クロフォード、クラウディア・シファー、ナオミ・キャンベルなどの長身でグラマラスなモデル達と、対照的な体型で1990年代の「反スーパーモデル」として活躍する。2005年9月、英タブロイド紙デイリー・ミラーが、コカインを吸っているケイトの写真を掲載。「コカイン・ケイト」の渾名まで付けられ、何年もの間広告塔役を務めたバーバリーやH&Mの広告から降ろされてしまった。リー・マックイーンはケイトの良き友人として知られ、薬物スキャンダルで批判されていたケイトを擁護。スキャンダル発覚直後の2006 S/Sコレクションのフィナーレで、リー・マックイーンは「We Love You Kate」と、プリントされたTシャツを着てランウェイに登場。翌シーズンのA/Wコレクションでも、ホログラム映像でケイトを登場させて援護した。ケイトは多くのファッション業界の関係者から、援護されてカムバックを果たす。バーバリーやロンシャンの広告でも復帰。英コスメティックメーカー・リンメルのイメージキャラクターとなり日本でもテレビCMが放映され、キャンペーンのために来日も果たした。

 1999年にリー・マックイーンは、活動の拠点をニューヨークに移して話題を集めた。2000-2001A/Wより再びロンドンでコレクションを発表。この時にカジュアルライン「マックイーンズ」を開始。2000年にアレキサンダー・マックイーンは自社株式の51%をグッチグループに売却し傘下となる。これにジバンシーの親会社であるLVMHが反発し、契約期限終了前に更迭された。2002S/Sよりアレキサンダー・マックイーンのブランドにてパリ・コレクションで発表。この年にはハンマツ・オブ・サヴィルローが縫製するクチュールのメンズコレクションを発表。2006 S/Sにはプーマとのコラボレーションで、スニーカーのデザインもする。又、セカンドラインでトレンド指向の「マックMcQ」を発表。2007 S/Sシーズンでは、サムソナイトの高級ラインであるブラックレーベルとのコラボレーションで、クロコダイルのレザーを使用したキャリアケースを発表。リー・マックイーンはジバンシーを解任された後、名門メゾンのデザインには興味を示さなかった。これは名門メゾンの制約の下で働くことに、嫌気が差していたと云われる。それよりも自らのブランド名で、時代の意味を問うような作品を発表することに意義を感じていた。ブランドビジネスが世界規模で巨大化していった1990年代半ば以降、共に世界のファッション界で、時代の寵児となったグッチのトム・フォードは市場動向を重視し、ディオールのジョン・ガリアーノはパリ風エレガンスを基調とした。しかし、リー・マックイーンはロンドン・パンクの神髄を体現し、昇華させる道を選んだ。リー・マックイーンの本質は、形式的なものからの反発にある。イラク戦争直前のショーでは、荒野の中でモデルが突風に向かう演出をしたり、近年では会場にゴミの山を並べて環境問題の提起をしたり、再生への希望を訴えていた。日本をモチーフにした数年前のデザインでは、鎧のイメージでドレスを仕立てた。着ている女性がより強く感じるデザインは、日本の伝統をモードに置き換えることで、伝統を破壊することも、時には必要であることを表現したかったようである。このように伝統を無視したスタイルを取り、誰かまわず自己主張するスタイルは、公私に亘ってゴシップの種にされることが多かった。一方では彼が、天才デザイナーであったことは誰しもが認めている。リー・マックイーンは、ロンドン・ファッションウイークの数日前に最愛の母親を亡くしており、死の直前にはひどく落胆していたという。天才ではあるが、反抗的な言動や態度があることから奇才と云われていたが、母親に対する情愛、友人に対する手厚い援護は、我々凡人と同じであったことに安堵するものがある。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー