ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 86

☆ 青森ブランド ふじ☆

2006.02.07号  


 小泉内閣は昨年おこなわれた衆議院議員選挙に圧勝した勢いが続き、内閣支持率は 2月になって幾らか低下したものの依然として高く、小泉首相は高支持率を背景に構造改革路線の総仕上げを、9月の任期までに全うしようと意気込んでいる。長年の政治信条であった郵政民営化は選挙結果で決着をつけ、政府系金融機関の統廃合、道路特定財源の見直し、首相就任時に宣言していた国債発行枠30兆円の復活などを相次いで進めている。
そして今度は農政の改革にも乗り出そうとしている。昨年 4月の衆議院議員統一補欠選挙に立候補していた当時の山崎 拓首相補佐官の応援に駆けつけた小泉首相は、福岡市内での応援演説で「福岡県産のイチゴ 甘王 が台湾や香港で売れている。今後は農業も世界市場に出て行くべきだ」と強調し、農政改革を推進して構造改革の底辺を拡大していく姿勢を打ち出していた。
政府の規制改革・民間開放推進会議の宮内義彦議長(オリックス会長)には、昨年12月の最終答申で「農協改革は来年も議論します」と云わせ、「新潟ではなく島根のコシヒカリが台湾で売れている。既存の概念にとらわれない強い農業の確立に努力して欲しい」とハッパをかけた。輸入規制や助成金交付による保護政策から、海外でも競争力のある農産物の生産を促し、攻めの農政で活性化を図りたい考えだ。
そして最近の講演で時々話すことは「青森のリンゴが中国で 1個2000円から3000円で売れている。日本の農業はやれば出来る」と農政改革に意欲をみせている。

 日本に正式にリンゴが移入されたのは 明治4年6月、北海道開拓使次官の黒田清隆がアメリカから苗木を送り、東京の青山官園に75種のリンゴが植えられたのが始まりである。
江戸幕府が滅び明治政府となり、幕藩体制から廃藩置県へと大きく世の中が変わった。そんな時代背景のなかで刀を捨てた武士達に対する勧業事業の一つとしてリンゴ栽培が奨励された。元武士達の真面目でひたむきな努力、それと外国から来ていた宣教師達の手助けもあって今日のリンゴ栽培の基礎が作られた。
青森県に初めてリンゴが持ち込まれたのは 明治8年だった。弘前藩校の精神を引き継いだ私学東奥義塾のアメリカ人教師ジョン・イングが、クリスマスに教え子達へ西洋のリンゴを振る舞ったのが最初だったと云われている。
明治新政府は勧農政策に積極的に取り組み、種苗などの新品種を海外から調達しては全国に配布していた。青森県でも元津軽藩士の救済策として配布された、リンゴの苗木は県下一円で栽培を始めたが、良好に生育したのは弘前近辺と一部の地域だけであった。
明治10年に弘前の養蚕家 山野茂樹が屋敷畑現在の弘前大学医学部に試植していた木に、初めて実がつき 3個のリンゴが収穫された。その後いく度もの試行錯誤を経て、明治23年に東京で開催された 第3回内国勧業博覧会で、弘前のリンゴは有功2等賞を受けることができた。リンゴはようやく商品としての価値が認められるようになっていった。
その後は鉄道の開通などもあり東北から北海道、関東、関西にまで販路を広げるようになった。明治31年頃からリンゴはいろいろな病害虫に遭って打撃を受けたが、明治37年頃から当時では画期的であったリンゴの有袋栽培が行われるようになった。この頃から薬剤散布にボルドー液が使われるようになったり、新しい剪定方法が導入されたりして栽培技術も一段と進んだものとなった。
明治39年には青森港が特別輸出港になり、津軽林檎輸出組合が設立され、上海などに輸出されるようになった。明治41年にはリンゴ輸送に冷蔵庫が利用されるようにもなった。
リンゴは生食用として優れ、加工用としても用途が広く、リンゴ栽培は元津軽藩士達の新規の生業とするには最も適した仕事でもあった。先駆者達の研究と努力、農家の熱意も相俟って青森県各地に多くのリンゴ園ができるようになった。

 1200年代、スイスはオーストリアの圧制に苦しんでいた。スイスのウーリ地方を治める悪徳将軍ゲスラーは住民達に重税を課して苦しめ、権力を振りかざして、自分の帽子を街角に掲げさせて通行人に敬礼することを強要していた。子供のジェミーと一緒に通りかかったアイリアム・テルは、これを無視して通り過ぎ、咎めた将軍の部下にも従わなかった。
報告を受けて激怒したゲスラーはテルを捕らえて牢獄に入れてしまった。ゲスラーは弓の名手であったテルに「ジェミーの頭に載せたリンゴを射抜けば放免する」と云った。
テルはリンゴを見事に射抜いたが、もし失敗して我が子を殺してしまった時にはゲスラーも打ち抜いて殺そうと、もう一本の矢を隠し持っていた。これをゲスラーに見抜かれてしまい再び牢獄に入れられた。この時に王女マティルダが現れて「オーストリア皇帝の名において子供は自分の保護下におく」と言ってジェミーを救ってくれた。
テルはその後、護送されてルッエルン湖を船で渡ろうとしたときに嵐に遭い、船の漕ぎ手が必要とされて縄を解かれた。船が岸に着きそうになったときにテルは岸に飛び移って逃げ出した。その後テルは我が子を救ってくれた皇帝への恩返しと、祖国を圧制から開放させるために、ゲスラーを付け狙い射殺した。これを契機にスイスが独立する事ができるようになり、1291年8月1日がスイスの建国記念日となったと云われている。
この伝説は 1804年にドイツ人シラーによって戯曲化され、1828年から 29年にかけてロッシーニが作曲した生涯最後のオペラ作品「ウイリアム・テル」である。
私達の生活の一番身近にある果物がリンゴであり、リンゴにまつわる話も大変多くあります。旧約聖書のなかにもイブが蛇にそそのかされて世界で初めてリンゴを食べ、人間としての知恵を身につけたとあります。日本では島崎藤村の「初恋」のなかにも林檎がでてきますし、リンゴを題した歌もたくさん作られています。リンゴに含まれる植物繊維ペクチンの腸整作用は便秘に効果があり、クエン酸やビタミンCはアセトアルデヒドの分解を促進するので二日酔いに効く。リンゴポリフェノールはガンやアトピー性皮膚炎、成人病の予防効果があるらしく、女性の美白効果もあり、たいへん健康に良い果物である。

 現在、日本のリンゴの生産高の半分以上占めている品種が「ふじ」である。昭和13年青森県藤崎町に、東北寒冷地の園芸農業振興を目指す国の政策によって「農林省園芸試験場東北支所」が誘致された。藤崎町は年間予算の3年分にも相当する多額の寄付金を支出し、町をあげて試験場の創設と業務を支援した。
試験場は翌14年からリンゴの新品種を育成する試験に取り組んだ。多くの品種の組み合わせから、種子から生えた苗(実生)を1万4千本も生みだした。
「国光」と「デリシャス」の交配実生は 昭和22年から実をつけ始め「東北1号」から「東北6号」まで番号をつけて選抜された。 昭和26年に実をつけ始めたリンゴが 昭和33年に
「東北7号」として選抜された。東北7号は各地の研究機関などで栽培され、リンゴ産業の将来を担う有望な品種として注目されていた。昭和37年3月に全国りんご協議会名称選考会で「ふじ」と命名され、4月に「りんご農林一号」として品種登録された。
リンゴの新種は既存品種を組み合わせた果実の種子を植えて沢山の実生を育て、それについた実の味や形や色などから、有望なものを選んでその実生を苗木に仕立てる。さらに栽培のしやすさ、着果の良さ、病気や害虫に対する抵抗性、貯蔵力など、あらゆる面から試験が繰り返される。最終的に良い品種と確認されてから品名がつけられるのである。
「ふじ」もこのような過程を経て、交配から品種登録まで23年の月日を要して作られた。
リンゴの新しい品種を作る仕事には、大変な根気と時間のかかる作業と、運の良さという偶然まで求められる仕事であるという。「ふじ」は色づきが悪く、すぐに果実が割れる欠点を持っていた。栽培するには既存のリンゴの枝を切り落として、新しい品種の枝を付け替える「高継ぎ」をする必要がある。しかし、高継ぎをするとそこからウィルスが発生しリンゴの大木を枯れさせる原因不明の病気が広がった事もあった。栽培農家はこのような幾多の困難も乗り越えて、世界を征するリンゴ「ふじ」を作り上げた。
青森県では 一昨年4月に県庁内に商社の役割を担う「総合戦略販売課」をつくり、国内はもとより海外にまで販路を開拓して「青森ブランド」の確立を目指している。




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