ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 91

☆ 本に学んだ創業☆

2006.03.14号  

 アメリカの家庭には“Hit The Book”という言葉があるそうだ。「本を叩け=勉強しなさい」と云う意味だそうだ。 1月22日にリサ・マリーが母プリシラを付き添え人として、
京都で仏式の結婚式を挙げたと 2月18日になって報道された。 空手に凝っていた父親の
影響もあってか、純和風の儀式だったと報道された。ハイスクールを落第寸前で卒業したと云われる彼女の父は、のちに莫大な資産と名声を手に入れてから「若い頃、自分が勉強していなかったことを取り戻すのは、本を読むことに因ってのみ得られる」と云った。
マスコミが創った美談なのが、敬虔なクリスチャンであったことから本とは聖書のことなのかは不明だが、伝説として伝わっている。
一方、フーテンの寅さんこと渥美清は大変な読書家だったそうである。シャイな性格でプライベートな情報は殆ど公表せず、とくに映画「男はつらいよ」シリーズがヒットしてからの私生活部分は謎に包まれていた。彼の演技や死後に公表された数少ない生前のインタビューや、盟友であった関敬六や谷幹一らの想い出話などからも、勉強熱心で博識な面を窺い知ることができた。また、さり気ない話の中から「教育がある事と、教養がある事」の違いを気づかされたことも幾度かあった。
洋の東西を問わず“Hit The Book ”とは生きた言葉なのかも知れない。

 世の中には机上の知識だけで物事を判断する人と、自分の経験で得たことでしか判断できない人がいる。しかし、規模の大小は別として企業経営者や管理者がこれでは困る。
経営者や管理者に求められている資質は、発生した問題を客観的に分析する能力と合理的且つ迅速に処理する能力である。
分析能力のない人は、現実にそぐわない屁理屈を並べ立てた論理の展開をして、結果として目の前の問題から逃避をしたり、日々発生している問題が必ずしも自己の経験則だけでは処理出来ないにも拘わらず直感に頼って判断を間違えている場合が多々あるようだ。
ビジネスは目標に到達する論理と、リスクを背負って挑戦する実践によって利を得るものである。過去に経験をしたことのない未知の問題を解決するには、新しい知識と新しい発想の論理を展開しなければならない。そして先人達の事跡に学び、先人達が経験した幾多の事例を疑似体験することである。すなわち先人達が残した幾多の知恵と経験を歴史の中から学ぶことであり、歴史を学ぶ事とは多くの本を読むことにほかならない。
ビスマルクは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と云い残している。

 1921年、大日本医師会会長で医学界の重鎮であった北里柴三郎が、優良な国産体温計の製造という設立趣意書に賛同して、自ら発起人となり「赤線検温器株式会社」を設立した。
当時はヨーロッパ製の体温計が国内市場を抑えていたが、第一次世界大戦後はドイツ製体温計の入手が困難となり、医師達からは国産体温計の必要性を訴える声が強くなっていた。
翌年には初の国産体温計を発売するが、医学者達のビジネスでは販売が思うに委せなかったため、赤線検温器では販売を森下仁丹に委託することにした。
森下仁丹では出資するとともに販売を引き受けることとし、社長の森下博は取締役相談役として経営にも協力する事になった。
業界からは「売薬屋の体温計」と揶揄されていたが、森下は品質管理を徹底した。また、全国の著名人8万3千人に直接商品を送りつけて、不要な場合は返品して貰うという奇抜なダイレクト・セールスを行って飛躍的に業績を上げていった。
36年には仁丹体温計株式会社に社名変更することになり、63年には体温計のドイツ語読みである「テルモメーター」に由来する「テルモ」という名称を付して株式会社仁丹テルモとなり、74年には三度目の社名変更で現在のテルモ株式会社となる。
テルモは「医療を通じて社会に貢献する」という企業理念のもとに、人工心肺システム、血糖測定システム、ホローファイバー型人工肝臓、血管造影用カテーテルシステム、各種使い切り医療器具などの総合医療機器・医薬品メーカーに成長した。連結売上高2.300億円、世界150ヶ国以上の医療現場で必要不可欠な医療器具や医薬品を供給している。

 森下仁丹の創業者・森下博は 1869年に広島県に生まれた。 父も祖父も宮司の職にあったが、博に物心がつく頃に祖父の出身であった森下家に世継ぎが絶えたことから、神職から一転して商いの道に入ったが、士族の商法では上手くいくはずもなかった。
父は長男には学問よりも実地の仕事を身につけた方が良いと考え奉公に出ることになった。
見習い奉公の年季が明けた博は、勉学の道に戻り福沢諭吉の「学問のすすめ」や「世界国尽」を学んだが、父が病気となり両親の元に呼び戻され、再び学業を諦めることになった。
父が亡くなると博は家督を相続して森下家 15代佐野右衛門を襲名した。 福沢諭吉の著作で知った新しい時代や未知の世界への夢は絶ち難く、3回忌を過ぎた 15才の年に単身大阪へ上った。大阪で医者を開業していた叔父の元に身を寄せ、再び丁稚奉公に出ることになった。普通丁稚の年季は 15年と云われるが、努力の甲斐があり 9年で年季明け別家が許
された。1892年 1月15日に丸尾花子と結婚し、独立開業の準備を始めるようになった。
翌年には森下南陽堂として「原料の精選を生命とし、優良品の製造販売・進みては外貨の獲得を実現し・広告による薫化益世を使命とする」と理想に燃えて事業に乗り出したが順風満帆とはいかなかった。
思うに委せぬまま苦しんだ森下南陽堂に 1900年に売り出した梅毒新剤「毒滅」の発売が
救世主となった。当時の梅毒は花柳病、文明病として猛威を振るっていた。また、対処薬としての「毒滅」の発売に先立って、フランスから輸入したルーデサック「やまと衣」を性病予防器具として発売した。「病気は予防する物」という考えを実践し、衛生や予防が軽視されていた時代に、今日の予防医学の考えを先取りした画期的なことであった。
「毒滅」の成功で従業員も増え、資金的にも余裕の出来た森下南陽堂は新しい総合保健薬「仁丹」の開発に着手した。当時、日本の医療は風邪や食あたりでも命を落とす人が少なくないような貧困な状況だった。森下博は台湾に出兵したときに目にした、飲みやすく、携帯保存に便利で万病に効果のある丸薬のような薬の製造を考えていた。
仁丹の販売もユニークな方法であった。全国の薬店に突き出し屋根の看板や幟、自動販売機を設置したり、新聞の全面広告を連続して出すなど、広告でも薬店をサポートする戦略を執った。その結果、仁丹は発売わずか2年で売薬の売上高第軌未箸覆辰拭
仁丹発売当初の看板には、現在も仁丹のシンボル・マークになっているドイツの宰相ビスマルクをモデルにした「大礼服の外交官」マークが使われた。
森下博は本に学び歴史を教訓として創業し、医薬医療の世界で商いに邁進する傍ら、必要とあれば商いを別として国産体温計の普及にも力を尽くすなどの人格者でもあった。
博は 1943年に享年75才で逝去し、2代目社長は京都大学在学中であった孫の泰に引き継
がれた。初代の薫陶を得ていた森下泰は大阪青年会議所の設立に奔走するなど関西財界の発展に寄与し、参議院議員を勤め 87年に享年65才で他界した。死後、勲二等旭日重光章
が授与された。
昨年は現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる「赤大粒仁丹」が発売されて100年を迎えていた。




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