ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 263

☆ VANのライバルJUN☆

2009.07.29号  

 中国から引き揚げてきた石津謙介(既号55.みゆき族復活)は1948年にレナウンに入社。その後、大阪支社の企画部長にまでなったが、1951年に「会社の歯車になって働くのが性に合わない」と言って退社。大阪・御堂筋の路地の一角に「石津商店」を創業する。
社名の野暮ったさに悩んでいた石津は「VAN」と社名変更。オランダ語では代表的な男子の名前で、日本で云えば太郎のような名前である。英語では先頭に立つとか先駆になると云う意味がある。 石津「謙介」とレナウン時代からの盟友「高木」一雄の名前から取った「ケンタッキー」ブランドをつけた服は、アメリカ調の斬新なデザインに加え、音の響きが良く、覚えやすい社名も相まって一流洋品店や、デパートが競って買い付けに来た。
石津は戦後の民主主義教育で自己主張をしはじめた若者達の、心を掴むコンセプトを考えていた。55年に株式会社にして、社名も再び「ヴァン・ジャケット」と変更。アメリカ東海岸を視察して持ち込んだ、アイビールックを売り出すと大きな反響を興した。
アイビールックが人気上昇中の、1958年に「JUN」が設立された。その後の1963年は団塊世代が高校生になり、ファッションに関心を持つ世代となった。巷ではボタンダウンのシャツに細身のスラックスという、アイビールックが人気を呼んでいた。翌年創刊された平凡パンチがアイビールックのブランドである「VAN」を特集したところ、爆発的な反響が全国に広がっていった。このスタイルで銀座みゆき通り周辺を、たむろした若者達は「みゆき族」と呼ばれ、社会現象にまでなった。そしてこの年、JUNはみゆき通りに直営ブテイック第一号店をオープンした。

 JUNグループは、クラッシックをベースにして、流行を適度に取り入れたスタイルの「JUN MEN」ブランドで、フランチャイズ方式で店舗を拡大。丸井やPARCOなどに数多くの店舗を構えるようになる。1966年には週刊プレイボーイが創刊され、先に創刊された平凡パンチと共に若者達が愛読するようになる。これらの雑誌が度々VANやJUNを取り上げ、若者達から圧倒的な支持を得た。VANのアイビーはアメリカン・トラディッショナル(既号218.ネクタイのセールスマン)をベースにしていたのに対し、JUN MENはヨーロピアンスタイルを取り入れていった。この二つのメンズブランドが、ライバル同士として競い合いながら、1960〜1970年代の若者達のファッションを牽引するようになった。JUNは1968年に「ROPE」ブランドで、レディースファッションにも進出。「JAYRO」や「J&R」は当初、ROPEから派生したカテゴリーブランドであったが、現在では独自の商品開発している。レディースも百貨店を中心に、ファッションビルに多く出店。現在ではメンズよりもレディースの方が、売上高に占める割合が多い。「ROPE Picnic」は手頃な価格帯のオリジナル構成品と、一部インポートを取り扱うショップとして展開している。ショッピングセンターやファッションビルに販路が多い。ROPE Picnicを展開した当初は、ROPEブランドのカテゴリーブラント的存在だったが、最近はVISショップを除いては、独自の展開を強めている。1978年にライバルのヴァン・ジャケットが負債500億円で倒産し、当時では戦後5番目の大型倒産だった。JUNは80年代のDCブーム(既号244.アパレルブランドの倒産)を経て、その後の日本のヤングファッションをリードしてきた。昨年、創業50周年を迎えたが、日本のファッション業界にあって、一つのブランドが半世紀以上も続いていることは、極めて稀な例と云える。

 ジーン・サラゼンは1902年生まれで、伝説のプロゴルファーである。1920年代から30年代に掛けて活躍し、史上初のキャリア・グランドスラムを達成したプレーヤーである。ゴルフの技術革新にも大きく貢献し「サンドウェッジ」を発明したことでも知られている。イタリア移民の家庭に生まれたため、本名はエウゲニオ・サラセニという。ジーンの父親は大工で、貧しい家庭だったと云われている。学校は6学年で中退し、子供の頃からいろいろな仕事に就いていた。10歳でキャディの仕事に就いたことから、ゴルフの世界に入るようになった。1921年に19歳でプロゴルファーに転向し、この時にイタリア名からジーン・サラゼンと改名した。翌年に全米オープンと全米プロのメジャー大会で2冠。更にその翌年のマッチプレー方式の、全米プロで2連覇を達成した。サラゼンはプロゴルファーとしては最初期のプレーヤーであり、しばらくの間はウォルター・ヘーゲンなど限られたライバルしかいなかった。しかし、スランプに陥りメジャー大会の優勝から見放された時期もあった。1932年には全米オープンで10年ぶり2度目の優勝でカムバックし、全英オープンでも初優勝。翌年には全米プロで10年ぶり3度目の優勝を果す。マスターズは1934年にボビー・ジョーンズによって創設された。サラゼンは第2回大会で優勝し、現在の定義によるキャリア・グラントスラムを達成。ジョーンズは1930年に、年間グランドスラムを達成したが、彼は生涯アマチュアを貫いたプレーヤーで、年間制覇した大会は全米オープン、全英オープン、全米アマチュア、全英アマチュアだった。ジョーンズがマスターズを創設したことにより、4大メジャー大会の定義が変わり、2つのアマチュア大会に代わって、マスターズと全米プロがメジャー大会として扱われるようになった。因って、サラゼンがマスターズ創設前に3度優勝した全米プロが、公式なメジャー優勝記録として残っている。メジャー大会通算7勝は、アーノルド・パーマーらと並び、歴代7位タイ記録。1999年5月に97歳の天寿を全うした。

 JUNはファッション以外の事業にも、早くから取り組んでいた。レストランやカフェなどをグループ会社で経営しており、ラジオ番組の製作まで手掛けている。1979年には「シャトージュン」を設立し、ワインの醸造・販売を始めている。ゴルフ場経営にも早くから乗り出していたことで知られる。栃木県の「ジュン・クラシックカントリークラブ」は、1975年にオープン。伝説の名プレーヤー・ジーン・サラゼンが監修したゴルフ場である。1977年にサラゼンの現役引退を機に、彼の偉業を讃えるため、彼の名を冠した「ジーン・サラゼン・ジュンクラッシック」大会のスポンサーとなる。同じ栃木県にある「ロペ倶楽部」も、ジュン・クラシックカントリークラブの姉妹コースとして運営。両クラブともリゾートホテル付きで、露天風呂やレストランなども充実している。ともにパブリックコースで、誰でもが楽しめるコースとなっている。ロペ倶楽部ができてからは、ジーン・サラゼン・ジュンクラッシック大会は、ジュン・クラシックカントリークラブと一年毎の持ち回りで開かれていた。しかし、1999年にサラゼンが亡くなり、この年の第23回大会が最後の大会となった。JUNは昨年、50周年を記念してファッションとアートが融合したアートチャリティーイベントが、東京・表参道の期間限定ショップ「バンガローフィフティ」で開かれた。ここのカフェラウンジ「montoak」では、ファッションデザイナー、モデル、俳優、ミュージシャン、アートディレクターなどの、50人がTシャツをテーマにしたアート作品と、50種類の限定デザインTシャツが展示販売された。もちろん、胸に「JUN」のカンパニーロゴ3文字を、大きくプリントした期間限定の復刻商品も販売。ショップと公式サイトのオークションで販売された収益金は、すべてユニセフと国境なき医師団日本へ寄付された。このイベントは、JUNグループが日本のファッション界にもたらした価値を、多くの関係者達に再認識させることとなった。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー