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桃太郎のビジネスコラム 337

☆ 7種の野菜と7福神☆

2011.01.12号  

 福神漬けは非発酵型の漬け物の一種で大根、茄子、鉈豆、胡瓜、蓮根、紫蘇の実、椎茸など7種の野菜類を細かく刻み、醤油と砂糖や味醂で造った調味液に漬け込んだものである。戦国時代を経て、1600年に関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。やがて、徳川政権が安定すると見るや、人々は政治経済の中心地となった江戸に集まってきた。酒悦の創始者である野田清右衛門もその一人であった。伊勢山田の出身で、1675年に屋号を山田屋として本郷元町に店を構えた。当初は東海地方から海産物を取り寄せて商いをしていた。その後は上野寛永寺の門前町であった池之端に移り、ウニやこのわた等の珍味類、海苔や香煎(麦粉を焦がしたものや、山椒や紫蘇の実などの漬け物に白湯を差して飲む茶の代用品)も扱うようになり、上野近辺の寺々に出入りして香煎屋とも呼ばれていた。江戸末期の大名や旗本達は、茶は仏事で多く用いられることが多いため、縁起を担いで茶を用いない習慣があった。現代の結婚式で桜湯を出すのは、この名残である。清右衛門の扱う商品は、良質な物を仕入れ、さらに吟味して売っていたので、次第に評判を呼ぶようになる。東叡山(寛永寺のこと。東の比叡山の意で、江戸城の鬼門に当たる上野に建立された)輪王寺(東叡山の本坊)の、ご御門跡(一門を総領する出家した皇子、貴族の意)である白川宮が、吟味した味を大変高く評価をしてくれ、「酒が悦ぶほどに旨い」として「酒悦」との屋号を頂戴する。やがて、時代は明治となり酒悦は益々繁盛を続けていた。15代清右衛門は一風変わった性格で、断髪令が出ていたにも拘わらず、77歳で没するまで丁髷をつけていた。また、山岡鉄舟や5代目菊五郎などと交流のある文化人でもあった。そして、何事にも創意工夫を重ねる発明好きで、江戸時代後期には「海苔の佃煮」を発明したとも云われ、らっきょう漬けも同社の考案と云われている。日本の味の最高傑作とも云える福神漬けは、当時業界の重鎮達がユニークな発明を高く評価し、清右衛門を表彰した。それを記念して建立された福神漬け発明表彰の碑は、西日暮里にある淨光寺に現存している。

 15代清右衛門が発明した最大のヒット商品は、醤油を用いた「福神漬」であった。それまでの漬け物は、塩か味噌の漬け物が当り前であった。1672年に出峭駘詐〃竿幡村(現・秋田県湯沢市)出身の了翁道覚が、上野寛永寺に勧学寮を建立。勧学寮では寮生に食事を出したが、質素な物であった。おかずとしては了翁が考案したと云われる漬け物が出され、大根、茄子、胡瓜などの残り物野菜の切れ端を干して漬け物にしたものであった。この塩漬けにされた漬け物を原型にして、清右衛門が醤油漬けに工夫したと推測されている。日夜蔵に籠もり3回漬けにするなどの工夫を重ね、それに味醂を加えて満足できる味にするまで10年の歳月を費やし、1877年(明治10年)頃になって漸く完成した。福神漬けの原料は7種の野菜、大根、茄子、蕪、瓜、紫蘇、刀豆、蓮根で、上野近辺で採れる良質の物を選び、さらに厳しい選別に合格した物だけを材料とした。醤油も特別仕立の3種類を用意し、自分が経営する茶店で売り出したところ、その美味しさは庶民の間で大評判となり、全国に広まっていった。福神漬けの名前の由来は、当時の流行作家である梅亭金ガ(ガは我冠の下に鳥)に持参し賞味して貰ったところ、不忍池には七福神の一つである弁天様があることから、七福神に見立てて名付けられ、因って材料も7種類とした。また「福神漬けは大変美味であり、他におかずが要らず、知らず知らずの内に財が貯まる縁起の良い漬け物で、福の神も一緒に漬けている」と引き札(宣伝チラシ)の文案まで書いてくれた。

 カレーライスは明治時代にイギリス料理Carry and rice として伝わった。現在ではラーメンと並んで国民食と呼ばれるほどの人気料理である。近畿地方以西では牛肉を使用したビーフカレー、中部地方以東では豚肉を使用したポークカレーが定番とされ、鶏肉やシーフードなどもよく使われている。カレーライスのルーツは、イギリスの旧植民地であったインド、パキスタン、バングラデシュで、ヒンズー教やイスラム教などの影響もあり、野菜を使ったカレーが主流である。日本で粉末即席カレールウを最初に発売したのは、1926年にハウス食品(既号194.会社も身体もウコンの力)が「ホームカレー粉」の商品名で出荷。即席固形製品では1954年にヱスビー食品が「ヱスビーカレー」を発売。レトルトカレーは1968年に、大狄品が「ボンカレー」の商品名で発売した。カレールウにジャガイモ、ニンジン、タマネギを、大振りに切って入れる日本式カレーは、明治時代の終わり(1911年)頃に定着した。それまではタマネギの代わりにネギを入れることが多かった。カレールウにジャガイモを入れることを推奨したのは、札幌農学校のクラーク博士(既号333.農学校の演武場)だった。クラーク博士は米が不足していたため、寮での米食を禁止していた。しかし、カレーライスだけは例外として、米不足を補う目的でジャガイモを多量に使ったと云われている。但し、その記録は北海道大学には現存しておらず、カレーライスに関する最古の資料は、1877年9月のカレー粉納入記録と、1881年の寮食の記録である。当時の日本ではジャガイモ、ニンジン、タマネギなどの西洋野菜は、ほとんど普及していない状況であった。北海道の気候は、クラーク博士が日本に赴任する前にいたマサチューセッツ州と良く似ており、彼の地の西洋野菜栽培技術を学ぶには、最も相応しい地でもあった。これにより札幌農学校には米国産野菜の栽培品種が次々と持ち込まれ、多くの成果を収めた。これを機に北海道は大規模な西洋野菜の作付けを行い、欧米野菜の普及に貢献した。因って、クラーク博士は1876年の8月に着任し、翌年の4月には帰国するという僅か8ヶ月の滞在であったが、農業発展の種まきに大きな貢献をすると共に、和風カレーライスの原型を創った人でもあった。

 福神漬けが全国で知られるようになったのは、日清(1894年7月〜1895年3月)日露(1904年2月〜1905年9月)の戦争であった。この戦争では兵士の携帯食として採用された。そして1902年頃、日本郵船のヨーロッパ航路の食堂でタキサダ・サダイチ(漢字名不詳)というコックが、カレーライスの付け合わせに、初めて福神漬けを添えた。その甘さがカレーをマイルドにし、醤油は隠し味となり、材料の野菜は歯応えが良く、この絶妙なバランスがカレーの美味しさを引き立てている。福神漬けが赤くなっているのは、チャツネ(東南アジアではフルーツ・香辛料を甘く煮たものをカレー料理に添えている)に倣って、人工着色料で色付けされていたが、最近では色を付けない茶色の福神漬けが好まれているようだ。カレーライスが全国的に普及した裏には、軍隊の存在が欠かせなかった。カレーライスは調理が簡便で、肉と野菜のバランスも良く取れた合理的な料理である。旧海軍では土曜日の昼食はカレーライスと決まっており、この習慣は海上自衛隊にも引き継がれた。これは長期航行中でも曜日の感覚を忘れない配慮や、休日前に端材の食料を整理する都合もあったとされる。海軍カレーは有名であるが、実際には定員数が圧倒的に多い陸軍の糧食でもあった。大東亜戦争中は辛味入汁掛飯と呼ばれ、陸軍では全ての兵員が交代で調理に携わった。兵役が終わり除隊した兵士達は、軍隊で慣れ親しんだカレーライスを故郷の家庭などで振る舞った。これと前後して学校給食でも供され、全国的規模で一般家庭に浸透していった。自衛隊では現在でも全ての部署でカレーライスを食べ、艦艇や部隊相互で味を競い合い、行事の際には来賓にも振る舞われる。公式サイトを通じてレシピの公開や、かつて軍港のあった街の名前を冠した海軍カレーが、レトルト食品や缶詰として販売されている。この事実を裏返せば自衛隊がカレールウや福神漬けの宣伝活動を、無償でしてくれると云う幸運な結果にもなっている。これに歩調を合わせるように、福神漬けの販売は拡大の一途を辿ることになり、酒悦の業績も大きな発展をとげる。今年、創業336年を迎えた老舗企業である。


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