ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 84

☆ TAKEO KIKUCHI☆

2006.01.24号  

 昨年の夏はクールビズ・ファションがブームになった。多くの企業がノーネクタイでの執務が可能となり、環境省が提唱した省エネ効果も狙い通りの成果をあげたようだ。仕掛け人の小池大臣が依頼したデザイナーはコシノヒロコと菊池武夫だった。発表された新聞記事を見て、菊池武夫とは随分無名の人を抜擢したものだと思ったが、写真を見て納得したものだった。菊池武夫には首を傾げてもタケオキクチ(TAKEO KIKUCHI)なら当然の起用であった。高田賢三、三宅一生、山本寛斎などと並んで日本を代表する世界的なデザイナーである。TAKEO KIKUCHIはHANAE MORIなどと共に個人名が世界的なブランド名に進化した代表的な成功例である。菊池武夫は 1939年に 12人兄弟の 6番目として東京で生まれ、61年文化学院美術家を卒業して、62年に原信子アカデミーを卒業。64年からは銀座でオーダーメードを立ち上げ、その後パリなどへの遊学も経験した。71年に友人達とレディスウェアブランド「BIGI ビキ」を設立した。75年には「MEN'S BIGI メンズ・ビキ」を設立してパリに進出。日本人としては初めてのメンズ・ショップのオープンであり、コレクションの発表なども開催した。このBIGIブランドは、のちにデザイナーズ&キャラクター・ブランドの火付け役として評価された。

 84年に菊池武夫は大手アパレル・メーカーのワールドに移籍した。ワールドはライバルのオンワード樫山と比較してメンズ・ファションの弱さが目立ったが、菊池は自らの名を冠して、日本で最も有名なメンズ・ブランドの一つとなった「TAKEO KIKUCHI」を展開した。このブランドの基本理念は「イギリスの伝統的デザインをもとにして、着こなしの楽しさを表現する」として、スーツを中心に幅広いラインナップ誇っている。同じ基本理念のもとで、カジュアル色を強めた「TK TAKEO KIKUCHI」などの派生ブランドも生まれた。顧客がスーツを自分のサイズに合わせてオーダーできる、パターン・オーダーでは袖ボタンの色をグリーンやピンクにしたり、裏地を玉虫色の無地にするなど遊び心も演出している。中心とする顧客年齢層は 25才から 35才の男性だが、このブランドのファンは 50才代になっても着続ける人が多いという。

 62年 5月、アメリカからエレキ・ギターを抱えた若者達のサウンドが来日した。四人組のエレキバンド ザ・ベンチャーズである。彼らの奏でるテケテケサウンドは、瞬く間に若者達の心をとらえた。若者達は憧れのサウンドを自ら弾くためにアルバイトに精を出し、親を説得してエレキ・ギターを買い求め、仲間達とテンションを揚げていった。4年後の 66年6月には世界のポピュラー音楽界を制覇していた、人気絶頂のザ・ビートルズがイギリスからやってきた。羽田空港でのファンの出迎えから始まり武道館における公演でも、彼らの一挙手一投足が歓声と熱狂に包まれた。この頃はエルビス・プレスリーが兵役を終えて、映画との契約を消化していた時期だった。何処にでもいるような兄チャンのサクセス・ストーリーか、街の不良青年と喧嘩して勝つと唄を歌って、ハッピーエンドとなるストーリーは退屈窮まりないものだった。内容のない映画出演とライブでの興奮がなくなったエルビスと、軌を一にしてロカビリー・ブームは下降線をたどった。若者達の熱狂が冷めて欲求不満に陥っていた時期に、レコードやラジオからしか聞けなかったベンチャーズやビートルズの新鮮なサウンドをライブで見ることができたのだ。若者達は計り知れない興奮を味わった。そして、大人達の米英に追いつけ追い越せと同様に、若者達も一斉にエレキ・ギターを抱えて歌い出した。ザ・スパイダーズ、ザ・サベージ、ザ・タイカースなどのグループ・サウンズなるものを、テレビ、レコード、雑誌などがブームを煽り立てるように競って取り上げた。そんな頃に、一人の男が埼玉県大宮市でスカウトされた。ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、ジュリーと呼ばれた沢田研二と人気を二分することになるショーケンこと萩原健一である。しかし、熱しやすいものは冷めやすいものでGSもやがて下火になった。萩原健一は井上堯之、大野克夫、沢田研二などGSの実力者達とPYGを結成したが興業的には失敗だったといわれている。その後は俳優 萩原健一に転身した。69年の「ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを」が事実上のスクリーン・デビューとなった。テレビでは日本テレビ系の「太陽にほえろ」のマカロニ刑事役は稚拙な演技だったが、74年から放映された「傷だらけの天使」で好演し大ブレークすることになった。同じ系列のテレビ局で 75年から放映された倉本聰脚本の「前略おふくろ様」も続けて大ヒットした。世間の常識から外れたような個性と、当時の若者達への圧倒的存在感がカリスマ的人気を得ることになっていった。映画では73年「化石の森」、74年「青春の蹉跌」、76年「八つ墓村」、80年には黒沢明監督の「影武者」などに出演し、個性的な俳優として不動の地位を築くかにみえた。「好事魔多し」の喩えとおり、83年に大麻不法所持で逮捕された。長いブランクのあとに復帰して、テレビでもNHK大河ドラマに4作も出演するなど、順調に俳優としての活動を続けたが再び悪魔が襲った。04年に起こした交通事故では業務上過失致傷罪で現行犯逮捕。同年には降板した主演映画の出演料を巡るトラブルで、恐喝未遂として告訴され、執行猶予付き有罪判決を受ける。反逆児的イメージの個性派俳優が消えていくのは残念だが、人気俳優といえどもこのような罪を再三犯したのではでは致し方ない。萩原健一が「傷だらけの天使」で好演していた陰で、もう一人の男が大ブレークしていた。萩原健一の衣裳をプロデュースした菊池武夫であった。菊池もこの成功によりデザイナーとして一躍名を広めることになった。

 菊池は若い頃から映画好きで、海外の映画からも影響を受けていた事もあり、数々の映画の衣裳デザインをプロデュースしてきた。「傷だらけの天使」でも衣裳をデザインするだけでなく衣裳の面から俳優の役作りをサポートし、役者の個性を引き立てることに徹した。菊池は03年に「TAKEO KIKUCHI」ブランドのデザインを、弱冠25才の信國太志に任せ「大人のための大人の服」のプロデュースに更なる情熱を注ぎはじめた。クリエイティブ・ディレクターに就任した信國太志は70年に熊本県で生まれた。88年頃は海外ブランドの輸入と国内におけるディストリビューションに携わる。91年には渡米してストリート・ブランドのプロデュースと日本への輸出業務に携わる。93年には渡英、94年には渡仏、95年には再び渡英するなどして感性を磨く。96年にセントマーティン美術学校の修士課程を終了。卒業制作がDAILY TELEGLAGH誌の表紙を飾った。ワールドにおけるTAKEO KIKUCHIブランドは、05年3月期に140億円を売上げてワールドの稼ぎ頭となっている。バッグやネックレス、サングラスなどの小物雑貨は女性へのプレゼントにもできるデザインとし、カップルで同じデザインを楽しむこともできる。全国の主要百貨店87ヶ所での展開に加え、東京丸の内には旗艦店「タケオキクチ フェラーズ」がある。


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