ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 32

☆ ホンダを支えた男☆

2005.01.11号  

 名君とか名経営者と呼ばれる人達には必ず名参謀とか番頭さんとか云われる人がいる。古くは信長や秀吉に仕えた竹中半兵衛、徳川幕府300年の礎を築いた名君家康には本多忠勝がいた。昭和の時代にビックビジネスとなった分野では松下電器産業を興した幸之助には高橋荒太郎、ソニーには井深大と盛田昭夫、そして本田技研工業には本田宗一郎と藤澤武夫がいた。この人達の関係は車の両輪のごとく、どちらかが別な人であったなら今日のようなビックビジネスにはなり得なかったであろう。本田は1906年生まれで機械いじりが大好きなヤンチャ坊主がそのまま大人に成ったような破天荒な技術家。藤澤は1910年生まれの江戸っ子。父の会社が関東大震災で焼失して借金だけが残り、家族を養う為に働いた苦労人であった。浜松の発明狂と云われていた宗一郎と、いくつかの会社を起業して商売の勘所をつかんでいた藤澤は1949年に出会った。「金は無いが自分の技術を世に出したい」宗一郎と「夢のあるモノを売ってみたい」藤澤は意気投合した。開発は宗一郎、経営は藤澤の役割分担とし、互いの能力と自分に無い能力を認め合った。


 ホンダでは47年にオリジナルエンジンを搭載し、その排気音から通称バタバタと呼ばれた「ホンダA型」を発売した。49年に本格的オートバイ「ドリームD型」51年に「ドリームE型」を発売する。52年に初めて「カブ」の名前をつけた「カブF型」が開発された。販売は藤澤の役割だった。藤澤はダイレクトメール戦術で全国の一万五千軒の自転車店を販売網として開拓し爆発的に売った。因みに「カブとは野獣の子」の意味とか。宗一郎は開発に没頭するが、当時の日本には優秀な工作機械が無く、部品の精度を上げるには工作機械を輸入しなければならなかった。資本金六千万円の会社が四億五千万円の設備投資だ。資金調達や輸入の為の外貨獲得も藤澤の役割だった。この投資効果を具現したのが58年に発売した「スーパーカブC100」である。販売ターゲットは蕎麦屋の小僧さんが出前に使うオートバイであった。エンジンは排気音が低く燃費も良い空冷の4ストローク、片手でも運転出来る自動遠心クラッチ、泥はねや走行風を防ぐレッグシールドなど様々な工夫がされた。藤澤は販売店を集めて3万台売りたいと言ったところ、販売店主達は年間販売量と勘違いしたと云う。月間販売3万台とは当時では途方もない数量だった。先立つ56年宗一郎と藤澤がヨーロッパ視察に行き、二人は徹底的に議論した。藤澤は宗一郎に対し「隣に寝ている奴が、買っても良い」と云うくらいの車を創ってくれ。技術屋指向ではなくマーケットが要求するモノを作るように、宗一郎を説得する為の視察旅行だったと云われている。


 12月20日ホンダの福井威夫社長は記者会見で、04年の四輪車の世界販売は前年比9%増の316万台で300万台の大台を初めて越える見通しを発表した。05年については前年比8%増の340万台に設定したと発表。海外市場での販売好調から現地生産も加速。06年には中国でもシビックの生産を開始し、日本、北米、南米、欧州、アジアの世界5極体制で生産すると発表した。

  又、新聞発表によると、自動車雑誌などが選ぶ「日本カー・オブ・ザ・イアー2004-2005」はホンダの高級乗用車「レジェンド」が受賞した。最新技術などを評価する部門賞の「モストアドバンスド・テクノロジ」も受賞した。一方、日本自動車研究者・ジャーナリスト会議による「2005年次RJCカー・オブザ・イアー」のテクノロジー・オブザ・イアー部門に「SH−AWD技術」が選ばれた。走行状況に応じて自動的に前輪と後輪に最適な駆動力を配分する四輪駆動システムの高い技術力が評価された。 現在好調なホンダにも危機が訪れた時期があった。イギリスのマン島では毎年世界各国のオートバイ関係者が集まって技術を競い合うツーリスト・トロフィ・レース(TTレース)と云うのが開催されている。宗一郎が夢を懸けてTTレースに出場宣言をした54年、外向けの順風満帆とは反対に経営的には創業以来の危機に陥っていた。朝鮮動乱の特需が終わり大不況が始まっていた。新車スクーターの販売不振。ドリーム号のクレーム続発。出荷を止めた在庫と返品の山。資金繰りの悪化に加えて越年手当に関する労働争議と問題は山積していた。自分の役割は自分で解決すると意を決した藤澤は、心配する宗一郎を説得してマン島視察に送り出した。藤澤は三菱銀行に融資を仰ぎ、当座の資金を確保するとともに、今後のメイン銀行としての結びつきも強化した。誠実な人柄で労働組合とも話し合い納得させた。下請け業者にもホンダの将来性と引き替えに支払いの一部棚上げや値引きの提案を受け入れて貰った。その後ホンダは軽自動車への参入、CVCCエンジンの開発、小型車シビックのヒットなど企業として見事な成長を遂げたが、宗一郎の技術的なこだわりが今後のホンダにとつて問題ありと見た藤澤は「社長は技術屋なのか経営者なのか」と問うた。その後宗一郎は新車開発に口を挟まなくなったと云われる。そして藤澤には最後の大仕事が残っていた。そのころホンダでは二代目社長となった河島喜好などの若手が育っていた。宗一郎の引き際に苦慮していた藤澤は普通車メーカーとして認知されるようになった創業二十五年を機に「俺も辞めるから一緒に引こう、後は若い者に託そう!」と宗一郎を説得したと云われている。宗一郎65才、藤澤62才、後継社長の河島は48才、1973年の事である。ホンダのブランドと花形スター宗一郎を陰で支え続け、舞台回しの裏方に徹した藤澤は88年12月享年78才で他界した。宗一郎は感謝をこめた言葉で藤澤を見送った「俺達は燃えるだけ燃え、二人とも幸せだった。思い出話などはしたことがなかった。いつも二人で夢を語り合っていた」


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