ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 54

☆ マイタケと何くそ人生☆

2005.06.14号  

 昭和23年、新潟県の片田舎にある農家に待望の跡取り息子が誕生した。家が貧しく中学を終えると神奈川県の両角工務店に就職するも3年で帰郷する。その後農業を2年、電気部品メーカーの理研電具に6年間勤めた。そして27才の時、事業を始めると云ったら親や親戚にまで猛反対された。「お前みたいな中卒の者が商売をやっても上手く行く筈がない。学歴は無く頭は悪い、金はない、人脈もない、失敗するに決まっている、商売なんか諦めて早く農家の跡を継げ!」と勘当同然の身となってしまった。「失敗して世間の笑いものになるような、みっとも無い格好だけは見せられない。石にかじりついてでも、成功させてやろうと思いました。“何くそっ”と死にもの狂いで働きましたよ。人間は苦しい状況に追い込まれると、日頃は思いもしない能力が発揮できるものですね」今から30年前に「大平もやし店」を創業した大平喜信は振り返る。82年から「まいたけ」を栽培し、翌年には新潟と云えば連想する言葉として、雪国をつけて「雪国まいたけ」を設立した。05年3月期予想では連結売上高230億円、営業利益12億8千万円、従業員960名、東京証券取引所第2部に上場する企業に成長した。

 もやしの栽培・販売事業から多角化による経営拡大を目指していた大平は、スーパーの店頭で人口栽培は、不可能と云われた「まいたけ」を目にした。珍しいうえ、味も良く、病にも効くと云われるまいたけは、サルノコシカケ科に属するキノコだ。当時全国にはまいたけの生産業者が2400もあったが、規模の小さい農家ばかりだった。まいたけと云う商品で成功するには、販売力や知名度では無く、工場で大量に生産できる栽培技術が必要だと考えた。それに成功すれば、スーパーなどの販路が一挙に拡大する。設立10年後の93年にはキノコ生産量で、シエア60%以上の日本一の会社になっていた。大平はさらに設備投資をして、生産量を倍増させると言い出した。供給過剰になることを心配した周囲は、またしても「気でも狂ったか!」と大反対をした。当時は売上高が50億円弱くらいだったが、同じくらいの借金もあった。またそれと同じくらいの借金をしようと云うのだ。銀行では中小のオーナー企業への貸し出しに対しては、必ず社長からの個人保証をとっている。失敗したら子孫末代まで借金が残ることになる。しかし大平は「まいたけの生産量は年間9000トンにしか過ぎず、シイタケの12%、エノキタケの10%でしかない。マーケットはまだまだ伸びる。増産分は未開拓市場である西日本地方で売る」と勝負に出た。「何くそ、絶対成功してみせる。今にみておれ」創業時の何くそ哲学が甦った。大平の読みは見事にあたり「雪国まいたけ」は快進撃を続けた。

 健康ブームにのって需要拡大を続けるキノコ業界に異変が訪れた。マイタケ、エリンギ、ブナシメジ等々、街のスーパーではさまざまなキノコを見掛けるようになった。今やキノコ売場はバイオ戦争の最前線となっている。かつては高級食材だったキノコ類は供給体制も整い、価格も安く、煮物、鍋物、炒め物など種々の料理にも使い易い。中高年の健康、若い女性のダイエット・ブームを追い風にして、2300億円規模のマーケットに成長している。菌類であるキノコは技術さえあれば培養は可能で、バイオ開発競争は熾烈を極めている。マイタケの量産化に成功してマーケットを独占していた「雪国まいたけ」を、猛追していた長野の「ホクト」は、ブナシメジとエリンギで業界トップに躍り出た。暗黙の了解で棲み分けをはかり収益を上げていた両社だったが、「ホクト」は「雪国」が独占していたマイタケ市場に参入した。すぐさま「雪国」は「ホクト」の牙城であるエリンギの生産販売に乗り出した。「ホクト」にマイタケのマーケットを浸食された「雪国」は社運を賭けて東京ドーム2つ分の広さがあるブナシメジ工場を新設し、仁義無き戦いが繰り広げられている。互いの主力製品に参入したキノコ業界の、2大ガリバーが生き残りを賭けた競争に突入し、次第に体力勝負の様相を呈している。二強が鎬を削っている狭間を縫って、滋賀の「タカラバイオ」が頭角を現し、人口栽培は不可能とされていた希少性があり、高値で売れる製品の開発・製造に乗り出した。タカラは「香りマツタケ、味シメジ」と云われるホンシメジの量産化に成功し、4月からの本格的な販売体制が整った。さらにタカラバイオにはアジア最大級と云われるDNA分析施設という武器があった。ここで行われているのはマツタケのゲノム解析である。これによりマツタケの量産化までも、可能にしようとしている。

 キノコ業界では一向に浮揚しない国内景気と、熾烈な競争が厳しさを増しており、「雪国まいたけ」でも事業多角化による、キノコ総合企業へと転換をはかっている。キノコは和・洋・中のどんな料理にも合うことから、水煮や健康食品、お茶などのアイテムも豊富に取り揃え、大手食料品店やスーパーに納入したり、アメリカや東南アジアの一部にも輸出を始めた。欧米ではマッシュルームくらいしか、キノコに馴染みが無かったことから、マイタケへの関心が高まっている。アメリカ東海岸まで航空便で送るには、出荷後36時間を要する。生鮮食材であるキノコを陸上では保冷トラック、空輸も保冷コンテナを使用して、温度・湿度ともにコントロールされた状態で、産地の鮮度をそのままに現地レストランへ供給している。現在、ニューヨークでのテスト販売と平行して、アメリカでの現地生産も見据えた工場立地調査を行っており、近い将来に実現する見通しだ。大平社長は創業間もない頃は、マイタケによる販売ルート作りが目標だった。ルートが出来れば次には別なキノコ、他の野菜、それらを加工した食品と、順に商材をルートに乗せるビジネスを描いていた。創業23年にして漸くその体制が整ってきた。雪国まいたけでは昨年の12月1日から「義援金付き雪国まいたけ」を販売していた。今年の3月31日まで、取引先のスーパーなどに協力を依頼して「地震に負けるな!!新潟・中越」とのキャッチ・コピーで、一パック198円の中から5円を被災地に寄付をしようというキャンペーンだ。この期間に集まった義援金は134.447.470円で、新潟県を通じて被災地に寄贈したとの報告がWebサイトに載っていた。大平社長の「負けず嫌いの、不可能を可能にする、何くそ哲学」の心が届けられた。


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