桃太郎のビジネスコラム 69

☆ 流通革命 ☆

 1939年、アメリカのオハイオ州でJ.J.ローソンが牛乳販売店を開業していた。新鮮で美味しい牛乳は「ローソンさんの牛乳屋」として評判を呼んだ。その後ローソンはローソン・ミルク社を設立して日用品などの生活必需品も販売するようになり、アメリカ北東部を中心にコンビニエンス「ローソン」としてチェーン店を展開するようになった。
59年ローソン・ミルク社はアメリカ食品業界の大手コンソリデーテット・フーズ社の傘下となり、オハイオ州を中心に広範囲に店舗展開を進めると共に、コンビニエンス・ストアの運営システムを確立していくようになった。(現在は米国にローソンを冠した店は無い
これに関心を寄せたダイエーが74年12月にコンソリデーテット・フーズ社とコンサルティング契約を締結。翌年4月にダイエーローソンを設立して日本にローソンが誕生した。
ダイエーローソンはローソン・ミルク社のノウハウを元に独自のフランチャイズ・システムを確立し、6月には大阪市豊中市にローソン一号店となる「桜塚店」が開店し、9月にはフランチャイズ一号店となる「桃山店」がオープンした。
ダイエーの本格的コンビニエンス・ストアのフランチャイズ・チェーン幕開けとなった。
オリジナル商品第一号は「ローソンさんの牛乳屋」に因んで「ローソン無調整牛乳」が同時発売され、アメリカン・ファームを連想させるミルク缶デザインも継承された。
ローソン一号店はセブン・イレブン一号店に遅れること一年であったが、右肩上がりの絶頂期にあるダイエーも新しい流通チャンネル開拓を意欲的に取り組んでいた時期だった。

 84年春、銀座3丁目の旧読売新聞社跡地にフランスの香りがするデパートが誕生した。
ダイエーは72年に三越を抜いて日本一の小売業になり、80年には小売業として初めて一兆円の売上高を達成した。しかしダイエーは量的な拡大はなしえても、質というブランド力ではどうしても大手デパートには勝つことができなかった。当時の創業社長である中内 功の悲願を具現化したのが「プランタン銀座」であった。
プランタン銀座はフランス・パリにある世界的に有名な伝統ある百貨店「オプランタン」との日本における唯一の提携店である。プランタン銀座ではフランスやイタリアからの直輸入品を中心とする、ヨーロッパや国内のファション、ファション雑貨、アクセサリー、リビング・インテリア雑貨小物、ワインや食品などお洒落で魅力的な商品を並べている。
有楽町駅よりほど近い銀座という立地もありオープン当初は多くの客で賑わった。
バブルが崩壊して親会社であるダイエーの苦悩が始まると共にプランタン銀座の業容も活力を失い始めた。02年ダイエーは99%の株式を読売新聞社に売却した。さらに読売新聞社はその30%を三越に売却した。

 ダイエー創業者の中内 功は22年大阪に生まれ神戸で育った。42年神戸高等商業学校
(現 兵庫県立大学)を卒業して日本綿花(現 ニチメン)に入社してビジネスマンとしてのスタートをきったが、翌年「赤紙」の召集令状によって最激戦区であるフィリピン・ルソン島に派兵される。地獄の戦場で戦友のほとんどが命を失うなか、人肉喰いの噂まででた捕虜生活から奇跡的に生還した。復員後は家業の薬局を継ぐことになり、空襲で焼け野原となった神戸の闇市で医薬品の販売を始めた。
「すき焼きを腹いっぱい食べたい。その一念で生きて帰ってきた」という中内は、焼け跡で大衆が飢える姿を目のあたりにして、生活必需品をいつでも安く買える仕組みを作ろうと闇市から立ち上がった。中内の流通革命の原点であった。
57年、大阪・千林商店街に「主婦の店 大栄薬局」を開店。翌年には神戸・三宮に「主婦の店ダイエー」を開店、中内が少年時代を過ごした故郷で、神戸市が進めた開発行政と軌を一にして店舗網を拡大していった。「売上はすべてを癒す」とした出店攻勢は、右肩上がりの日本経済と共に地価上昇を見込み、土地を担保に銀行融資を受け、さらに出店を続ける連鎖で事業を拡大していった。
それまでの常識だった百貨店業界の「掛け値なし、正札販売」を覆し、大量仕入れによるコストダウンで値引き大量販売を打ち出した。中内は食料品や衣料品などを自分で選び、レジスターのある場所で支払うスーパーマーケットという業態を日本に根付かせた。
新しい小売りの形態は値引きを嫌う大手メーカーとの激しい摩擦をうみ「価格は消費者が決めるもの。松下さんが決めるのはおかしい」と唱えて、松下電器産業の製品を安売りしたダイエーに対し、松下は 64年に出荷を停止するや、ダイエーは中堅メーカーである クラウンと組んで独自の低価格カラーテレビを発売して対抗した。松下との「30年戦争」と呼ばれた対決の末、メーカーの小売価格の設定は形骸化し、価格決定の主導権は消費者に移った。大手メーカーの価格支配を消費者に取り戻した画期的な出来事だった。
規模と全国展開、そして「頼まれたらイヤと言えない」性格は、さらなる事業展開に意欲を燃やし、88年には「福岡ダイエーホークス」を発足させ、92年には未公開株を事業拡大の手土産にして失墜した「リクルート」も傘下に入れた。ホテル、不動産、クレジットカードなど中内の事業欲はとどまる事はなく、88年には生涯の思いを託して自ら学園長になった「流通科学大学」まで創設した。
ダイエーグループが頂点に達したのは、バブルが弾けた後の94年に忠実屋、ユニードダイエー、ダイハナなどと合併して全国網を完成し、実質的なグループ売上高は 5兆2293億円に達した。単独でも 2兆5400億円、出店の足かせだった大規模小売店舗法が緩和されたのを追い風に97年には店舗数 378店舗に達しGSMは絶頂期を迎えていた。

 バブル経済崩壊後は消費者の志向が大量消費から商品を選別する「こだわり」へ変化した。家電製品や衣料品などを特定の分野に絞って個性的な商品を販売する「カテゴリーキラー」と呼ばれる専門店が登場して急成長を始めるようになった。
消費者からは「ダイエーには何でもあるが、欲しいモノは何もない」とまで云われ、95年の阪神大震災では営業不振に追い打ちをかけた。店舗を集中させた三宮で7店中4店が全壊し、中内は震災3日後には現地に入り復興の陣頭指揮に立った。「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り店を開け続けろ。流通業はライフラインや」と号令した。
しかし、土地神話の崩壊で多額の借入金が経営を圧迫していた時に、震災による500億円の損害は既存店舗の改装費にまで窮するようになり、98年には初の経常赤字に陥った。
00年には消費者の利便性を追求したコンビニ最大手のセブン・イレブンに売上高日本一の座を明け渡した。02年、中内はダイエー関係の総ての役職を辞任、04年、ダイエーは産業再生機構に経営支援を要請した。
ダイエーグループで1兆円を越すとも云われる有利子負債の削減に、300億円とも云われる資材を投げうって再建に思いを馳せたが、05年9月19日中内の戦後は終わった。
ダイエーの安売りに対抗して出荷停止をした花王の渡辺元副社長は「中内さんはうちの一番の人気商品を客寄せの目玉にして安売りした。メーカーの開発努力も尊重して欲しかった」と中内を最大の褒め言葉で悼んだ。
中内 功のような不世出のカリスマ経営者は、もう生まれることはないだろう。
最後に中内の人生語録をひろってみた。「消費者に良いモノをどんどん安く」「一流主義よりも一番主義だ。企業を伸ばすには絶対一番で無ければならない」「ダイエーの歴史は現場主義の歴史でもある」「売上が伸びるのは、消費者や地域社会に貢献している証だ」「儲けようとすれば損をする。お客さんに喜んで貰おうとすれば必ず儲かる」「ネアカのびのびへこたれず」「私がいると私の意見が結論になってしまう。今までのようなトップダウンの時代ではない。全員参加でやってもらいたい」

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