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桃太郎のビジネスコラム 299

☆ 正統派娯楽の殿堂☆

2010.04.14号  

 1952年、劇作家の丸尾長顕が東宝の小林一三に、大人の娯楽のための小劇場開設を持ちかけた。小林は「女性が見ても上品なショーなら」と承諾。こうして東京・有楽町にある日本劇場5階に、エロチズムを探求する日劇ミュージックホールが開場された。その後は数多くのダンサーやコメディアンを輩出。萩本欽一と坂上二郎のコント55号や、ビートたけしとビートきよしのツービートを輩出した浅草フランス座とともに、昭和の娯楽の黄金時代を支えた。上演されるレビューは主にトップレスの女性ダンサーであったが、いわゆるストリップとは一線を画すものであった。ミュージックホールの黄金時代は1952年から58年頃で、代表的なダンサーは伊吹まり、メリー松原、春川ますみ、奈良あけみ等が活躍し、コントではトニー谷、泉和助、関敬六、EHエリックらが出演していた。深沢七郎が桃原青二の名でギターを弾いていたのも、作家として有名になってから知られるようになった。又、三島由紀夫が脚本を書いていたことでも知られている。その後は小浜奈々子、舞悦子、朱雀さぎり等が劇場に華を咲かせた。あき竹城は山形弁丸出しの明るいキャラクターで、ヌードダンサーとしてもコメディアンヌとしても活躍。以後はTVドラマやバラエティ番組にも数多く出演。1983年のカンヌ映画祭グランプリ作品「楢山節考」では、演技派女優として絶賛され、現在はマルチタレントとして活躍している。その後、ミュージックホールは有楽町再開発による日劇の取り壊しに伴い、興行場所を東京宝塚劇場に移して公演をしていたが、時代の変遷には勝てず1984年に閉場した。

 渡辺美佐は1928年に横浜で生まれた。1945年に宮城県に疎開し、仙台市の宮城女学校へ転入。卒業後は東京の日本女子大学へ進む。1946年に母・花子が仙台駐留のアメリカ軍基地に通訳として採用され、両親は仙台でマナセプロダクションの前身であるオリエンタル芸能社を設立。美佐は学生の頃からアルバイトで、学生バンドの通訳兼マネージャーをするようになり、進駐軍の王子キャンプなどに出入りしていた。この頃、ジャズバンドのシックスジョーズのマネジメントを引き受け、リーダーの晋と知り合い恋に落ちる。二人は1955年1月に渡辺プロダクションを設立し、3月に結婚した。渡辺晋・美佐夫妻は日本のショービジネス界に近代化をもたらした功労者である。TV創成期の「シャボン玉ホリデー」(既号279.心に残るCMソング)の企画は、画期的な番組となった。双子の女性歌手ザ・ピーナツをメインに据え、人気コミックバンドのクレージーキャッツで脇を締め、当時の人気歌手や話題のタレントたちを、毎週取っ替え引き替え出演させる人気バラエティ番組で、日曜日夕方6時半からの放映は高い視聴率を誇った。1958年の日劇ウエスタンカーニバルも、「2月の暇な時期に若い子たちにウエスタンでもやらせたら」という、美佐の軽い思いつきが切っ掛けだった。この企画も爆発的な反響を呼び、美佐はマダム・ロカビリーの異名をとるほど、戦後のショービジネスのリーダー的存在となった。有楽町ビデオホールで開催されていたウエスタンカーニバルを、日本劇場を運営する東宝が開催。観客動員数は初日が9500人、一週間で45000人を記録。当時は東京ドームや日本武道館など、大きなコンサート会場が無かった時代に、画期的動員数でロカビリー・ブームを生み出した。ウエスタンと云うよりも、当時のアメリカで人気を得ていたエルビス・プレスリー(既号214.ホノルルを愛したエルビス)、ポール・アンカ、ニール・セダカやコニー・フランシスなどのカバー曲を、ミッキー・カーチス、平尾正晃、山下敬二郎のロカビリー三人男に始まり、飯田久彦や弘田三枝子らがファンにもみくちゃにされながら歌うという、それまでの歌謡曲では考えられないショーだった。以後は年二回開催され、1960年代半ばからはグループサウンズ・ブームの象徴的なフェスティバルとなり連日超満員となった。ザ・タイガース、ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズ、ジャッキー吉川とブルーコメッツ等々が、熱狂的なファンを獲得していった。しかし、グループサウンズ・ブーム終焉と共に客足も途絶えだし、1971年の第57回目の定例公演を最後に日劇ウエスタンカーニバルも幕を閉じた。

 1956年、キューバのペレス・プラードが楽団を率いて来日し、マンボ・ブームが到来。マンボはラテンリズムの一つで、ペレス・プラードがルンバをアレンジして創作したと云われている。ペレス・プラードが「マンボNO.5」演奏の途中で「ウ〜」と、かけ声を掛けることから、「ウ〜のおじさん」と親しまれ、「セレソローサ」「パトリシア」等の曲が世界的に大ヒットした。しかし、その音楽以上にヒットしたのがファッションであった。ペレス・プラード自身や楽団員が身に付けていた細身のズボンが、若者達の間で大きな関心を集めた。これが、いわゆるマンボズボンである。これに身丈が大きめのジャケットを着るとマンボ・スタイルと呼ばれ、当時の若者達に瞬く間に広がっていった。この頃、アメリカでは1955年公開の映画「暴力教室」の主題曲で、ビル・ヘイリー&彼のコメッツが演奏した「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒット。リトル・リチャードもロックの古典的名曲「ロング・トール・サリー」や「ジェニ・ジェニ」を発表し、エネルギッシュな歌唱法は、草創期のロックに決定的影響を与えた。1955年11月、エルビス・プレスリーは「ザッツ・オールライト・ママ」をヒットさせたサン・レコードとの契約が終え、RCAレコードに移籍。翌年1月には世相を激変させた「ハート・ブレイク・ホテル」をリリース。この年にチャックベリーは、後にビートルズもカバーした「ロール・オーバー・ベートーヴェン」や「ロックンロール・ミュージック」を発表。1958年には永遠の名曲「ジョニー・B・グッド」を発表。ほんの僅かな期間で彼らは、アメリカ中の若者達の心を奪い取った。このロックンローラー達が身に付けていたファッションは、身頃の長いジャケット、シャツはオープンカラー、それにマンボズボンであった。一方の日本では、日劇ウエスタンカーニバルに出演した歌手達の、ロックンロールの初期スタイルの一つである「ロカビリー」が、若者達を熱狂の渦に巻き込んだ。そして、彼らもアメリカのロックンローラー達が身に付けていたファッションと、同じファッションを身に付けた。このファッション・スタイルをファンとなった若者達も身に付けるようになり「ロカビリー族」と呼ばれ、昭和を代表するファッションの一つとなった。

 日本劇場は1933年に東京・有楽町に竣工された。当初は「陸の竜宮」「シネマパレス」と云った構想で、4000人を収容できる大劇場として、本邦初の高級映画劇場として企画された。当時としては画期的な建築要素を取り入れた建築物で、12月24日に開場された。日本映画劇場が経営していたが経営不振となり、日活が賃借映画館とするも経営に失敗。その後は東宝が賃借経営した後に、会社そのものを買収した。東宝は基幹劇場の一つとして経営するようになり、終戦後も占領軍へ東京宝塚劇場を提供することで接収を免れる。戦後は東宝映画と実演の二本立て興業で観客を動員した。場所が銀座(既号130.世界最高級の街)のすぐ側という立地の良さもあり、実演は人気歌手のショーと、日劇ダンシングチームの踊りで人気を呼んだ。当時は歌手達も日劇の舞台に立つことが、一流芸能人のステータスとなっていた。一日3回公演を数日から一週間行い、必ずと云って良いほどダンシングチームが出演し、チーム以外のダンサーの出演を禁じた。しかし、舞台の質はファンを満足させるにはほど遠く、ダンシングチームの踊りも合間を埋める中間ショーだったため、違う曲なのに同じ振り付けの使い回しなど、次第にファンは離れていった。ウエスタンカーニバルなどで、盛り上がりを見せた時期もあったが、安定した客足を確保することが困難となり、1980年に歌謡ショーは打ち切られた。ダンシングチームのショーも春・夏・秋の三大踊りを売りとしていたが、宝塚歌劇団のようにダンスと劇の二部構成でなく、踊りだけだったため安定したファンの獲得に失敗。TVが普及し出すと団体客も入らず、客席はガラガラ状態が続いた。ミュージカルなども試みられたが好転することはなく、1977年に打ち切られる。その後は映画上映専門館となった。しかし、設備の老朽化と、赤字経営をやりくりするためにディスカウントショップ、甘栗屋、洋服店、麻雀やビリヤードなどのテナントが入居するに及び、雑居ビルと化してしまった。1981年2月15日をもって施設老朽化と東京都の再開発事業により閉館。日劇が取り壊された跡地には有楽町センタービル(有楽町マリオン)が建設された。大正時代に建てられ、有楽町のランドマークとして人気を集め、昭和の正統派娯楽の殿堂だった日劇も、最後は無惨な結末であった。


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