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桃太郎のビジネスコラム 201

☆ 英国の陶磁器☆

2008.05.14号  

「ウェッジウッド」はイギリスの陶磁器メーカーである。同じイギリスの「ロイヤルドルトン」と並んで、世界最大の陶磁器メーカーの一つである。イギリスの陶業は17世紀までは、ロンドンやブリストルで生産されるデルフト陶器が主であった。デルフト陶器とはオランダ西部のデルフトが産地として知られており、錫釉で東洋の陶器を模した白地に青一色の絵付けが特徴となっている。18世紀に入りデルフト陶器に代わって、上質陶器やストーンウェアーが生産されるようになった。イングランド中部のスタフォードシャー州では、原料となる良質の粘土や、焼成用の石炭が産出することから、陶業が急速に発展した。
「英国陶芸の父」と呼ばれるジョサイア・ウェッジウッドは1730年に、この地方で代々続く陶工の12番目の息子として誕生した。教育熱心だった母の影響が大きく、のちに技術者・芸術家・科学者、そして事業家となる才能を育んでいった。9歳で陶芸を学ぶようになったが、父が死亡したため、その跡を継いだ兄に弟子入り。12歳の時に天然痘を患い、闘病の間は読書や勉強、そして自らの将来を考える時間に充てた。天然痘のため足を病み、結局切断されてしまうのだが、轆轤をまわし陶工の道に専念するには、好都合と解釈して仕事に励んだ。若いうちから製陶の技術には優れたものを持ち、化学や図版などの知識も評価されるようになり、さらに天然痘による苦難を乗り越えたことで、深い蘊蓄と強い精神力が身につき、改革者・思想家としても認められるようになった。

1759年にジョサイアはバーズレムにある工場を、叔父から引き継いで独立開業することになった。このアビー・ハウス工場で開発した緑色の釉薬を用いた陶器は、大変な好評を得て、3年後には同じバーズレムにあるブリック・ハウス工場に移転することができた。
ジョサイアはこの工場で、会社の代表作ともなるエナメルを用いたクリーム色で、光を受けると透明に輝く陶器を完成させた。これはシャーロット王妃(ジョージ3世妃)にも納められた。王妃がことのほかお気に入りになったことで、1765年に「クイーンズ・ウエァー(女王の陶器)」という名称の使用が許可された。
一躍有名になったウェッジウッドは、エトレリア工場へ再び移転するが、在庫の増加が資金繰りを悪化させるようになった。会社が大きくなり、知名度が広がっても、在庫増が経営を圧迫することを理解した。しかし、当時としては先進的な、原価計算や在庫管理などの計数管理を、導入したことで危機を脱した。
その後は、現在でも主力製品として出荷されている「ブラック・バサルト」の開発に成功。
1774年にはロシアのエカチェリーナ二世から944点の「フロッグ・サービス」と呼ばれる陶磁器セットの注文を受けている。さらにウェッジウッドの名を高めたのが、4年の歳月を掛けて開発に成功し、「英国人の誇り」とまで称賛された「ジャスパー・ウェアー」である。1774年に発売されてから今日まで、高い人気を勝ち得ている。なかでもジャスパーにより、1790年に古代ガラスの名器「ポーランドの壺」を再現し、屈指の名作として高い評価を得た。また、この壺は1878年にウェッジウッド社の、商標に組み込まれ、コーポレート・アイデンティティの重要な要素となっている。
ジョサイアの死後、息子であるジョサイア二世が経営を引き継いだ。二世は牛骨灰を50%以上使うことにより、温もりのある白さと透明性を増した「ファイン・ボーン・チャイナ」を完成させた。「ファイン・ボーン・チャイナ」と云えば、ウェッジウッドと云われるまでに、その名声を不動のものにした。その後、三世から五世までは世襲されたが、1895年に「ジョサイア・ウェッジウッド・アンド・サンズ」として法人設立をした。
20世紀になり建設後150年も経つエトレリア工場は手狭になり、1940年になるとバーラストン新工場へ移転し、50年には建設前の20倍以上に生産を拡大した。60年代になると創業300年以上のウィリアム・アダムス社を始めとした多くの同業者に対して、M&Aを展開したが、86年には自らが敵対的買収を仕掛けられた。そこでアイルランドのクリスタルガラスメーカーのウォーター・フォード・クリスタル社をホワイトナイトとし、同社と合併。ウォーター・フォード・ウェッジウッド社が誕生した。

「土器」は古代から世界の各地で造られていた。メソポタミア・インダス・黄河・ギリシャなどの文明で見られている。粘土を野焼きで度から900度で焼いたものを云う。
日本では世界的に見ても最古に近いと云われる縄文土器や、縄文土器より高温で焼かれ、薄手で硬質であるとされる弥生土器が有名である。オーストラリアの考古学者によると、土器は人類が化学的変化を利用した最初の発明であったという。
とくに日本では、食物の煮炊きに用いられていたことから、加熱による食物のアク抜きや煮沸により、多種多様な動植物が食料として利用され、定住化が進み、集落が形成されるようになった。生業として採集や漁労が行われ、海岸では土器を使った塩造りが行われた。
調理された物の持ち運びも可能になったことから、広範な交易も行われるようになった。
その後は窯を使って焼いた「Т錙廚造られるようになった。英語のStone Wareの訳語といわれる。。施釉はしないが、焼成温度は1300度位。日本では備前焼や常滑焼きなどがある。ウェッジウッドのジャスパー・ウェアーやブラック・バサルトなどもТ錣任△。
やがて、釉薬を使って窯で1100度から1300度で焼いた「陶器」が造られるようになった。日本では瀬戸焼や大谷焼、それに伊賀焼きなどが有名である。ウェッジウッドのクリームウェアーやクイーンズウェアーなどの硬質陶器も広く知られている。

「磁器」の歴史も古く、中国では6世紀頃から造られていたという。石英や長石などを原料として1300度程度で焼成される。日本の炭焼き技術は804年に遣唐使と共に、中国に渡った弘法大師(空海)が持ち帰ったとされる。備長炭(既号49.元禄から伝わる備長炭)は窯で1000度から1300度で焼くと云われ、当時の中国では窯焼きの技術が広汎に用いられていたことを裏付けている。
朝鮮半島においても磁器の製作が14世紀には、始まっていたと伝えられる。日本では豊臣秀吉が朝鮮出兵した文禄・慶長の役が起き、戦況が苦戦しているなか、1598年8月18日に秀吉が死亡したために撤兵。その時に肥前国・鍋島藩の藩主が、陶工達を連れ帰った。
その頭と思われる「李三平」が、有田の泉山で磁石鉱を発見し、白磁を焼いたのが最初と云われる。この「有田焼」(既号101.ヨーロッパ貴族を心酔させた有田焼)がドイツのザクセン王・オーガスタ一世の目にとまり、ヨーロッパ最初の磁器と云われる「マイセン」(既号145.マイセン白磁の誕生 既号146.マイセン隆盛の礎)に大きな影響を与え、1710年の王立磁器製作所の誕生につながっていく。
1756年にプロセインのフリードリッヒ一世が、ザクセンに攻め入って7年戦争が勃発した。
これにより王立マイセン磁器製作所は、壊滅的な打撃を受けた。このプロセインの侵略戦争勃発の前後から、政情は不穏な動きとなり、マイセンの技術者達が外部に流失し、ヨーロッパ各地で磁器窯建設が始まる契機となった。こうしてマイセンの技術はヨーロッパ磁器の礎となり、1755年にデンマーク王室御用達の、製陶所として設立された「ロイヤルコペンハーゲン」(既号59.王室の陶磁器)にも、大きな影響を与えたと云われる。

ジョサイア・ウェッジウッドは、当時の貴族達を魅了していた「新古典主義」という建築様式から想を得て、古代ギリシャやローマを題材にした作品を数多く創作した。また、貝類学者でもあったジョサイアは、こよなく海を愛し、神話に満ちた青く美しいエーゲ海をインスピレーションの源流とした。因って、ウェッジウッドのコーポレート・カラーは、エーゲ海を連想させる青となっており、多くの作品にも使用されている。
ウェッジウッドが販売する商品のメインは、カップ&ソーサなどの高級食器の製造販売だが、ネックレスなどのアクセサリー、インテリアとしての壺やテーブル・クロス、可愛いもの好きの女性向けにピクチャー・フレームやベア・ドール、ギフト用のタオルなど、多種に亘った商品を展開している。身の回り品として人気があるのがハンカチ類で、女性のエチケットとして、さりげないオシャレとして多くのファンを喜ばせている。
創業250年になるウェッジウッドの日本での販売は、ウォーター・フォード・ウェッジウッド・ジャパンが統括し、全国のブランド・ショップや有名百貨店のインショップで展開している。3月にも東武百貨店・池袋本店にてショップがリニューアル・オープンした。




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