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桃太郎のビジネスコラム 328

☆ 妻の皮膚病が治った温泉☆

2010.11.03号  

 滝本金藏は1826年に武蔵国の本所村(現・埼玉県)で生まれた。江戸の大工職人だった金藏は1858年に、幕史の新井小一郎が函館奉行所行きを命ぜられ、蝦夷へ渡るときに誘われて長万部へ帯同した。その年に幌別へ移住して、当時の運送業と旅館業を兼ねたような駅逓所の建設に携わっていた。その頃、妻の佐多は酷い皮膚病に悩まされており、登別温泉の噂を聞きつけ、金藏は佐多を連れて登別へ向かった。険しい山道を分け入って進み、漸く温泉にたどり着いた。金藏は其処で小さな湯小屋を造って佐多を湯治させた。温泉の治癒効果は驚くほどで、間もなく佐多の皮膚病は快癒する。そこで金藏は温泉への感謝の気持ちと、温泉の効用が広く利用されるように願い、湯守の許可を取って湯宿を造り温泉経営を始めた。大工職人としての腕を奮って建てた湯宿は、吹き曝しのものであったが、温泉を元々利用していたアイヌの人達やイオウ山の労働者、白老にあった仙台藩陣屋や南部蕃出張陣屋などの武士も訪れ、金藏の湯宿は賑わいを見せるようになった。またその頃、金藏は温泉の開発だけでなく、漁場経営や農業開拓など多方面で活躍するようになる。やがて話を聞きつけた湯宿の客も増えるようになり、平屋の一部を2階建てに改修。商いとしての湯宿も軌道に乗り始めると、金藏の造った「愛妻の湯」は「湯もとの滝本」と命名された。1890年には初めて内湯を設け、翌年には越冬が可能な施設に整えて、十数名の湯治客が真冬の温泉を体験した。こうして湯治の基盤が出来るようになり、人々は温泉を社交の場としても利用するようになった。湯治客の増加に伴って客の足として、一度に4人が乗れる客馬車を運行するようになる。金藏は資材を投じて、険しい獣道のような山道を切り開いて改修した。温泉への山道を走る馬車はハイカラな馬車で、豆腐屋が使うようなラッパを吹かせて走らせたので、たちまち温泉の名物となった。金藏の温泉道の改修や馬車運行の功績に対し、後に藍綬勲章が授けられる。金藏は1899年に多くの功績を残して他界した。その後は息子の金之助と妻の濱が経営を引き継ぎ、本館と内湯を増築して「滝本館」の看板を掲げた。金之助は二代目金藏を襲名したが、父の死後から3年目に41歳で早死。やむなく濱が経営することになったが、女一人の経営では限界であった。この頃、登別温泉には滝本館以外には小さな旅籠屋が2・3軒と僅かな商店が軒を連ねているだけで、滝本館の営業によって登別温泉の発展が左右される状況であった。

 濱はその当時室蘭にて事業を飛躍的に拡大し、道議会議員も務めていた栗林商会の創始者栗林五朔と知己を得て、滝本家の財産と温泉の経営を栗林に引き継いだ。栗林は巨額の投資をもって温泉の再開発に乗り出し、交通機関の大々的改革を行い、温泉客の増大を図った。1903年には2軒の旅館を買収し「第二滝本館」(現存せず)とし、同時に本館を「第一滝本館」とした。しかし、昭和の時代になると第一滝本館も経営不振に陥り、栗林商会は第一滝本館を南外吉に売却する。外吉は1865年に現在の富山県砺波郡石王村に生まれ、1890年に志を抱いて北海道・赤平に渡った。そこで広大な土地の払い下げを受けて開墾に着手するが、大洪水で全てを失う。その後は滝川に移り空知川の回送業を始めて大成功する。しかし、再び大洪水に見舞われ大損害を被る。外吉は不屈の精神で再起を図るも、日露戦争の不況の波に呑まれて事業は芳しくなく、苫小牧で富士館という旅館の手伝いをしていた。1927年に第一滝本館を買い取った外吉は、63歳の高齢ではあったが、長男・清吉を始め子供達を呼び寄せ、親子総力で商売の隆盛に務め、拡張に次ぐ拡張で第一滝本館の名を世間に知らしめた。1938年には第八新館地下に東洋一の規模とされる総面積700坪、浴槽・泉槽11種の大浴場を完成させた。翌年、外吉は75歳で永眠し、清吉へと引き継がれたが、清吉も僅か5年で逝去してしまい、邦夫に引き継がれる。しかし、外吉と清吉の二代で総建坪が4600坪、総客室数250,最大収容人数1500人と当時では類を見ない巨大施設を持つ温泉旅館に成長していた。邦夫はさらに規模を拡大し、1961年には桜木新館を完成させ、総客室数は300室にもなった。また、邦夫は第一滝本館以外の事業も展開し、「ニセコ滝本」や「滝本別館」を開業。マイカーによる観光客増加を見越して、温泉街に給油所も設置。宿泊客の増加にも対応して、社員の社宅も次々と建設。1974年には登別温泉の宿泊客数は延べ百万人を突破するまでなった。

 登別市の語源はアイヌ語のヌプル・ペッ(色の濃い・川)に由来する。石灰質のカルルス温泉が川に流れ込み、色が白く濁っていることによる。人口の中心は海岸沿いに3箇所あり、北東から登別、幌別、鷲別となる。登別の町は登別川の河口付近にあり、登別漁港に面する。内陸部に登別温泉やカルルス温泉がある。幌別の町は胆振幌別川の河口付近にあり、この地区に登別市役所がある。鷲別の町は鷲別川の河口付近にあり、室蘭市に接していて室蘭市街を北東に延長した位置となっている。年間平均気温は7℃で、北海道では温暖な気候となっており、今の時期は紅葉を愛でるには絶好の季節である。近隣には観光スポットが幾つもあり、多くの観光客を楽しませている。地獄谷は温泉街の直ぐ北にある面積約10万屬稜裂火口跡で、登別温泉の源泉。赤茶けた岩肌の至る所から蒸気や熱湯が吹き出し、一帯は強烈な硫黄の臭いで包まれ、まさに地獄の雰囲気となっている。登別伊達時代村は伊達蕃が活躍した江戸時代を再現。クッタラ湖は温泉街の東に位置し、原始林の中にある周囲8.5劼硫仍蓋弌8仗紊瞭明度は道東の摩周湖に次いで日本二位。水質は日本一である。登別マリンパークニクスは音と光、鮮やかな魚たちの海洋ファンタジーを演出している。オロフレ峠は登別温泉と洞爺湖を結ぶ中間点に位置し、標高930メートル。峠付近には約70種の高山植物が群生。羊蹄山(蝦夷富士)や樽前山、有珠山と噴火湾、洞爺湖などを見渡せる雄大な眺望が人気。クマ牧場は温泉街からロープウェイで昇る四方嶺の頂上にある。約180頭のヒグマを放し飼いにしている世界一のスケール。西に隣接する白老町にはアイヌ部落がある。東に隣接する壮瞥町には昭和新山がある。昭和新山は有珠山麓の平地で畑だった場所が、太平洋戦争最中の1943年12月から1945年の9月までに17回の火山活動によりできた。現在でも周辺には硫黄の煙が立ち籠める。さらに足を延ばせば洞爺湖や支笏湖、そして定山渓温泉などもある。北海道の中心都市・札幌や千歳空港からのアクセスも良いため、登別近隣は北海道有数の観光地となっており、本州や外国からの観光客も多い。

 第一滝本館は1973年に邦夫が逝去し、現社長である四代目・太郎に引き継がれる。その後になると、登別東インターや室蘭インターを始め、周囲に高速道路が次々と開通。これにより遠方の観光客や湯治客への利便が格段に向上。さらにその後は、北海道ブームや温泉ブームが起き、周辺にも他の宿泊施設が増えるようになり、相乗効果もあって登別周辺は北海道を代表する観光地へと発展していく。第一滝本館では施設の拡張と改築を繰り返し、1990年には一連の新増築が完了し、「新装・第一滝本館」としてリニューアルオープン。収容人数は1700名、客室数396室、大浴場は「温泉天国」と称して湯種は7種、浴槽は29槽の大規模なものとなった。飲食店街や娯楽施設も整備。1998年にはバイキングにての食事スタイル、2年後にはバリアフリールームも用意された。2003年には露天風呂の増設が行われ、「金藏の湯」では創業当時にこだわり、使用する木材や泉質も当時の再現を試みた。しかし、この翌年に国内の温泉地に、冷や水を浴びせる事件が起きた。長野県内の温泉に端を発した温泉の偽装騒動だ。この時、第一滝本館では温泉への信頼を繋ぐため、「本物の温泉シリーズ」の広告を展開。毎日の浴槽の清掃や源泉の掛け流しの光景を「ありのままに見せる」戦略をとった。第一滝本館には「滝本は毎日飲まれる二級酒であれ」という言葉がある。創業時からの滝本イズムとして「滝本の湯を使ってもらってなんぼ」という、利用客に対するサービス心と温泉への自信の表れである。建物施設が豪華になり観光客が増え、湯治客が少なくなった現在でも「泊まる場所もある風呂屋のイメージ」は変わらないという。第一滝本館が創業以来こだわり続けた大浴場は1500坪、日量200万リットルの豊富な湯量を誇る。後継者として太郎の長男・信行が常務取締役を務める。資本金1億円、正社員150人、売上高約40億円。2008年には創業150年を迎えた。


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