ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 205

☆ ブランドの迷走と再起☆

2008.06.11号  

 プラダはイタリア・ミラノに本社があるファッション企業で、同名のブランドを持つ。1913年にマリオ・プラダは、ミラノに皮革製品の店「プラダ兄弟商会」を開業した。マリオは欧米のいろいろな国を旅して周り、珍しい素材や質の高い皮革を買い集めていた。それらを素材にして、イタリア職人の技術でバッグや財布など、豪華なアイテムを造った。これが何時しかミラノの上流階級の人々に評判となり、イタリア王室の御用達となった。58年にマリオが他界し、娘のルイーザ・プラダがビジネスを引き継いだが、時代の変遷とともに豪勢な商品は敬遠され、長く低迷する期間が続いた78年にマリオの孫娘であるミウッチャ・プラダがオーナー兼デザイナーに就任してから、ビジネスは変革を見せ始めた。50年生まれのミウッチャは、若作りの可愛いタイプの女性だが、社会学で博士号を取得する才媛であった。母ルイーザに請われて、気乗りしないままファミリー・ビジネスを手伝うこととなった。ミウッチャ28歳の時である。ミウッチャは祖父マリオが、旅行用カバンに使用していた「ポコノ」を用いてバッグを開発。ポコノは軽くて丈夫な工業用防水ナイロン素材で、現代女性の合理的志向にも合致して大きな話題となった。その後は次々と新しいデザインの、バッグやリュックを発表。85年にはシューズを発表し、89年にはレディース・ウェアーも展開。95年にはメンズ・ウェアーに進出し、96年になって逆三角形のロゴプレートを付けたポコノ製品を広く展開するようになる。98年になり得意のナイロン素材を駆使して、都会的なスポーティー・カジュアルを打ち出し、「プラダ・スポーツ」「アクティブ・スポーツ」というスポーツラインも展開するようになった。

 93年S/Sよりセカンドラインとして「ミュウミュウ」をスタートさせた。勿論デザイナーはミウッチャ・プラダ自身である。ネーミングはミウッチャの幼少時のニックネームが語源となっている。プラダ・ブランドよりも幅広い年齢層をターゲットにし、少し控えめな高級感にして価格も抑え、気取らないカジュアルなイメージを前面に押し出した。このコンセプトはミウッチャの仕事着をベースにしたものだった。ナチュラルな素材とカラーを使ったヒッピー風のアイテムは大きな話題となる。彼女は「日常を贅沢に飾る」をコンセプトに、現代的で革新的な素材を使い、デザインの斬新さと伝統や過去からの、歴史を見事に調和させた。これが世界的に大きなブームを巻き起こすようになった。ミラノコレクションで年2回のコレクションを発表していたが、06年よりパリコレクションへと発表の場を移している。「彼女ほど女性の内面を表現できるデザイナーはいない」とまで、評価されるようになり、ミュウミュウ・ブランドは世界へ羽ばたくようになる。現在のプラダ・グループの総師は、ミウッチャの夫であるパトリッツォ・ベルテッリである。ベルテッリの経営手腕によるところも大きく、プラダとミュウミュウの2ブランドが世界的に支持を得て、ビジネスは拡大軌道に乗るようになった。

 90年代後半に世界の経済成長を、牽引したのはアメリカだった。しかし、アメリカ経済の最大の脆さは借金体質であった。国家は大量の国債を発行して財政支出を拡大し、個人はローンによって消費を続けていた。それによってアメリカ国内の景気は上昇し、輸入が増加することで世界経済も潤った。一方で、国内経済は輸入増加により、対外収支の赤字は激増し巨額の累積赤字を抱えることになった。借金で循環させる経済は、古今東西必ず限界に突き当たっている。アメリカ経済においても、体質の改善が急務となった。01年にIT産業界の過剰投資が一挙に表面化し、IT企業の大型倒産が続出した。花形のIT企業であったグローバル・クロッシングやワールドコム、それにエンロンなどが倒産。エンロンは多額の粉飾が露見し、これに4大会計事務所の一角と云われたアンダー・アンダーセンが関与していたことも判明。これによって、アンダー・アンダーセン会計事務所は解体され、アメリカの対外信用は失墜し、株式市場ではダウが20%も暴落した。こんな世界経済を背景にした中で、ヨーロッパのブランド企業は、アメリカ発のIT革命によるバブル経済の恩恵を享受していた。ブランドを持つグループの多くが、90年代後半は大幅な利益増から、他のブランドを買収する拡大路線を取っていた。プラダにおいても同様に、拡大路線を走った。96年に「グッチ」(既号127.ブランド商品の元祖)の株式を買い占めたが、荷が重かったのか99年までにモエ ヘネシー・ルイ ヴィトンLVMH(既号203.熟成を待つ一億本)に全てを譲渡。今度は同年にオーストリアのブランド「ヘルムート・ラング」を、デザイナーである同氏から買収。続けてドイツの「ジル・サンダー」、イギリス紳士靴の「チャーチ」を買収。さらに経営難に陥っていたイタリアの高級ブランド「フェンディ」(既号163.3世代で育てた世界ブランド)をLVMHと合弁会社を作って買収。「プラダ」と「ミュウミュウ」しか主力ブランドを持たなかったプラダは、マルチ・ブランド戦略を立てて、買収拡大の急先鋒となってひた走った。しかし、2000年代に入りバブルに踊った経営が、長続きすることはなかった。絶好調だったヨーロッパの有名ブランドも、アメリカのITバブル崩壊の余波をまともに受けた。LVMHのように幅広い事業グループを傘下に持ち、株式を公開して資金調達の門戸を、広げているブランドのようにはいかなかった。イタリアではベネトン(既号202.庶民的価格で最高品質)のように、ファミリーで経営する企業も多いが、プラダにおいてはビジネスサイズが大きく、ファミリーで100%の株式を保有する体力では身が持たなかった。01年にはフェンディの株式を全てLVMHに売却。翌年にはチャーチ株式の55%をスイスの投資家グループに売却。05年には51%の株式を保有していたヘルムート・ラング株式の残りを買い取り、07年3月には全てを売却。2月にはジル・サンダー株式も売却。プラダのマルチ・ブランド戦略による買収拡大路線は、迷走の果てに終止符を打った。

 プラダは迷走のツケとして日本円に換算して、千数百億円の負債が残ったと報じられている。拡大路線を捨てた今、残ったのは元々の主力ブランドであるプラダとミュウミュウとなったが、幸運なことに両ブランドとも好調に推移し、共に二桁の高成長を果す。プラダは店舗の空白地帯が多く、スペインのバルセロナ、トルコのイスタンブール、東欧のブダベストなどは、未開拓のマーケットである。経営資源を絞ったことで、優良マーケットを積極的に開拓する姿勢だ。プラダにとってアメリカと並び、金城湯池のマーケットである日本では、03年3月に東京・銀座中央通りに、国内最大級のブティックをオープン、6月には東京・南青山にジャック・ヘルツォークと、ビエール・ド・ムーロン設計の国内最大の旗艦店「エピセンター・ストア」をオープンしている。今年になり韓国のLG電子とコラボレートした携帯電話機「PRADA Phone By LG」を発表。6月1日にNTTドコモより発売し、新聞に一面分を飾る広告を出している。一方、ミュウミュウは本家であるプラダを凌ぐ勢いとなっており、ミラノやパリに続いて香港にも旗艦店をオープンさせ、店舗展開を加速している。同時に高級化路線によるブランドの価値向上も図り、一部にはグッチよりも平均客単価が30%も高いとの報道もある。プラダ・グループの洗練されたライン、上質且つ的確な素材選びは徹底しているが、やはり主力はナイロン素材が定番であり、最も人気のある商品となっている。日本でもナイロン素材の、バックや財布が驚くほどの人気で、プラダだけで何個も持っているファンが数多くいるようだ。拡大路線で迷走したプラダだが、選択と集中により再起を図り、本来の拡大路線が定着してきたようである。


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