ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 214

☆ ホノルルを愛したエルビス☆

2008.08.13号  

 ホノルル市はアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島にある都市。同州の州都でハワイ州最大の都市である。オアフ島には州全体の8割の人々が住んでおり、島の南岸東よりのホノルル市は太平洋の政治・経済・文化の中心地で主要施設が集中している。太平洋の交通の要所としても栄え、外洋クルーズ船や多くの豪華客船の寄港地としても定評がある。ホノルル国際空港は、米国本土はもちろんのこと、日本を始めとする世界各国からの直行便が運行されており、州内の他の島からの便も多数発着している。航空や海運は発展しているが鉄道の敷設はなく、二つのハイウエーがホノルル全域をサービスしている。南部の内陸に深く食い込んだパールハーバー(真珠湾)には米軍事基地がある。市東部のワイキキにはホテル・コンドミニアムやショッピング・センターなどが林立し、世界有数のリゾート地帯となっており、1年を通して多くの日本人や外国人観光客が訪れている。観光スポットにはワイキキ・ビーチやダイヤモンド・ヘッド、米国最古の中華街、米国唯一の宮殿であるイオラニ宮殿などがある。

 ホノルルにはライブ劇場などの音楽イベントの開場も幾つかあり、1900年に設立されたホノルル・シンフォニー・オーケストラが演奏するハワイオペラ劇場などもある。もちろん、ハワイアン音楽の中心地であることは云うまでもない。ハワイ音楽の楽器と云えばウクレレである。エルビス・プレスリー(既号167.60万人の「聖地」巡礼)は除隊後の61年3月に8作目となる映画「ブルーハワイ」撮影のためハワイに来た。11月に映画公開と同時にリリースされたサウンドトラック・アルバム「ブルーハワイ」は、ウクレレを持ってアロハシャツを着たショットがフロントカバーになり、アルバムチャートで連続20週も1位に輝いた。映画はアメリカではもちろん、日本やヨーロッパでも大ヒット。ハワイがリゾート地として世界的に認知され、観光客が大挙して訪れるきっかけとなった映画であった。エルビスの最初のホノルル訪問は、57年11月に汽船マトソニアで到着し、ハワイアン・ビレッジ・ホテル(61年からヒルトン・ハワイアン・ビレッジ、現在はヒルトン・ハワイアン・ビレッジ・ビーチ・リゾート&スパ)に泊まった。ホノルル・スタジアム(現在はホノルル・スタジアム・ステート・パーク)で2回のコンサートと、真珠湾の基地内で、兵士とその家族のための慰問コンサートを開いた。61年のブルーハワイ撮影の時は、ホノルル空港に着き、お気に入りとなったヒルトン・ハワイアン・ビレッジで記者会見。その後戦艦アリゾナ記念館建設のチャリティー・コンサートを開いた。62年の4月には11作目となる「ガール!ガール!ガール」撮影のためホノルルへ。空港からはヘリでヒルトン・ハワイアン・ビレッジに移動。65年8月には21作目「ハワイアン・パラダイス」撮影のため4度目のホノルルへ。68年5月には新妻のプリシラを伴ってホノルル入りしたが、この時だけはイリカイ・ホテルに宿泊した。72年11月にはホノルル・インターナショナル・センター(=HIC 現在はニール・ブレイズデル・センター・アリーナ)でコンサート。73年1月には14日のコンサートを前に、9日にホノルル入りし空港から宿泊先のヒルトン・ハワイアン・ビレッジへはヘリで移動。この到着シーンはコンサートの米国内中継の冒頭で放映され、後日発売されたDVDにも収録されている。エルビス最後のホノルル訪問となったのが、天に召される5ヶ月前の77年3月、恋人のジンジャー・オールデンと、彼女の家族や友人達とのツアーだった。エルビス一行はヒルトン・ハワイアン・ビレッジにチェックインした後、借り別荘で休暇を楽しんだ。ホノルルの人達はエルビスをとても大切にしていたし、市当局も観光客誘致に大きな功績のあったエルビスを、大歓迎していた。そして、エルビス自身も心からホノルルを愛していた。

 73年1月14日は「伝説が宇宙から降り注いだ日」と云われた。エルビスのHICで行われたコンサートは、世界36ヶ国、15億人以上に視聴され、後にも先にも芸能人としてただ一人だけ、世界に向けて衛星生中継された。ホノルル現地時間の午前0時、日本のゴールデンタイム(午後7時)に合わせてオープニングした、史上初で最後の巨大エンタテイメントショーだった。当時は長時間の衛星生中継の技術が未熟なため、NBC−TVは本放送時の通信回線トラブルに備え、前々日に行われた本番さながらの、リハーサルを収録していた。本番ではフィリピンの92%、香港80%と驚異的な視聴率で、日本でも37.8%を記録した。エルビスは、この公演を心から喜び、ジャンプスーツにはアメリカの象徴であるイーグルを刺繍させるくらい誇りを感じていた。そして、エルビスはリハーサルでも本番でも、ケープとベルトを観客席に投げてしまうほど興奮していた。60年代に「真珠貝の歌」で有名なドン・ホーと共に、モダン・ハワイアン・ムーブメントを推し進めたクイ・リーが、癌との戦いに疲れ果て、アルバムをたった一枚だけ残してダイヤモンド・ヘッドから身を投げた。このコンサートの目的は「クイ・リー癌基金」のためのチャリティー・コンサートだった。このコンサートでエルビスは、予定になかった曲も含め23曲を熱唱した。ロックンロールは軽く流し、バラードに力を入れた選曲だった。魅せて聞かせた「マイウェイ」。ドン・ギブソンやレイ・チャールズではなく、エルビスの「愛さずにはいられない」は感動すら覚える。そして、ショーの後半になりメンバー紹介(日本ではCMのため放映されなかった)のあと、クイ・リーが残していった曲を歌った。

I’ll remember you  
                私はあなたを覚えているでしょう
Long after this endless summer has gone  
                この終りのないはずの、夏が過ぎ去った後も
I’ll lonely. oh so lonely  
                私はどんなにか、どんなにか淋しかったでしょう
Living only to remember you  
                あなたとの思い出の中で、暮らすことが
I’ll remember too  
                私はこんな事も覚えているでしょう
Your voice as soft as the warm summer breeze  
                あなたの声が夏のそよ風のように優しかったことを
Your sweet laughter. mornings after  
                あなたの甘い笑い声を、毎朝の終わりに
Ever after. I’ll remember you  
                そして永遠に、覚えているでしょう
To your arms someday I’ll return to stay  
                何れの日にか、あなたの腕に帰る
Till then I will remember too  
                その日まで、私は覚えているでしょう
Every bright star we made wishes upon  
                私たちの願いを賭けた、輝く星の一つ一つに
Love me always. promise always  
                いつも私を愛し、そして誓って下さい
Oooh you’ll remember too  
                あなたも私を忘れないことを
I’ll remember you  
                私はあなたを忘れることはないでしょう

この曲を聴いて胸を詰まらせたファンが少なからずいた。当時エルビスはプリシラと離婚調停中だったのだ。プリシラはドイツ駐留時の所属長の継子であった。エルビスは母親と継父を説得し、未成年であったプリシラをグレースランドに呼んで一緒に生活していた。8年後の67年に結婚し、翌年にはリサ・マリーが生まれた。だが、72年になりゴシップ誌で浮気を疑われたことや、プリシラが空手家と不倫をしたことで離婚。シャイで照れ屋のカントリー・ボーイも、人前に出ればアメリカが誇るロックンロールのキングである。そのキングのプライドをズタズタに傷つけられた悲しみは、「You Gave Me Mountain」「It’s Over」「I’m So Lonesome I Could Cry」などの選曲に表れている。もしかしたら、悲鳴にも近いメッセージ・ソングだったのかも知れない。 そんな気持ちを振り切るかのように、アメリカと自分の威厳を誇示し、滴る汗を吹き飛ばしながら歌った「アメリカの祈り」は圧巻であった。そしてエンディングは、あのブルーハワイの挿入歌「Can’t Help Falling In Love」であった。鳴りやまない歓声に、エルビスは膝を折って観客に応えた。コンサートは大成功であった。ライブ・アルバム「ELVIS-ALOHA FROM HAWAII」がリリースされ、爆発的に売れた。アメリカでは初の4チャンネル・レコードとしても登場。ニール・ブレイズデル・センター・アリーナにはエルビスの銅像が建てられ「1973年にオアフ島で行われた“アロハ フロム ハワイコンサート”は世界初の衛星テレビ中継で全世界に放送された」と記されている。8月16日にはキングが逝って31回目の命日を迎える。

 ホノルルはスポーツや文化の中心地でもある。現在、プロスポーツの在籍は無いが、毎年2月にはアメリカンフットボールNFLが開催される。マラソンは毎年大統領の日に開催されるグレート・アロハランや、毎年12月の第二日曜日に約3万人以上が参加し、その半分以上が日本からの参加者と云われるホノルル・マラソンがある。世界的に有名なサイクリングレース、ホノルル・センチェリーライドも開催されている。ホノルル美術館は東洋美術の充実したコレクションを持つ。ビショップ博物館はハワイだけでなく、ポリネシア屈指の博物館である。ハワイの捕鯨史、海運史や公開カヌー文化を展示している海事博物館ハワイ・マリタイム・ミュージアム。ワイキキ水族館、ホノルル動物園などがあり、老若男女が楽しめ施設も数多くある。48年に石本美由紀作詞、江口夜詩作曲で岡晴夫が唄った「憧れのハワイ航路」が発表された。当時は海外旅行など夢の、また夢のことであった。戦後昭和史のサイトによると、日本人海外旅行者の統計は57年からで、この年は45.744人だった。ブルーハワイが撮影された61年には86.328人となり、その後は急激な海外旅行ブームとなった。因みに2004年には16.831.112人に膨れ上がっている。しかし、歌い継がれて60年を経た現在でも、“夢も通うよ〜 あのホノルルの〜”庶民にとって、憧れの地であることに変わりはない。ホノルル市は那覇市、広島市、宇和島市、東京都など世界24都市と姉妹都市を締結している。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー