ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 176

☆ C・ドヌーブをイメージ☆

2007.11.13号  

 1936年8月1日、イヴ・サンローランはアルジェリアのオランに生まれた。自らの名を冠したファッション・ブランドで、フランスを舞台に世界を席巻したデザイナーである。現在、イヴ・サンローランは70歳を過ぎているが、色白で金髪の天然パーマ、黒縁の四角い眼鏡、細身で品の良い老紳士である。53年にIWS主催のデザイン・コンクールにおいて、弱冠17歳で最優秀賞を受賞した。54年にはクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)に迎えられる。57年にディオールが、イタリアのモンテカティーニで、52歳の若さで心臓麻痺のため急逝したため、21歳で後継デザイナーに就任した。翌年にはパリ・コレクションにデビューし、「トラペーズライン」を発表して大好評を得た。しかし、60年にアルジェリア戦争に徴兵されたことを機に、ディオールを解雇されてしまった。62年、ピエール・ベルジェと共に、オートクチュール・メゾン「イヴ・サンローラン」をオープン。以後は「シースルー」「サファリルック」「モンドリアンルック」「スモーキング」「パンタロン」など、60年代を代表するエレガンスなスタイルの発表を続けた。66年にはイヴ・サンローランのプレタポルテラインである「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」のブティックをパリ6区にオープンした。

 85年、イヴ・サンローランはレジオンドヌール勲章を受賞した。この賞はナポレオン一世によって、制定されたフランスの勲章で、現在もフランス最高位の勲章として存在。レジオンドヌール勲章は等級があり、高位から「グラン・クロワ」「グラン・ドフィシエ」「コマンドール」「オフィシエ」「シュヴァリエ」の5階級がある。さらに、それより上位にグラン・クロワを受けた者のなかで、フランス大統領などの限られた人に贈られる頸飾がある。同一人物が、より上位の階級を受賞し、複数回受賞することもある。フランス人の場合はシュヴァリエから順に階級が上がるが、外国人の場合は功績次第で、いきなり上位の受賞をすることがある。グラン・ドフィシエ以上は民間人が受賞することはない。日本のグラン・ドフィシエ受賞者には、元内閣総理大臣・中曽根康弘が受賞している。また、パリと東京が姉妹都市になった関係で、元東京都・知事鈴木俊一も受賞している。イヴ・サンローランは93年に、デ・ドール賞も受賞している。この賞は「金の指貫き賞」と呼ばれ、パリ・オートクチュール協会に加盟しているデザイナーのなかから、毎シーズン最もクリエイティブだったデザイナーに贈られている。

 『パリに夜のとばりが降りる頃、コールマン刑事(アラン・ドロン)の一日が始まる。その頃、四人を乗せたダッジが大西洋沿岸の、小さな町に向かって疾走していた。ハンドルを握るルイ、隣には首領のシモン、後部座席にはマルクとポールが座ったが、四人は押し黙ったまま、車内は重苦しい雰囲気が漂っていた。四人は銀行襲撃のため、パリから車を走らせ、閉店間際の銀行に押し入った。客を装ったシモンの右手にはコルト45が握られていた。マルクは自動小銃を構えて、あとに続いた。ポールは手際よく札束を、ケースに詰め込みだした。一瞬、出納係は札束を赤いボタンを目掛けて投げつけたと同時に、けたたましい音の非常ベルが鳴り出した。三人の注意が反れた隙に、出納係はピストルを取りだしマルクを狙い撃った。同時にマルクの自動小銃が火を吹いた。出納係は倒れこみ、その身体からは血が流れた。現金奪取に成功した四人は、パリに戻り負傷したマルクを病院に担ぎ込んだ。その頃、コールマンはある組織が税関とグルになって、麻薬をリスボン特急で運ぶという情報をキャッチしていた。夕刊一面トップは、銀行襲撃事件を報じていた。その新聞を持ったシモンは、自分の経営するナイトクラブに姿を見せた。人気のないホールで、コールマンが弾くピアノを、片隅で静かに聞き入るブロンドの美女がいた。シモンの情婦であるカティ(カトリーヌ・ドヌーブ)だった。警察が動き出したのを察知したシモン、ポール、ルイの三人は、マルクを病院から連れ出そうとしたが失敗。非常手段として看護婦になりすましたカティが、マルクを注射で絶命させた。やがて、コールマンが得ていた情報通り、リスボン特急は麻薬の運び屋を乗せて、パリのオーステルリッツ駅を出た。同じ頃、麻薬を横取りするために、シモンら三人を乗せたベンツはボルドーに向かっていた。横取りにはヘリを使う作戦が用いられ、見事に成功した。パリでは殺されたマルクの身元から、犯人を割り出していたコールマンが、パリに戻ったルイを逮捕した。コールマンとシモンはナイトクラブで再会したが、互いに心中を察していたのか、多くは語らなかった。クラブを出たコールマンは、ポールのアパートへ向かった。もはや高飛びする時間の余裕がなかったポールは、観念したように自分のこめかみにピストルを当てた。残るはシモン一人である。翌朝、エトワール広場前のホテルに、カティの運転する車がシモンを迎えに来た。シモンが歩み出した瞬間「動くな!シモン」と、静寂の中にコールマンの声が響いた。シモンは微笑をたたえてコールマンに近づき、手を胸にあてた。次の瞬間、コールマンのピストルは火を噴き、シモンの身体が折れるように崩れた。シモンは拳銃を持っていなかった。「死ぬ気だったのか・・・」そこには呆然と立ちすくむカティがいた。』72年に公開されたフランス映画「リスボン特急」のあらすじである。この映画でカトリーヌ・ドヌーブは容姿の美しさだけでなく、演技派としても認められた作品だった。ドヌーブは10代の頃から映画に出ていたが、64年のミュージカル映画「シェルブールの雨傘」でスターの座を確実にした。この映画はミシェル・ルグランの作曲したテーマ音楽と共に、語り継がれている名画である。数々の映画に出演し「フランス映画界の女王」としての揺るぎない地位を築いている。その美貌から「世界最高の美女」とも呼ばれた。今年2月の第79回アカデミー賞授賞式には、渡辺謙と二人で非英語圏の俳優代表として舞台に立ち、賞が設定されて50周年を迎えた、外国映画賞の歴史を紹介した。その2週間後、第15回を迎えた「フランス映画祭2007」の代表団長として10年ぶりに来日した。

 イヴ・サンローランは「私はいつもドヌーブをイメージしてデザインしている」と言わしめるほど、60年代後半まではカトリーヌ・ドヌーブを、マスコット的存在としていた。卓越した技術と存在感の大きさは、多くのデザイナー達に影響を与えていた。イヴ・サンローランは自他共に認めるゲイだという。ベルサーチ(既号134.連続殺人魔とベルサーチ)はゲイ仲間に射殺されたし、アルマーニ(既号131.モードの帝王)もゲイと噂されているなど、世界のファッション界にはホモセクシュアルが多いという。99年にピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)社が、イヴ・サンローランのスポンサーであるサノフィ社を買収。PPR社はイヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ及び香水部門をグッチ社(既号127.ブランド商品の元祖)に売却。サンローラン本人とオートクチュール部門はPPR傘下として残した。グッチ社に買収されたのを受け、イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュのデザイナーにはトム・フォードが就任した。この時、オートクチュールのデザイナーもトム・フォードに替わるという噂が立ち上がった。しかし、パリにおいてイヴ・サンローランはすでに、神格化された存在であったため、周囲から大反発を受けた。そこで、オートクチュールだけはイヴ・サンローランに続けさせ、プレタポルテ部門をトム・フォードが担当することになった。ビジネス至上主義の現代ファッションの世界で、一際異彩を放つイヴ・サンローランの凄さであった。そして、02年のイヴ・サンローラン引退に伴い、オートクチュール部門の閉鎖が発表された。イヴ・サンローラン以外に「イヴ・サンローラン」は語らせないという、執念さえ感じさせられる出来事だった。最後まで徹底的に神格化されたデザイナーであった。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー