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桃太郎のビジネスコラム 172

☆ メジャー支配に挑戦した男 ☆

関門海峡の潮は驚くほど速い。速い処では7ノット、時速に直すと約14qの早さである。大正時代の初め頃、この関門海峡で「海賊」と呼ばれる男がいた。海賊と手下達は夜中になると仕事に取りかかった。港に帰ってくる漁船を待ち受けるのだ。海賊一味はエンジンの音を聴いただけで、何処の漁船かが判るくらい調べ上げていた。
伝馬船の櫓を漕いで漁船に乗り込み、漁師達が陸に上がる前に注文を取ってしまう。その頃の漁船は燃料に灯油を使っていたが、海賊達は下級の軽油であったが、値段は灯油の半分で売った。いつの間にか多くの漁船が、海賊の勧める軽油に切り替えていた。
漁船に給油船を近づけて給油するのだが、船が揺れている状態でもバイブを突きだし、手慣れた仕事ぶりであった。油の量を計るのも、自分たちで考えた計量器を作り上げていた。
燃料油を漁船に売るのは、元売りから仕入れて小売りをする特約店の仕事である。特約店は下関・門司・小倉・博多などに地区割りされ、それぞれが販売権を持っていた。縄張りを持たない海賊が、殴り込みを掛けて縄張り荒らしをやっているようなものだった。文句を言われると「海に門司とか下関とか書いて、線でも引いてあるのか」と言い返した。
海賊と云われた所以である。

海賊の頭領は1885年8月22日、福岡県赤間村(現・宗像市)で、藍問屋「紺屋」を営む父・出光藤六、母・千代との間に生を受け、佐三と名付けられた。
佐三が幼少の頃、出光家は町でも指折りの資産家として知られていた。母は普段は優しいが、芯の強い女性だった。神戸高等商業学校(現・神戸大学)へ進んだ佐三は、二人の恩師と出会った。「黄金の奴隷になるな。士魂商才をもって事業を営め」と説く水島校長。「これからの商人の役割は、生産者と消費者を直結して、その間に立ち、相手の利益を考えながら、物を安定供給することにある」と教えた内池廉吉教授。二人の教えは、その後の佐三の事業経営の精神的支柱となった。
神戸高商を卒業した佐三は、従業員が3人しかいない「酒井商店」に入り、小麦と機械潤滑油を扱う仕事を丁稚から始めた。エリート意識の強い学友達からは、最高学府を卒業して就職するには、相応しくない職場として「おまえは気違いだ。学校の面汚しだ」とまで云われた。
しかし、佐三には考えがあった。将来自分が独立するためには、仕事を基礎から覚えることである。何から何まで自分でやらなければならない小さな会社の方が、仕事が覚えやすい。しかも、酒井商店は油を扱っていた。すでに佐三は卒業論文で、油の将来性に着目していた。
最高学府を出ながら丁稚になり、はっぴ姿で自転車に乗って仕事に駆け回る佐三を見て、興味を募らせる男がいた。淡路島の資産家の養子で、佐三より9歳年上の日田重太郎であった。佐三が神戸高商時代に息子の家庭教師を、頼んだのが縁で知り合った。
その頃の佐三の実家は家業が思わしくなくなり、苦しい生活を続けていた。家族を引き取るために、独立を決意したものの、独立資金の当てなど無かった。
1911年、重太郎は3つの条件をつけて、当時の金で6000円(現在の貨幣価値で8000万円から9000万円に相当する)の資金提供を申し入れた。「第一は従業員と家族を思い、仲良く仕事をすること。第二は自分の主義主張を最後まで貫くこと。第三は自分が金を出したことを他人に言わないこと。」であった。
こうして佐三は27歳にして機械油を扱う「出光商会」を立ち上げた。事務所の正面には水島校長の揮毫による「士魂商才」の額が飾られた。1940年に出光興産株式会社となった後も、会社の基本方針として「人間尊重」(既号113.がんこ親父の帝王学)を掲げ、定年制も出勤簿なども設けなかった。そして国家に頼らぬ「自主独立」の精神を貫いた。母の強い意志を受け継いだ出光佐三は、恩師の教えを実践し、重太郎の言葉を守り続けた。

1953年3月23日早朝、出光佐三は神戸埠頭の突端に立っていた。まもなく出航する、当時としては最大級の一万八千トンタンカー「日彰丸」を見上げていた。
行き先はサウジアラビアとなっていた。しかし、本当の行き先は、同じペルシャ湾でも最奥に位置するイラン・アバダンであった。密命を知っているのは船長と機関長の二人だけだった。イランはその二年前、イギリス資本のアングロ・イラニアン社(BPの前身)を国有化していた。イギリスとの関係は険悪な状態となり、国交は断絶状態であった。イギリス海軍はペルシャ湾を航行するタンカーの、無線を傍受して監視下に置いていた。イランから石油を積み出そうとすれば、拿捕も辞さない体制を取った。日彰丸は出光興産が持つ唯一のタンカーである。万が一、拿捕されれば一気に会社倒産の危機に陥る。当時の日本は連合軍の占領統治から、独立したばかりであった。連合軍の一翼を担っていたイギリス、そして産油国を支配する欧米のメジャー資本に、挑戦するかのような行動を取ったのである。
神戸港を出港して18日後、「出光興産所属の日彰丸、アバダン入港」の外電が世界中を駆け巡った。全世界が注視するなか、イラン石油2万2千キロリットルを満載した日彰丸は、他船との交信を一切止め、ひそかにペルシャ湾を抜け出した。インド洋を横断し、一ヶ月後に大勢の歓迎を受け、川崎港に無事帰港したのである。
これに対し、アングロ・イラニアン社は積み荷の所有権を主張し、出光興産を東京地裁に提訴。法定で「日彰丸事件」として争われたが、その後アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となった。
戦後の暗い世相の中、力道山が空手チョップで外人レスラーを叩きのめし、白井義男はダド・マリノからフライ級のチャンピオン・ベルトを奪い、古橋広之進は全米水泳選手権に招待され、世界記録を樹立し「フジヤマのトビウオ」と賞賛された。
敗戦と占領で打ち拉がれていた日本国民の多くが、喝采を叫び、心を奮い立たせた。
そしてメジャーに挑戦した日彰丸のイラン原油輸入は、日本人の心に誇りと自信を取り戻し、その後の復興から高度経済成長につながる歴史的快挙であった。

1956年のスエズ紛争を契機に、ケープタウン経由でも価格競争が可能な、六万六千トン以上のマンモスタンカーが建造されるようになった。出光興産も八万五千トンの用船を皮切りに、1962年には十三万九千トンの「日彰丸三世」を建造した。その後も二十万トン級の超大型タンカー「出光丸」を就航させた。出光興産の大型タンカー建造は、日本の造船業の発展に寄与するとともに、日本の原油調達拡大を牽引し、国内の石油安定供給にも、大いなる貢献を果たした。
そして今また、出光興産はデジタル素材でエレクトロニクス市場に貢献しようとしている。次世代ディスプレイの中核となる、有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)発光素材で世界最大手企業となった。ディスプレイのカギとなる、青色の発光材料を世界で初めて実用化した。12月に世界で初めて有機ELテレビを発売すると発表したソニーを始め、数十社に発光素材を供給している。
有機ELの原理は特定の有機物を、ガラスなどに薄く塗布して電圧をかけると、有機物自体が発光するというもの。液晶と違ってバックライトが不要で、テレビや照明を極端に薄くできる特徴がある。
20年前から始めた研究は、ようやく本格的な事業化に漕ぎ着け、次世代ディスプレイの本命として注目を集めている。4月から静岡県・御前崎で稼働した専用工場は、携帯電話なら2億台分を造れる世界最大級の工場である。
創業者・出光佐三が海賊商法からスタートし、石油のメジャー支配に風穴を開けた「士魂商才」「人間尊重」「自主独立」の精神は、エレクトロニクスの分野でも受け継がれて行きそうである。

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