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桃太郎のビジネスコラム 321

☆ すき焼き・しゃぶしゃぶの老舗☆

2010.09.15号  

 645年(大化元年)、飛鳥時代に豪族であった蘇我氏が中大兄皇子(後の天智天皇)によって滅ぼされ、天皇を中心とする政治体制が敷かれた。初めて元号も制定され、国家としての国造りが始まった。大化の改新である。その30年後の675年、天武天皇の時に「殺生禁断令」が発せられ、牛、馬、犬、猿、鶏は4月1日から9月30日までの半年間、食用を禁止された。農耕期の家畜の屠畜制限が目的とされたとの説がある。その後も東大寺大仏殿建立や大仏開眼の時など、度々食肉禁止令が出ている。一方では猪や鹿の食用には制限が無かったとも云われ、それだけ日本人は肉食習慣が強く残っていたと云うことであろう。仏教にも殺生を戒める教えもあり約1200年もの間、日本人は表向き肉食を避けていたため草食系民族とされてきたが、江戸時代には公然と獣肉が売られていたとも云う。幕末の開国によって横浜に居留地が設けられ、1862年に横浜住吉町の居酒屋「伊勢熊」が牛鍋屋に改装されて大いに繁盛したという。1865年には処理場が設けられた。ここで精肉された物を江戸の外国公館に運んでいた中川屋嘉兵衛が、芝の今里村(現・港区白金台)に処理場を設けた。ここの肉を売るために開店したのが、江戸の牛鍋屋の発祥となる。明治維新後は食文化も洋風化され、洋行帰りの人達の間からも肉食が広まり、庶民にも普及していった。1872年に明治天皇が政府の右大臣であった岩倉具視に進められ、牛肉を口にしたことから、牛肉を食することが一般化するようになったと云われる。

 すき焼きとしゃぶしゃぶの老舗「人形町今半」は、本店を日本橋人形町に、本部を日本橋蛎殻町に置く。今半本店をルーツとする都内の飲食店なかで、最も多くの店舗を持つ。1952年に浅草今半の日本橋支店として開店。4年後に独立して人形町今半となる。先代がそれぞれの店は、それぞれで発展しなさいと、分離独立させた。浅草今半は長男が継ぎ、人形町今半は次男が後を継いだ。牛鍋屋としての創業は後発だったが、牛鍋ブームの終焉を乗り切り、常に新しい味覚と顧客の信頼を提供してきたことが、老舗と云われる所以である。牛肉とネギを味噌か醤油で煮る牛鍋から、昭和初期に顧客の高級志向に応えるため、関西流の「すき焼き」をアレンジして東京に定着させた。すき焼きに生卵を添えたのも、高級感の演出と火傷の防止として初めて取り入れた。1955年頃には関西の「しゃぶしゃぶ」をメニューに加え、東京では珍しかったこともあり顧客を大いに喜ばせた。「特性すき焼き弁当」は、樫の重箱にすき焼きとご飯が別々に詰められており、温かいまま顧客へ届けられる。1959年から配達サービスが行われており、立地条件もあり企業からの注文が多い。かつては重役弁当と呼ばれたこともあったという。20種類以上のたれやドレッシング類も販売しており、スーパーなどにも出荷されている。販売されている割下は国内3位のシェアを持っていると云われる。1999年には農林水産省から優良フードサービス事業者として表彰されている。

 1895年は日清戦争が終結した年である。今半は、この年に墨田区本所の吾妻橋近くで高岡常太郎が創業した牛鍋屋に始まる。明治時代に牛肉を食する文化ができた頃、東京に牛肉を持って行くと、どんな肉でも売れると評判になり、正規のルート以外からも牛肉が入ってきた。それには病気で死んだ牛や、老衰でとても食用にはならないような肉も含まれていた。その頃には政府が認めた食肉工場が、芝の今里村にできていた。そこで肉の安全性をアピールするため、当時ではブランドであった今里産の牛肉だけを使用していることと、当時流行った今様という語句の「今」を使い、創業時の出資者である相澤半太郎の「半」を合わせて「今半」と云う屋号にした。1912年に浅草雷門へ移転。当時の浅草は日本で一番の歓楽街であった。しかし、関東大震災で店舗は焼失。その後、竜宮をイメージした豪華な店舗を再建し、人々をアッと云わせた。木造三階建てで、店内には客用の風呂が設けられ、湯口はライオンを模したものであった。和洋中の料理が揃い、金製のすき焼き鍋も用意され「今半御殿」とまで呼ばれた。大正時代の新聞では「今半で景気を占う」という記事まで出たという。しかし、その今半御殿も黄金鍋も東京大空襲で全て無くなってしまった。現在は仲見世通り沿いに、「今半本店」としてすき焼き専門店として営業している。1921年、今半の暖簾分けとして芝区(現・港区)三田に支店が開設される。しかし、太平洋戦争の末期に、店舗が建物疎開のために取り壊される。戦後は浅草伝法院通りの近くで「今半別館」として営業を再開。この建物は今半御殿をイメージして建築。増築や大規模な改修工事を重ね、これを文化審議会は登録有形文化財として登録するよう答申した。1928年に今半からの暖簾分けで「浅草今半」が国際通り沿いに開業。高級黒毛和牛肉を加工した食品を中心に扱っており、特に1945年に開発した牛肉佃煮は好評で、中元や歳暮のギフト商品としては常にランキング上位にある。1952年には日本橋人形町に支店を開設。これが後に分離独立して人形町今半となる。1989年に飲食店事業を分離し、「高伴」を設立して日本料理店・浅草今半を運営している。渋谷区の代々木ゼミナールのすぐ側にある、しゃぶしゃぶ亭・代々木今半は「代々木今半」が運営している。しゃぶしゃぶとすき焼きの専門店である。牛タンのしゃぶしゃぶを考案して大人気となり、テレビ番組でも度々紹介されている。今半という屋号は本店、別館、浅草、人形町、代々木の他、浅草の土産物店と仙台の牛肉料理店が使用している。何れも今半に勤務していた者が独立して営業している店舗である。

 人形町今半は甘酒横町から明治座に向かって歩いた左側にある。ここでは全国から選りすぐりの黒毛和牛を仕入れており、業界でも5指に入る目利きの鉄人がいると云われる。こうした品質と味の追究は多くの有名人にも好評で、リピーターとして通っていた。少し古い話になるが、時代劇俳優の大川橋蔵は来店のたびに、来店する客のために何枚ものハンカチにサインをしていたという。渥美清も大のお気に入りで、撮影終了時には山田洋次監督やスタッフらと必ず打ち上げに利用していた。菜食主義者のジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻も、来日して軽井沢へ向かう前には、必ず寄って食事を楽しんでいたという。人形町今半のグループ会社としては、人形町本店がすき焼き、しゃぶしゃぶを中心とした日本料理店で、都内を中心に8店舗運営している。「喜扇亭」は港区赤坂で鉄板焼きステーキ店。「今半万窯」は渋谷区代々木で炭火焼料理店。「精肉店」は関東地方の百貨店内を中心に店舗展開をしている。「総菜店」は都内に独立型の2店舗と、百貨店内の4店舗で展開。総菜店の店名は「あったか総菜」。因みに、人形町今半での食事は、鉄板焼きステーキが5250円から、すき焼きやしゃぶしゃぶが5775円から、会席料理1万2600円からとなっている。同社のコンセプトは「暖簾を守るのではなく、ブランド力を高めていく」ことだという。


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