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桃太郎のビジネスコラム 312

☆ フランス紳士からの手紙☆

2010.07.14号  

 1925年、国内では2年前に起きた関東大震災の復興が急がれていた。しかし、時代は着実に近代化への歩みが続き、政治的には普通選挙法や治安維持法が公布され、日本労働組合連合の結成を翌年に控えて民主化は加速されていく。文化面でも1922年の帝国ホテル落成(既号51.泊まりたいホテル)を契機に盛り上がりを見せるようになり、山田耕筰による日本交響楽団が結成され、東京放送局ラジオ放送が開始。東京六大学リーグも結成される。画壇では洋画の黒田清輝や日本画の富岡鉄齋らが活躍していた。そして翌年12月25日、およそ10年前から病に伏していた大正天皇が、母の手を握ったまま崩御された。皇后・節子が、大正天皇と長らく逢えなかった実母・柳原愛子を臨終の床に呼んだと云われる。体調のすぐれなかった大正天皇に代わり、1921年から摂政を務めていた皇太子・裕仁親王が、第124代天皇に即位される。元号も大正から昭和の時代になったが、約一年間は喪に服されたことで、即位の大礼は昭和3年11月に施行された。こんな時代背景の中、筒井光康はパリに渡った。当時のフランスは政治や文化の面で、日本より遙かに進んだ国であった。パリの画壇では藤田嗣治が、レオナルド・フジタとして活躍。ほかにも麻生豊、平賀亀裕、野鶺蟻析此⊃綱雄、水谷清らの画家達や、彫刻家の片岡角太郎、柔道家の石黒敬七、日大教授の成瀬勝武、神戸の貿易商・岡延太郎、ソルボンヌ大学で西洋美術を研究していた加藤健吉などがパリに在住しており、筒井は親交を重ねることになる。1926年9月末、この頃のパリは日本で云えば冬のように寒い季節である。筒井は麻生豊と連れだって、落ち葉の舞い落ちるマロニエの街を、オーバーの襟を立てながら地下鉄の駅へと向かった。気がついてみると後ろから同じ歩調で、歩いてくるフランス紳士がいた。どこか見覚えのある童顔でアゴヒゲのある紳士だったが、それ以上は気に留める事もなかった。数日後、日本人クラブで会合があり、フランス在住の日本人有志、偶然に来仏していた横綱・栃木山、三味線の家元・杵屋佐吉夫妻などが出席していた。筒井は久しぶりの日本料理と日本酒を堪能し、ベランダに出て一息つこうとした。すると、そこに例のフランス紳士がいて、「君は何のためにパリに来たのか」と声を掛けてきた。筒井は「婦人帽子の研究だ」と答えたところ、「それはよい。おやすみなさい」と言って去っていった。筒井は不思議に思いながらも席に戻ると、フランス紳士から一通の手紙が残されていた。表には「開けてはならぬ」と書いてあったが開けようとすると、麻生が「開けるなと書いてあるのだから、開けない方が良い」と制止。筒井は手紙を無造作にポケットに押し込み、後日手紙を開けて見てびっくり仰天。フランス紳士は有名な数学者で、前フランス大統領レイモン・ポアンカレーだったのである。ポアンカレーは1927年にチャールズ・リンドバーク(既号62.マッカーサーのサングラス)が、大西洋横断飛行して世界的快挙と云われた時に、横断飛行の成功とパリ到着時間をピタリと当てた予言者でもあった。そして、その手紙の中には「LES BELLES MODES(ベル モード)」と書かれてあった。

 その後、筒井光康はニューヨークにも渡り、大正末年に帰国する。昭和元年は僅か一週間で終わり、筒井は年明けの3月3日に東京・麹町に「ベルモード婦人帽子店」を開業。フランス前大統領ともあろう人が、何故見も知らぬ一介の日本人青年に手紙を呉れたのか真相はわからぬままであった。ファッションの世界で云う「淑女達の流行」とでも訳せば良いのか、筒井は躊躇うことなくベルモードを社名にした。パリでアカデミー・モード・パリに続いて、エコール・ド・ピジェでも勉強した。婦人帽子については世界的水準の技術を学んだとの自負を持っての独立だった。やがて筒井の創る帽子は宮内庁御用達を承るなど、外国大使館や一流名士達を得意先として持つようになり、婦人用帽子の発展に多大な貢献をするようになる。婦人用帽子の普及に伴い、大手百貨店との取引も拡大し、1936年には法人組織に改組。この間に東京や神戸にも支店を設け、築地には工場を新設する。従業員も百数十名になるなど企業としても大きく発展していった。しかし、1945年の空襲で東京は焼け野原となり、ベルモードの本社・工場はともに焼失。筒井は直ちに復興に着手し、麹町に本社を、銀座に支店を設立する。その後は昭和天皇の皇后様の御用を承るようになり、美智子皇后陛下、雅子皇太子妃殿下や秋篠宮妃紀子様の、ご成婚時も含めて御用を承る。現在では自社ブランドによる通信販売事業のほか、大手百貨店での小売り販売、OEM商品生産も受託する。また、世界的な帽子ブランドである、ヘレン・カミンスキー(シドニー)やジリー・フォージ(ロンドン)など、日本における正規輸入元・販売業者としてインポート商品も紹介するなど、幅広い事業展開をしている。2007年には創業80周年を迎えた老舗である。

 1950年に「東西名匠老舗の会」が誕生した。東京を代表する老舗35店舗の「むらさき会」と、京都を代表する老舗38店舗の「くれない会」で構成され、それぞれが和装、洋品、和洋雑貨、工芸品、食品の分野で、特色のある職人芸を競い合い「江戸の粋」と「京の雅」として高い評価を受けることになる。第一回は京都の名刹・東本願寺で開催された。「売り申さず、ご覧くだされ度く」のキャッチフレーズは戦後間もない頃、欲しい物が手に入らない時代に、強烈な販促コピーとして大きな話題を呼んだ。会場内には茶席を設け、表千家や裏千家の協力を得て、お客のもてなしをしたことも、この催しが親しまれる理由となった。当時は大変ユニークな催事として好評となり、春には東京・日本橋高島屋、秋には大阪・難波高島屋で開催することとなり、現在でも脈々と続けられている。東京むらさき会の参加店には一部の変遷があったが、各店の老舗としての逸品は、物あまりの時代の中でも益々輝きを増している。幅広い顧客の信頼は親から子へ、子から孫へと半世紀以上に亘り引き継がれている。参加店は老舗の名に相応しく、歴史と伝統に裏打ちされた高品質の商品を提供。現在の参加店は、きものと帯の福田屋、世きね、鈴乃屋、越後屋。和装品の大野屋、銀座ベニヤ、大和屋。履物の阿波屋、ぜん屋。器・指物の山田平安堂、池之端京屋、東哉。紳士用品の壱番館、田屋。子供服のサヱグサ。靴の銀座ヨシノヤ。鞄・ハンドバッグの銀座タニザワ(既号222.メイド イン 銀座)。婦人用品の銀座セキネ、ベルモードの19店舗が名を連ねている。

 ベルモードでは帽子自体のデザインと、シチュエーションに合った帽子の被り方を「ベルモードスタイル」として提案。「メンズ・ユニセックスハット」は文字通り男女兼用のハットである。男性もオシャレな帽子を被りたいとの、多くの顧客の声で開発した。男性が云うオシャレな帽子とは、チョット色気のある帽子を云うのだそうだ。本来女性用だった物を、男性でも被れるようにリファインし、サイドプリムを少し上げると、より男性らしくなるとか。ボーイッシュな女性にもよく似合い、若い人達には大人気だと云う。次に人気定番商品の「晴雨兼用のリバーシブルハット」を紹介しよう。フリーサイズ(頭囲56〜59.5)で、ツバ長は前9僉Ω7僉⊇鼎75g、表素材は綿100%、裏素材はポリエステル100%、手洗いが可能となっている。表側は晴れの日用。ベージュ色のコットン生地で、紫外線カット率はA波・B波ともに99.9%(財団法人・日本繊維製品品質技術センター調べ)という優れもの。裏側は雨の日用。色はブラックで防水性と透湿性にすぐれたゴアテックスを採用し、雨水を通さず髪が蒸れにくくなっている。サイズは後頭部のリボンを縛って調節可能で、折り畳んでも型くずれしにくく、バッグに入れて旅行先に持って行くと重宝する逸品。デザインは帽子デザイナーとして30年以上活躍している喜多洋子。本人は定番帽子として支持されてきた理由を「顔型や服を選ばないシンプルなデザインにしたこと。頭の高さとツバの長さを工夫したことにより顔とのバランスが良く見えること。リバーシブルに使えること」としている。女性が小顔に見える効果もあるようで、多くの女性から支持されている。因みに価格は税込みで\8.715とリーズナブルとなっている。日本の帽子は1892年に渋沢栄一によって、最初の製帽会社(既号242.日本最初の製帽会社)が設立されて以来、ボルサリーノ(既号228.紳士の帽子 )などのインポートブランドも含め、多くのメーカーから販売されている。最近は紫外線カットの効果を求めて帽子を被る人も多い。しかし、せっかく購入する帽子である。機能だけではなく、老舗ブランドの厳選された素材、洗練されたデザイン、熟練が縫う帽子を被り、オシャレな気分に浸るのも楽しいものである。


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