ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 215

☆ ダナ・キャランと日本資本☆

2008.08.20号  

 ダナ・キャランは女性ファッション・デザイナーで、自らの名を冠したブランドを持つ。ラルフ・ローレンやカルバン・クライン(既号212.アメリカン・トラディショナル)らと共に、アメリカを代表する人気デザイナーである。本名ダナ・アイヴィ・ファスケ(キャランは前夫の姓)は、1948年アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。仕立屋の父と、モデルやブテイックの店員をしていた母に育てられ、幼少の頃からファッションには高い関心を持っていた。丸くて大きな目と太く長い鼻筋が印象的で、身長も高くダイナミックな女性である。パーソンズ・デザイン学校の在学中から、「アメリカン・スポーツ・ウェアーの母」と呼ばれた「アン・クライン」のアトリエに、実習生として採用される。卒業後は正式入社して、アシスタント・デザイナーを努めた。74年にアンが他界すると同時に、同僚のルイス・デルオリオと共にブランドの後継者に抜擢され、スポーティで着やすい服が高い評価を得る。このコンビはコティ賞(コティ・アメリカ・ファッション批評家賞の事で、ファッション界のアカデミー賞とされ、アメリカのファッション界では最も権威ある賞とされている。)を3度も受賞し、ブリッジゾーンの先駆けとなる「アン・クライン供廚皀好拭璽箸気擦拭シンプルで洗練されたデザインは、キャリア・ウーマンの間で評判となり、経済的に余裕の出てきた自分と同世代のニーズを、巧みに取り入れることに成功。つまり、自分がクローゼットを開けたときに、足りないと感じたモノを、次のシーズン向けにデザインする。この発想は自分達世代の女性から圧倒的な支持を得た。

 85年にアン・クラインを買収していた日本企業タキヒヨーの支援を受け、夫のステファン・ワイスと共に自宅リビングルームを改装し、ダナ・キャラン・ニューヨーク社を設立して独立。コンセプトは「自分と家族のための服」としてダナ・キャラン・コレクションを発表。「ダナ・キャランはファッションの歴史を作った」とまで称賛された。この年にはCDFA(米国デザイナー評議会)より、デザイナー・オブ・ジ・イヤーを受賞。(90年にも再び受賞している。)88年には愛娘ガブリエルに相応しい服として、セカンドライン「DKNY=Donna Karan New York」を立ち上げる。コンセプトと響きのいいロゴが人気を集め、初年度に1億ドルを売り上げて大成功を収めた。90年、自身が完璧なジーンズが欲しいと「DKNYジーンズ」を発表。翌年には夫のためにと「DKNYメンズウェアー」を発表し、CDFAメンズウェアー・デザイナー賞を受賞。92年には娘のボーイフレンドのために「DKNYメン」と、孫娘のマッケンジーのために「DKNYキッズ」を発表。自らのライフスタイルを実践するがごとく、次々と新しいラインを増やしていった。97年にはCDFAのトップ賞とも云えるウーマンズウェアー・デザイナー・オブ・ジ・イアーを受賞する。しかし、92年に初の香水を発表するが大失敗。多くのブランド・メーカーが発売する香水は、専門家に任せてライセンスするが、ダナは全て自前で行うことを主張し「ダナ・キャラン・ビューティカンパニー」を設立。これが裏目に出て、半年で590万ドルの赤字となる。96年には株式を公開し、デミー・ムーアを広告に起用したが、効果は不発に終わり、売上は伸びず株価も低迷するようになった。そんな折り、ダナ自身が新興宗教的なニューエイジに傾斜していき、その影響がコレクションにも表れるようになった。顧客であるキャリア・ウーマン達は、少しずつだがダナ・キャランと距離を置き始めた。

 『一見、華やかなファッション界ではF*CKという、4文字言葉が飛び交うえげつない世界でもある。感情的な人が多く、競争の激しい世界で生き延びて行くには、4文字言葉を吐きたくなることもあるのだろう。ある時、ダナ・キャランの会議が白熱してきて、4文字言葉が飛び交い始めた。すると、滝は黙って席を立ち、会議室から姿を消した。会議室にいた人達は、洗面所にでも行ったのかと思ったが、それにしては長すぎるし、何も言わないのも変だと思い、怒鳴り合うのを止めてしまった。すると、滝は何食わぬ顔で会議室に戻って来た。そして、会議は平穏に進められた。滝が一緒になって怒鳴れば、火に油を注ぐようなものだ。滝の無言の行動は、どんな言葉よりも説得力があり、さらに滝への信頼感を高めることになった。滝は無言と怒鳴ることを、巧みに使い分けていたのだ。直ぐに怒鳴り合うニューヨーカー達にとって、滝のこうした行動は新鮮であり、また神秘的ですらあった。ダナも4文字言葉を吐くことがある。「レディなんだから、そんな言葉は使うものではない」と、滝は娘を諭すように言ったこともある。だが、ダナはまるでダダッコのように4文字言葉を使い、「会社を潰しそうになった人の、言う事なんて聞かないわ」と、滝の弱みを突くこともあった。投資した相手から過去の挫折を言われるのは、なんとも辛いものには違いないが、滝はそうした暴言に対しても、もろに感情に表したりしない。ダナも落ち着けば「トミオ!トミオ!相談があるの」と、甘えてくるのだ。感情の揺れが激しいクリエーター達と、一緒に仕事をするのは並大抵ではない。ニューヨークで一筋縄では行かないクリエーター達と仕事をするなかで、滝は自分の感情をコントロールする業を、自然と身につけていた。』ファッション・ジャーナリスト伊藤操の著書「Manage ダナ・キャランを創った男 滝富夫」からの抜粋である。滝が社長を務めたタキヒヨーは、1751年(宝暦元年)に創業し、260年近くも続く老舗の繊維問屋である。滝はタキヒヨーの社長として様々な改革をし、30億円のビジネスを800億円にまで成長させた中興の祖。しかし、オイルショックがあり、40億円の赤字を出して社長を退陣。奥さんは自殺してしまう。だが、その後はアメリカに居を移し、双子の息子を再出発させ、アン・クラインやダナ・キャランだけでなく、多くののデザイナーに投資をする。パリやハワイでゴルフ場を経営し、イスラエルの企業や韓国サムスンにも助言をする実業家である。現在もタキヒヨーの名誉顧問を努めている。タキヒヨーは、83年にロサンゼルス五輪のシンボルマーク・マスコットキャラクターの商品化権、95年にベビー・子供服PEANUTS(スヌーピー)や、99年にHANG TENの商品化権等を得ている。01年にはウォルトディズニー・ジャパンとマスターライセンスを締結するなど、消費者の身近にある衣料を提供している東証一部上場の企業である。

 01年、ダナ・キャランに転機が訪れた。ダナと夫ステファン・アイス夫妻による経営を諦め、ダナ・キャラン・ブランドの商標権を持つガブリエル・スダジオ(夫妻の会社)と、ダラ・キャラン・インターナショナルをLVMH(既号16.LVMHの5バリュー)に、総額6億4500万ドル(約720億円)で売却。LVMHは両社を統合し、持ち株会社として経営を主導するようになった。これにより、ダナは煩わしい経営面に忙殺されることなく、デザインに注力できるようになった。その後、ダナは個性を表現したいキャリア・ウーマンをターゲットに、シャープで洗練されたスタイルを提案。「仕事先からパーテイーに直行しても良い服」として、ニューヨークのエグゼグティブ・キャリアに絶大な支持を受ける。セカンドラインのDKNYは「CK Calvin Klein」と並んで、日本では大衆向けブランドの双璧をなしていたが、大量生産の弊害も見受けられた。しかし、LVMHグループの傘下に入り、品質もブランド・イメージも復活し、再び消費者の信頼を取り戻した。03年のニューヨークS/Sコレクションでは、最前席にベルナール・アルノーが座り、娘の発表会を見守る父親のように見入っていたと云われる。ベルナールは雑誌フォーブスの、06年長者番付で7番目に選ばれたフランスの実業家である。LVMHやクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)の株式を所有し、両社のCEOも努めており「ファッション界の法王」とまで呼ばれている。滝富夫にしろ、ベルナールにしろ、ダナはおじさま族からすると、放っておけない可愛さと魅力があるのかも知れない。04年にはエイズ知識の啓発と、教育の為の基金を設立。デザイン工業界エイズ基金(DIFFA)の理事にも就任した。アメリカのファッション界では、それまでの数多い賞でダナの実績を認めており、現在はCFDA理事会のメンバーも努める。日本では03年にLVMHグループのファッションビル「ONE表参道」に旗艦店をオープンしている。


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