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桃太郎のビジネスコラム 333

☆ 農学校の演武場☆

2010.12.08号  

 時計台の愛称で全国に知られる札幌市時計台は、1878年(明治11年)以来、130余年ものあいだ札幌市民は勿論のこと、全国からの観光客にも親しまれてきた。正式名称は「旧札幌農学校演武場」と云い、北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として建設された。札幌農学校は近代技術を導入して、北海道開拓の指導者を養成する目的で開校。時計台は農学校生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体育の授業に使う目的で建設されたため、演武場と呼ばれた。1876年に米国合衆国マサチューセッツ農科大学学長から、札幌農学校初代教頭に赴任したクラーク博士の教育方針は、マサチューセッツ農科大学を規範として学問は勿論のこと、キリスト教を基礎とする人格教育に重きを置いた。また、クラーク博士は自身が南北戦争に陸軍大佐として従軍した経歴を持っており、生徒の心身を鍛えるための武芸科を設置して、兵式訓練や体育の授業を行う武芸練習場建設を考えていた。しかし、クラーク博士は8ヶ月余りの赴任で、翌年の4月には「Boys be ambitious=青年よ大志を抱け」の有名な言葉を残して帰国。翌年にクラーク博士の後任として教頭に就いたW・ホイラーが、時計台の基本となる構想図を造り、開拓使工業局主席技術者である安達喜幸の設計・監督で1878年10月16日に完成した。費用は当時のお金で3869円16銭3厘だったと云う。1階は研究室、講義室、動植物や鉱物の標本室として使われ、2階は兵式訓練や体育の授業などの屋内体育館や中央講堂として使用された。完成したときには小さな鐘楼だけで、時計が設置されていなかったが、開所式に出席した黒田清隆(1874年6月陸軍中将兼北海道屯田憲兵事務総理、同年8月北海道開拓長官、1888年4月第二代内閣総理大臣)の発案で時計の設置が決められた。

 1878年11月25日、教頭のホイラーが「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」を、ニューヨーク市にあるハワード時計会社に注文。翌年8月になって到着した機械は、想像以上に大きくて既に造られていた鐘楼に設置できなかった。時計の設置には大掛かりな改修と費用が掛かるため、建設中であった豊平館や東京の何処かの建物に設置することが検討された。しかし、結局は1881年に演武場に設置することになり、玄関正面部分と鐘楼を取り壊し、骨組みも強化して設置。改修費用は1329円だった。もし、この時に東京の何処かに設置されていれば、札幌の時計台という名所は見られなかったかも知れない。時計台の時計塔部分が、バランスの悪い建物と云われたのも、無理をして設置した事情が有ったのである。時計機械は5層構造になっており、一番上の鐘から錘が下がる1階までが時計の機能を果たしている。すぐ側には天文台が設置されており、恒星の子午線通過を観測して時刻の補正をする仕組みだった。時計台の時計機能動力は電池や電気ではなく、錘を利用した機械式で、現在もこの錘を週に2回、市職員の手によって巻き上げている。時計台は札幌農学校のほぼ中央に建てられたが、1903年に札幌農学校が現在の北海道大学の位置に移転したため、1906年に札幌市が買い取り現在地である西南の方向に150辰曚鼻解体することなく現況のまま曳いてきて設置した。元の場所には建物の1階部分に「時計台跡地」の石碑が残されている。機械式時計は1881年に始動して以来、現在までワイヤーロープやネジなどの消耗部品以外は、機械的修理がなく動き続けている。当時の姿のままに動いている時計は、世界でも数台しかないと云う。

♪ この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしあの花が咲いてる
♪ あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
♪ この道はいつか来た道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ
♪ あの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる

 1885年1月25日、北原白秋は福岡の柳川町から、県境の峠を越えた熊本県南関町にある母の実家で生まれた。そこから駕篭に乗せられて柳川の実家に戻ったのが、白秋にとって最初の旅であった。以来、白秋は小・中学生の頃の夏休みには、この道を往来することを楽しみにしていた。母の生家と柳川の自宅を結ぶ南筑後の道は、母との「想い出の道」であり、白秋にとっては終生「こころの道」でもあった。東京に出て詩人として名を成してからも、帰省のたびにこの道を訪ねることを、この上ない喜びとしていた。やがて、白秋が晩年になって北海道を旅した時に札幌を訪れ、そこで見たアカシアの木々や時計台の印象と、我が「こころの道」の情景が重なり合って出来た詩であった。この白秋の詩に山田耕筰が、日本の詩情溢れる美しいメロディをつけ、日本人にとって忘れられない名曲「この道」として完成。1930年発行の世界音楽全集11「日本童謡曲集」に採録された。北原白秋(1942年11月没、本名=北原隆吉)は近代日本を代表する詩人・童謡作家・歌人である。父・長太郎、母・シケの間に生まれ、生家は商家で主に酒造を業としていた。県立伝習館中学(現・県立伝習館高等学校)に進むも、詩歌に熱中して成績下落のため落第。その頃は雑誌「文庫」「明星」などを濫読していた。しかし、1901年に大火によって北原家の酒蔵が全焼し、その後は家産が傾き始める。それでも白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌等に詩文を掲載。そして、この年に初めて「白秋」の号を使うようになる。1904年に長詩「林下の黙想」が賞賛され、雑誌「文庫」4月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。翌年に「全都覚醒賦」が早稲田学報の懸賞一等に入選し、新進詩人として注目される。その後は次々と秀作を発表し、学校唱歌にも取り入れられる。特に童謡は白秋自身の母への、思慕の念が濃く表現されている。主な作品は「ゆりかごのうた」「砂山」「からたちの花」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」等があり、「松島音頭」「ちゃっきり節」等の傑作もある。校歌や応援歌では小中高校から大学まで、30数校の作品を手掛けており、山田耕筰との作品も数多い。

 札幌の時計台は1911年から1966年まで、第二次世界大戦中と、その後の一時期を除き図書館や講堂として、読書や勉強、文学、政治、経済、学術などの講演会、市民の教育や文化の中心的施設としての役割を果たしていた。大正時代には島村抱月、有島武郎、三木露風、若山牧水が時計台で講演会を開き、札幌市民を感動させている。時計台は多くの作家や詩人達も、その文学作品の中でふれている。札幌農学校の教師でもあった有島武郎は「星座」にも書いている。札幌の出身の森田たまは、随筆の中で「あの鐘の音が札幌といふ町の精神です」とまで書いている。音楽では高階哲夫の作詞作曲「時計台の鐘」は、全国に時計台の存在を知らしめた。また、歌謡曲の歌詞の中にも度々登場している。長らく多くの市民に愛されてきた時計台は、1970年に国の重要文化財に指定される。1996年には環境庁の「日本の音風景百選」にも認定。時計台は所有者である札幌市と、市民の献身的な奉仕によって今日まで守られてきた。1995年から4年の月日を重ねて改修工事が施される。現在は資料館やホールとして、札幌市民に広く利用されている。今日では巷に設置されている時計台の大半が、街のランドマーク的存在として美的景観を創り出すことに注目されている、しかし、以前は本来の目的である計時機能が重要な役割を持っていた。20世紀半ば以前の大半の人達は、腕時計や懐中時計を持ち歩かずに、時計台の時報を当てにしていた。因って、時計台は街の中心部に建てられ、街の中でも最も高い建物が多かった。因みに、世界でよく知られている時計台として、イギリスのウェストミンスター宮殿(英国国会議事堂)のビッグ・ベンや、エリザベス大修道院の時計塔。インドのムンバイ南部にあるラジャバイタワー。モスクワの赤の広場から見るクレムリン宮殿の時計台。それにカナダのオタワ議会の丘にある平和の塔などがある。


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