ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 223

☆ 若者達のジーンズ ☆

2008.10.16号  


第二次世界大戦後、戦勝国の米国は世界一の経済大国となり、米国の文化は世界へ発信されることになった。その中にはジーンズも含まれ、世界へ普及していくことになる。
戦後、海外へ派遣された米軍の兵士達(G .I)は、リーバイスの「501」を穿き、まさにジーンズの広告塔となって普及に貢献した。
1853年にリーバイ・ストラウスが、自分の名を冠した「リーバイ・ストラウス社」をサンフランシスコで設立した。初めの頃は雑貨店として、他人が造った衣服などを販売していた。やがて事業は順調に拡大し、生地や衣料品、それに靴なども扱うようになり、商社のような事業へと発展させた。
1848年1月、農場主ジョン・サッターの使用人ジェームズ・マーシャルが、アメリカン川で砂金を発見した。これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土が、メキシコから割譲された。新天地となったカリフォルニアには、ヨーロッパなど世界各国から金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到。土佐出身の漂流民ジョン・万次郎も、金を採りに来た唯一の日本人とされている。いわゆるゴールドラッシュである。農民や労働者、それに乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見て新大陸を目指した。その結果、1852年にはカリフォルニアの人口は20万人にまで急増して州に昇格し、米国西部の開拓は急展開することになる。リーバイ・ストラウス社は、鉱夫が着る丈夫な作業着に着目し、仕立屋のジェイコブ・ディビスと出逢い、デニムや綿帆布に金属リベットで補強したズボンを開発。これは現在のジーンズの原形となるもので、リーバイス・ジーンズの誕生であった。やがてこのズボンの生産部門を設けたことから、リーバイ・ストラウス社は製造販売メーカーとなった。
リーバイスと云えばブルーデニムのイメージであるが、初期の製品は綿帆布で出来たものが多く、デニムのものは少なかった。しかし、デニムの耐久性が好評を呼び、次第にデニムで造られるズボンが主流となった。この頃は未だジーンズとは云われておらず、ジーンズと云われるようになったのは、 1920年頃になってからである。

1886年に「ツーホースマーク」の革パッチが、ウェストバンドにつけられた。1890年になり、ロットナンバーがつけられるようになって、ウェストオーバーオールには「501R」と云う番号がつけられた。そしてウォッチポケットやバックヨークもつくようになった。この頃になるとリベットの特許期限が過ぎ、他のメーカーもジーンズ製造を始めるようになった。 1900年代になり、ヒップポケットが2つになり、5ポケット仕様が定着。この頃から北米東部では、牧場での余暇をジーンズで過ごす「デュードランチファッション」が流行。日本では「銀ブラ」を楽しみ、ラッパズボンが大流行していた時代であった。1915年にノースカロライナ州のコーンミルズ社から、9オンスのデニムを調達。コーンミルズ社のデニムは、独特の色落ちがする逸品であった。1922年になってベルトループを腰丈のオーバーオールに採用。1936年になると他社のコピー商品と区別するため「Levi's」のレッドタブを考案。サスペンダーボタンを廃止した。
1930〜1940年代になると西海岸の男子学生達は、ジーンズをファッション着として穿くようになり、女性もジーンズを穿くようになった。徐々にではあったがジーンズは、作業着からファッション着に代わっていった。1943年、アーキュエット・ステッチが商標登録され、衣料品の中で最も古い商標とされている。 

戦後はハリウッド映画も黄金期を迎え、それまでのスター達と違う、新しいタイプのスター達が誕生することになった。その代表的なスターがマーロン・ブランドであった。
ブランドの演技や服装、それに独自の行動パターンは、演劇界や映画界では型破りな存在で、賛否両論を巻き起こすことも度々であった。しかし、その重厚な演技力はアカデミー主演男優賞(受賞は辞退)を獲得した 1972年「ゴッド・ファザー」の、ドン・ヴィトー・コルネオーレ役で実証されているそしてポールニューマンやジェースディーン(既号154.ジェームス・ディーンが愛した車)など、多くのスター達に多大な影響を与えた。現代映画界最高の俳優となったアル・パチーノやロバート・デ・ニーロ達も、ブランドを尊敬していることを公言して憚らない。ブランドは米国にとって戦後を代表する伝説的な名優で、エルビス・プレスリー( 既号167.60万人の「聖地」巡礼既号214.ホノルルを愛したエルビス)やビートルズなど、戦後の偉大なミュージシャン達に与えた影響も計り知れない。戦後の米国の若者文化の源流と云える存在であった。
1950年に映画界にデビューし翌年のエリア カザン演出の欲望という名の電車では、ワイルドでセクシー、なお且つ危なっかしい不良を演じた。この時には下着を普段着のように着たのが大受けし若者の間でTシャツ文化が広まるきっかけとなった1953年の「乱暴者」は、バイクに乗った不良青年達がホリスターという小さな街で大暴れし、社会問題となったホリスター事件を題材にした映画でブランドは暴走族のリーダー役を演じ、ジーンズが映画に初めて登場した。ブランドは黒の革ジャンに黒いブーツ、そしてジーンズを穿いてバイクに跨り暴れ回った。ブランドの演じた不良は、それまでのスターよりも暴力的で、無鉄砲な若者と云える演技だった。英国などでは反社会的とされ、上映禁止となったが、映画を見た世界中の若者達が真似をするようになった。戦争が終わって米国に帰還してきたG.I達も革ジャンにリーバイスの「501」を穿いてバイクに跨った。
大人達はジーンズを穿いた若者達に眉をひそめ、自分の子供にはジーンズを穿かせようとはしなかった東部の学校ではジーンズの着用が禁止されるところさえあった。しかし、若者達はジーンズに魅了され、挙ってジーンズを買って穿くようになった。ブランドはこのような若者達のヒーローとして、人気とスターとしての地位を確立していった。1954年の「波止場」では悪に立ち向かう港湾労働者を演じ、その確かな演技力はアカデミー主演男優賞を獲得して、名実共にトップスターとなる。翌年の1955年には、育ての親とも云うべきカザンの大作「エデンの東」に、主演としてのオファーがあったが、ブランドはカザンが赤狩りの追求に負けて仲間を売たことを理由として辞退したと云われるしかし、この映画では、もう一人の新しいスターが登場することになった。
三流役者だったジェームス・ディーンは、カザンに見いだされ「エデンの東」で、いきなり主演に抜擢された。この作品で認められてスターの仲間入りを果たし、次作「理由なき反抗」では、大人や社会に反抗する若者を演じた。この映画でディーンはリーの「 101ライダース」を着用。この映画は反抗児や不良青年が、必ずしもスラム街や家庭環境などから生まれるものでなく、普通の一般家庭からも生まれるものだと認識させた。ナイーブで傷つきやすい若者に、映画を観た多くの若者達が共感し、そして熱狂した。
ブランドの穿いたリーバイス「 501」、ディーンが穿いたリーの「101ライダース」も、共に若者達の人気を獲得し、ジーンズの大ブームが起こった。これを機にジーンズ・ファッションは、世界の若者達の文化として瞬く間に普及していった。

リーバイストラウス社ではズボンのポケットに金属リベットで補強する製法で、特許を取った 1873年5月20日を、ジーンズ誕生の日としている。これまで50億本以上が生産されたという。2001年5月26日に、1880年代製の現存する世界最古のリーバイス・ジーンズがネバダ州で発見された。リーバイ・ストラウス社は、これを入手してネットオークションに出品したところ、ジーンズとしては史上最高額の46.532ドルの値がついた。
リーバイ・ストラウス社は 2002年になって、米国内にある工場の閉鎖が続々と決定され、米国での生産をすべて終了した。現在はヨーロッパや中国、ミャンマーなどで生産されており、米国本社はマーケティングや管理業務、デザイン開発を担当している。
リーバイ・ストラウス社では、ある契約工場で就労年齢に達していない児童労働の実態が明らかになったことがある。この時、会社がとった方針は「現地に学校を造り、子供達を通わせて、就労年齢に達してから雇用する」とした。しかし、株主からは「学校を建てる資金があるなら、株主に還元すべき」との批判を受けた。そこでリーバイ・ストラウス社は「社会に貢献し続ける会社であるために」と、非上場化してしまった。
日本での展開は 1982年に設立したリーバイ・ストラウス・ジャパンが担当している。




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