ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 224

☆ パリ・コレのミニルック☆

2008.10.22号  

アンドレ・クレージュは 1923年に、ピレネー山麓の南仏ナヴァール地方の中心都市ポーの町で、地主の息子として生まれた。若い頃に土木建築学を学んだが、兵役に就いたことから飛行学校を専攻し、44年に空軍パイロットとして従軍した。その後、ファッションに関心を持つようになり、第二次世界大戦後はパリに出て、46年にパリ高等服飾産業学院に入学。翌年にジャンヌ・ラフォーリのメゾンに入り、デザインの基礎を学ぶ。51年にバレンシアガのメゾンに移り、衣裳構築の美学と技術を11年間に亘って修行する。ここでは後に妻となるコクリーヌ・バリエールと出逢う。
61年にパリのクレベール通りに、妻と共にサロンを開設し、自らの名を冠したブランドを立ち上げる。初コレクションのデザインは、建築的な構成美を持ち、ミニを基調とした明るいイメージで、動きやすい機能性を持たせたのが、大好評となり一躍有名になった、最初の4シーズンは均整の取れたバレンシアガの作風に、強い影響を受けていたが、その後はソフトで軽やかな作風に変化していった。
62年に洋服や下着のデザインで、アメリカのJCペニーとライセンス契約を結び、アメリカのマーケットへ進出これを機に世界中からデザインの依頼が殺到するようになった。64年A/Wパリ・コレクションでは、スポーティーで機能的な「パンタロンルック」を発表。パンタロンは前年にも提案していたが、あまり高い評価ではなかった。しかし、この年のイブニング・ドレスとしての画期的提案は大きな話題となった。
翌 65年のコレクションでミニスカートを「ミニルック」として発表。オートクチュールでは、最も醜い身体の部分として表現しない、膝頭を露出するデザインだった。ミニスカートはそれまでにも存在したが、クレージュがハイファッションの場で紹介したことで、爆発的なブームを呼びミニスカートを一躍世界のファッショントレンドへと押し上げた。67年には「未来派のバレンシアガ」とまで呼ばれ、「シースルー・ドレス」や「宇宙服ルック」、伸縮性に優れ現在でも定番商品となっている「ボディータイツ」などを発表。このほか大胆なチェックとストライプを使い、チュニックとパンツの組み合わせなどが、ファッション界に一大旋風を起こした。60年代のクレージュはイヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)と共に、ファッション界を牽引した一人だった。しかし、前衛的なデザインが人気を呼んだのに加え、ミニスカートの爆発的なブームに伴い、粗悪なコピー商品が氾濫したこれに失望したクレージュは3シーズンに亘り活動を休止した。

第二次世界大戦が終わって 10年も経つと、世界の国々は落ち着きを取り戻し、ファッションの世界も移り変わりを見せるようになった。理想の女性像についても、それ以前はエリザベス・テーラーのように美貌を誇る女性や、マリリン・モンローのように豊満で妖艶な女性、それにデボラ・カーやグレース・ケリーのように、知的でエレガントな女性であった。いわゆる顔立ちもボディラインも、見るからに美しい女性のタイプであった。しかし、50年代半ば頃から理想の女性像と云うより、好みの女性へと変化するようになった。それまでとは全く逆のタイプで、小柄で胸は小さく痩せていて、ごく身近に居る可愛いタイプの女性が好まれるようになった。その代表的な女優がオードリー・ヘップバーン (既号116.スクリーンの妖精と衣裳)であった。当時のヘップバーンも、理想の女性像とは対極にあるファニーフェイスで、痩せっぽちの何処にでも居るような娘だった。しかし、彼女は時代が必要としたスターだった。60年代に発表されたオードリーの9作品は、すべてが興行的に大成功を収めた。
一方、ファッション界においては、 60年代になってから上流階級を顧客としていた、オートクチュールは衰退の一途を辿るようになり、誰もがファッションを楽しめる既製服業界が躍進するようになった。時代は戦後生まれのベビーブーマー世代が成長し、人口としても比率が増加していった。それまでは、若者達のファッションというジャンルは、存在していなかった。若い女性は母親と同様のスタイルの、服を身につける同質的にものであった。言わば、クリスチャン・ディオールなどの、大人のオートクチュール・デザインが、下の世代へ降りてくるようなものだった。若い世代のエネルギーはエレガンスよりも、自己主張の出来るファッションを求めていた。その象徴的なファッションが、ジーンズ(既号223.若者達のジーンズ )とミニスカートであった。
60年代後半になり、オードリーは子育ての為に映画界から一時的に身を引いた頃、オードリーと入れ替わるようにスーパーモデル・ツィッギーが登場した。小枝という意味のツィッギーは、その名の通りペタンコ胸で、小柄で華奢な体型であったが、その体型故にミニスカートが良く似合い、戦後世代から圧倒的な人気を得た。67年秋に彼女が来日した記者会見では、膝上30僂離潺縫好ート姿が大きな注目を集めた。クレージュのパリ・コレ評価に誘発された日本のアパレル・メーカーは、競ってミニスカートを取り入れ、ミニスカートはツィッギー人気も相まって、爆発的ブームとなり街を彩った。

ミニスカートはユーヴェルド・ジバンシー(既号157.1億円の映画衣裳)が 55年に発表した、ウェストもヒップラインも無いサックドレス(シュミーズスタイル)が徐々に変化していったものと云われている。
ジバンシーは数々のオードリー映画で衣裳を担当し、多くのファッションを世に送り出した。それは、何処にでも居る女の娘が、映画に映っているような服を着れば、自分もオードリーのようになれると、思ってしまうデザインだった。映画「麗しのサブリナ」でも、何処にでも居るような運転手の娘が、パリへ行って帰ってくると、見違えるようなハイセンスの女性に変身した。因って、「サブリナルック」が大ブレイクすることになる。
60年代のイギリスは、音楽ではビートルズやローリングストーンズが登場し、美容師ではカリスマ的人気を持ったヴィダル・サスーンなど、イギリス発文化が世界に轟いていた。ロンドンでは、キングスロードのチェルシー地区が、若者文化が集まる場所となり、ストリートファッションと呼ばれるファッション発祥の地でもあった。ここには何処にでも居るような娘達が集まり、思い思いのファッションを着こなし、チェルシーガールと呼ばれていた。ミニスカートは、このような娘達から自然発生的に生まれた。
イギリスのデザイナー、マリー・クワントがミニスカートを発案したとの説があるが、ミニスカートはチェルシー地区の、ファッションそのものである。マリー・クワントはトレンドセッターとして、より多くの人達のために、 61年に初めてミニスカートを商品化したデザイナーで、マスマーケットを対象としていた。マリー・クワントはチェルシーの流行をそのまま表現し、ヴィダル・サスーンのカットしたショートボブの髪型と共に、ミニスカートスタイル流行の先駆けとなった65年にクレージュがパリ・コレで「ミニルック」を発表し、高い評価を得て一躍世界的なブームを引き起こす。

70年代もクレージュは快進撃が続き、スカートかパンタロンかの議論や、スカートなら丈の長さは、などという議論は無視して、年齢層に関係ないデザインへと変えていった。71年に香水部門をスタート。72年にはミュンヘン・オリンピックの制服をデザイン。73年にはメンズ部門「クレージュ・オム」をスタート。これを機にメゾンの体制をオートクチュールから、プレタポルテへとシフト。76年にはオートクチュールとプレタポルテの2部門とし、プレタポルテ、アクセサリー、雑貨類などライセンス商品は、すべて直営工場で生産する体制を整えた。モードの大衆化を推進するスタンスを取りつつも、オートクチュールのエスプリである高品質を守る事にも注力。77年には男性香水「FH77」を発表。
80年代になるとクレージュには苦難の時代が待っていた。65年以降、長い間提携関係にあったロレアル社との契約関係の縺れからコレクションの発表ができなくなてしまった。86年からは経営権とブランドの権利を、イトキン社へ売り渡し、クチュール・メゾンの呼称も失ってしまい経営難に陥った。
90年代になると徐々に巻き返しを見せ、クレージュ・ブランドの立て直しが始まる。93年には提携会社イトキンへ譲渡していた経営権と、ブランド権を買い戻す。この年と翌94年のシーズンは、カステル・バジャックによるコレクションも再開。96年にも香水クレージュのブランド権を買い戻し、翌年には香水「2020」を発表してブランド復活を果たした。87年にはレジヨン・ドヌール勲章を受章している。



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