ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 336

☆ モード界革命児の60年☆

2010.12.29号  

 モード界の革命児としてブランド創設60周年を迎えたピエール・カルダン(既号187.ブランドの大衆化)。11月に来日してブランド開設60周年を記念するショーを、9日に文化服装学院(東京・渋谷)で開催した。9月にパリ・コレクションで発表した春夏物の、最新作160点を披露。幾何学的なモチーフや、往年を彷彿とさせるポップな世界を見せた後、最後にランウェイに登場してファンや関係者に挨拶。カルダンが初来日したのは1958年。今回と同じ文化服装学院などで、当時の日本では普及していなかった立体裁断を講義。森英恵や高田賢三に大きな影響を与えたことは、今では伝説ともなっている。本人は「月に行くような気持ちだった」という初来日は、1ヶ月にも亘る滞在だった。以来、来日は50回以上に及ぶ。そして「まず文化や哲学を広めるのが私のやり方。日本での成功をもとに、中国やロシアにも進出してきた」と語る。ファッションブランドとして、中国などの共産圏に普及させる先駆けとなった。自らが実際に見た夢の中で「全身に40個ものボタンが付いた服を着た人が現れた」のが切っ掛けだったという。中国の人口が10億人とすると、ボタン1個を1円で売っても400億円のビジネスになる。カルダンは即座にボタン工場を建設した。今から三十数年前に一人で中国に乗り込んで、大勢の男性幹部にマオタイ酒を片手にカンペーイ(乾杯)と云いまくった。相手が酔ってきたころに、「パリで中国人だけのショーをやりたい」と約束を取付けた。現在ではこの巨大マーケットで「ピエール・カルダン熱烈歓迎」の状態が続いている。そんなタフな創作活動は現在も変わらず、88歳の御年になっても「私は常に他人と違う事をしようと考えてきた。人の言葉は気にせず、自分の考えで進んできた」と意気軒昂に語る。

 カルダンは1922年にイタリア・ベネチアで生まれ、元の名はピエールではなく、ピエトロと云い、若い頃は俳優志願だったとの説もある。17歳の時から仕立屋で働き始めたが、18歳の頃は貧しくて120弔離僖鵑髻△匹κけ合って食べるかを考える生活だった。そして出征し多くの仲間を失った。1945年に終戦となり、フランスがドイツから解放されたのを機に、パリに移り建築家を目指したこともあった。一年という短い期間だったが、パキャン、スキャパレリ、ルロン、それにバルマン(既号269.貴婦人達のクチュリエ)などのブティックで、下働きとして生活していた。そのなかで様々な人脈を築いたことが、ファッションの世界へ進むきっかけとなった。1946年にはクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)が独立して、オートクチュール・メゾンを立ち上げたときに、メゾンの一員として参加。翌年春にディオールが最初に発表したコレクション「ニュー・ルック」が絶賛を浴びたとき、カルダンはテーラード仕立ての主任として活躍していた。それ以後は服だけでなく、生活に関わる物の全てをデザインしようという、並外れた好奇心と研究心で自らの道を切り開いてきた。手掛ける分野は車や飛行機、そして食品にまで広がり「カルダン帝国」と云われるほどに成長した。現在では世界中で最も成功したファッションデザイナーの一人として数えられる。そして移り変わりの激しいモード界で、創始者自身がブランドを半世紀以上も展開しているのは極めて稀な事である。昨年6月に香港発のロイター通信として、中国でピエール・カルダンの靴や皮革製品を扱っている広州健升貿易有限公司が、ピエール・カルダンの買収に向けて協議していると、広州日報紙の報道があった。カルダンも高齢につき、もしやとの憶測があったが、同社のスポークスマンは新聞やオンラインメディアの報道を否定し「報道は事実ではない。もし、そのような動きがあれば公式に発表する」とのことで一件落着。しかし、ネットユーザーの反応を環球時報は、中国企業による世界的ブランドの買収について、「有名ブランドも中国人の手に掛かったら1年で終わりだ」「一旦Made in Chinaになったら売れなくなる」。中には「中国ブランド+カルダン=0」「中国企業による買収=信用低下=売上不振」などと表現するユーザーもいた。やはりピエール・カルダンのブランドは、カルダンでなければならないのである。多くのファンに支えられるブランドもカルダン自身もまだまだ健在である。

 「美女と野獣」は素朴な詩が現出するファンタジーの傑作として広く親しまれている。作者である詩人ジャン・コクトーは4本のシネマに関係し、この第四作は18世紀のありふれたお伽話を、台本だけでなく演出まで担当。1945年に制作され翌年に公開された。作品はその年のフランス映画コンクールの受賞作品となり、パリのラ・マドレエヌ劇場で3ヶ月の長期興行に成功。主演のジャン・マレーは、新しい二枚目俳優として見いだされた。『年老いた商人の末娘ベルは美しく優しい娘であったが、何時も二人の姉に意地悪をされていた。腕白な兄の友人アヴナンはベルに求婚するが、ベルは父の世話をするために拒んでいた。そんな頃、父は自分の船が沈んでしまい破産を覚悟したが、そのうちの一隻が無事に寄港できることになった。喜んだ二人の姉は宝石や衣裳をねだったが、ベルはバラの花を望んだ。しかし、船が港に着くと債権者に押収されてしまい、やむなく夜道を馬車で帰ることになった。何時しか道に迷い森の古城に入り込むと、香しいバラが咲き誇っていた。ベルへの土産に庭園のバラの花を摘むと野獣が現れ、花盗人の命を奪うと脅された。しかし、父の身代わりに娘のうち一人がなれば許すという。家に着いてから娘達に話をすると、ベルが古城に行くと志願する。ベルが古城へ着くと、野獣は思いのほか優しかった。やがて、ベルは魔法の鏡で父の病気を知って帰宅を望んだ。しかし、野獣は一週間して戻らなければ、自分は悲しみに死んでしまうと言う。一方、ベルを慕うアヴナンは野獣を殺し、その宝を奪おうと森に入る。ベルが魔法の鏡で野獣を見ると、野獣はベルの不在を嘆き悲しんでいる。ベルは急いで森に戻ると野獣は悶絶しそうになっていた。財宝を狙って古城に侵入したアヴナンは、彫像に背中を射抜かれて野獣と化した。反対に野獣はその醜い姿を掻き消すように、輝くばかり美しい王子が現れる。それはアヴナンとそっくりな王子だった。王子は長い間魔法使いから、野獣にされていたのだった。ベルと王子は見つめ合い、あなたは私の妃だと言って抱擁し、天高く舞い上がり王子の城へと飛んでいった。』この映画はピエール・カルダンがディオールの下へ行く前年、初めて映画衣裳を担当した作品であった。

 オートクチュール全盛の1959年に、婦人プレタポルテに参入。「モード界から少し距離を置いていたときに、思い立ったのがプレタポルテだった。オートクチュールは一部の金持ちのためだけのものだったが、一般の人達も新作を着ることで喜びを感じるはず。そのためには、シンプルで着やすく、多くの人達が買える価格にすることが必要だった。ファッションの民主化という社会的な意味にも興味があった」と語っている。この考えと経営基盤を支えたのがライセンスビジネスであった。世界110カ国で約800の事業にライセンスを供与する。日本では1959年に高島屋との婦人服ライセンスを始めとして、約30事業で年間120億円を売り上げる。一代で帝国を築き上げたカルダンは「今の若い人達は全てが揃っているのに嬉しそうじゃない」と語る一方で、「みんな豊になったが、ファッションビジネスが商業化しすぎて、若い人達が入り込む隙間が狭くなった」とも話す。そして後進の人達には「誰かの真似事をするような仕事は、クリエーションとは言えない。時代の常識に囚われてはいけない」と話し、「人との出会いを大切にして、雇われても、使われるな。自分は自分であり続けることが大切である」とエールを送っている。


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