ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 320

☆ ワイシャツの誕生☆

2010.09.08号  

 1871年は廃藩置県が施行された年である。そしてこの年、斬髪・廃刀の令が発せられ、武士は侍の装いに終止符を打ち、洋服の普及が始まった年とされる。巷では洋食店が出現し、洋風文化が急速に浸透するようになった。翌年には宮中の礼服が制定され、日本の公式の装いが洋服となる。1859年に横浜は貿易港として開港され、幕府は江戸の大商人達にも出店を奨励し、全国からも一旗挙げようと意気込む商人達が集まり、急速に発展するようになった。1868年の明治維新後は熱気も渦巻き、その賑わいも更に加速していた。1873年に初代石川清右衛門が横浜で輸入雑貨商・唐物屋を開業。店の手伝いをしていた二代目石川清右衛門は、店に言いつけられて寄港中の外国船を訪ねた。乗船していた西洋人が帰り際に、清右衛門に駄賃として一枚の衣服を与えた。異国の服は白い生地で、胸に留め具(ボタン)が付いていた。西洋人はそれを渡しながら白いシャツ「White shirt」と言ったのだが、清右衛門には「ワイシャツ」と聞こえたのであった。日本でワイシャツという名称ができた瞬間である。清右衛門18歳の時だった。清右衛門は手に入れたワイシャツを、何度も何度も解いては縫い直して仕立て方を学んだ。さらに型を作り、布地を裁断して縫い上げてワイシャツを自作する日が続いた。当時の生地はカナキンという木綿の布で、水につけると縮むため、生地を水につけてから乾燥させ、縮ませてから裁断する工夫も考案。漸く自分の思うワイシャツが出来るようになり、清右衛門は唐物屋から独立することを決意。1876年に関内の弁天通りに店を構えた。屋号は「大和屋シャツ店」とし、日本最初のワイシャツ店が誕生した。

 大和屋という屋号の由来は不詳だが、現在に生きる子孫達によると、商標には翼の生えた鐘のほかに日の出が描かれていることから「日出ずる大和の国を意味したのでは」と推測している。日本の夜明けをイメージし、昇る旭を描き、それを告げる鐘に翼をつけ、自分が日本で初めて開くワイシャツ店であるとの、気概が現れている商標である。往時の弁天通りは居留外国人が行き交い、大和屋もそうだったように横文字の看板を掲げた店が立ち並び、欧米さながらの街並みだった。大和屋は生地を群馬県・桐生で作らせ、近在に溢れる外国人を相手に商っていた。やがて、アメリカ人だったリヨン・J・ルーベンスの知己を得て海外へも進出するようになる。横浜は貿易拠点として商いを広げていくには都合の良い立地で、世界に開かれた港だった。大正時代になると銀座や神戸のほか、ニューヨークや中国・天津に支店を持つようになる。当時は商いの中心は外国人で、日本人客は少数であったが、その中には明治天皇や大正天皇がいた。三代目の石川正七の述懐によると、大正天皇から御用を承ったとき、銀座の支店長が採寸に伺ったという。風呂に入り消毒を施され、しかる後に採寸となるのだが、直接御身に触れて寸法を採ることは許されない。因って3メートルほど離れた位置から目検討で採寸したという。まさに神業であるが、これを「えらい時代だった」と語っていたことが伝えられている。1890年にラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)が来日し、4ヶ月ほど日本に滞在していた。その折りに大和屋でワイシャツを誂えた。そのシャツは現在、島根県の小泉八雲記念館に展示されている。この頃、清右衛門は根岸村(現・JR根岸線山手駅付近)に大規模な工場を建て、職人達の住まいも建てていたため、後に大和屋の屋号を採って「大和村」と呼ばれるようになった。1936年になって清右衛門は81歳の天寿を全うしたが、自ら研究に打ち込み製造を始めたワイシャツには、生涯一度も袖を通さず和服で貫き通したという。

 大和屋の外国人顧客の中に、フランクリン・デラノ・ルーズベルト〔第26代大統領セオドア・ルーズベルトの従弟(既号46.シュタイフのテディ・ベア)〕がいた。その後、ルーズベルトは第32代米国大統領になり、米国政治史上唯一四選された。初代のワシントン大統領が三選を固辞したことから、二選までが慣例となっていたが、戦時の有事を理由に立候補して当選。その後憲法が改正され、大統領は二選までと定められた。前任のフーバー大統領は、世界恐慌に対して有効的な対策を取れないまま退任。ルーズベルトは政府による積極的な経済介入を進める「ニューディール政策」を打ち出した。団体交渉権保証などによる労働者の地位向上、テネシー川流域開発公社などの大規模公共事業による失業者対策、社会保障の充実などの政策を行って不況克服を図ったが、失業率が高止まりするなど成果が上がらず、やがて労使双方から反発も起きるようになった。しかし、1941年の第二次世界大戦(既号316.オーダーメイドシャツの老舗)勃発による軍需の増大により、米国経済は回復して失業率も激減した。前政権における清算主義金融政策からの脱却、管理通貨制度の確立などの政策は、ケインズの有効需要創出の理論が強力な後ろ盾となっていた。後年にはミルトン・フリードマンなどの経済学者の一部から、太平洋戦争の開戦が無かったら成功しえない政策だったとの議論があったことも事実である。しかしながら、現在ではニューディール政策は、大方の立場から有効な政策であったと評価されている。ルーズベルトは国民的人気があった大統領でもあった。当時、最も普及していたメディアであったラジオ放送を通じて演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した。メディアを巧みに利用した大統領として知られていた。毎週のラジオ演説は「炉辺談義Fireside Chats」と呼ばれ、国民に対する見解発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支えると同時に、大戦中である国民に対する重要な士気高揚策ともなった。

 大いに発展した大和屋だったが、正七の代に苦難をむかえる。正七の六男・哲夫によると「戦時下の1943年の企業整備令で、国内の産業は軍需に絞られ、大和屋は平和産業として営業停止になった。そして2年後、5月29日の横浜大空襲で全てを失う。父・正七と二人で三溪園の入り口脇に身を潜めてB29の攻撃から逃れた。しかし、丘に上って大和町を見下ろすと、町は一面の焼け野原となっていた。関東大震災でも軽い被害で済んだ工場や邸宅は、跡形もなく無くなっていた。そして弁天通りの店も・・」と述懐している。危機に瀕した大和屋の最期の望み。それは清右衛門が残してくれた中区大和町(旧大和村)の土地であった。1953年に正七は大和町の土地の一部を売って、事業の復興資金を捻出。正七は外国人が顧客の時代は終わったと判断。顧客が日本人となれば本拠地は東京となる。さらに「これからの商いの中心は銀座」と、東京・京橋に株式会社として再興を果たし、横浜は支店とした。1957年になって正七は銀座六丁目に本店を移して念願を果たす。以来今日まで、歴代の総理大臣、多くの財界人、各階の著名人を顧客とし、高い評価を得てきた。現在ではオーダーシャツ以外にも、既製品やシャツの生地を使ったパジャマやトランクスなども扱っている。134年の歴史を引き継ぐ六代目社長・石川成実が話す。「オーダーメイドの先駆として、今後も本物のワイシャツを造り続けます。」


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー