ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 232

☆ 映画の衣裳スタッフ☆

2008.12.17号  

 ハリウッドではデビューしてから、亡くなるまでの58年間に、1000本近い映画に関わり、アカデミー賞に34回ノミネートされ、オスカーを8回も受賞した人がいる。この記録は未だ破られることなく、永遠の金字塔となっている。その人は俳優ではなく、多くのハリウッド映画の裏方に徹した衣裳デザイナーであった。ファッション・ブランドのビジネスからは距離を置き、斬新なファッションで流行を創り、その後のファッション・デザイナーに大きな影響を与えた。世間では殆ど知られてはいないが、彼女が創り出したファッションによって、多くのスター達が銀幕に映え、世界中の映画ファンの記憶に焼き付いている。彼女の名はイーディス・ヘッド(既号142.ハリウッドの裏方)。
日本映画にも衣裳スタッフとして、約400本の映画に関わった人がいた。日本を代表したオートクチュール・デザイナーの、ハナエ・モリこと森英恵(既号150.世界に誇るクチュリエール)である。森英恵のイメージは「チョウチョのモチーフ」「オリンピックのユニホーム」「制服の看板デザイナー」で、晩年は「金持ちおばさんのオートクチュール」である。
しかし、彼女が映画衣裳の仕事をしていたのは、デザイナーとして有名になる以前のことであった。1950年代の日本映画が全盛の頃、映画を観ていて「美しい衣裳だナ!」「素敵な着こなしだナ!」と思うような映画には、必ずと言っていいほど森英恵が関わっていた。
当時はほとんどの映画が衣裳担当については、ノンクレジットだったため、森英恵がスタッフに加わっていることは、世間では誰も判らなかったのである。
当時の各映画会社には専属の衣裳部門があったが、彼女のように独立したデザイナーが、銀幕のスター達を飾ったのは、彼女の才能がそれだけ卓越していたことを物語っている。
当時、彼女が関わった映画監督も大島渚や吉田喜重、古川卓己、篠田正浩など、多くの秀作を生み出した人達である。キャストも南田洋子や北原三枝、雪村いづみ、岡田茉莉子など錚々たるスター達であった。前述のように衣裳スタッフが、クレジットされない映画が多かったため、どの映画に関わったのかが判らない中で、判った範囲で主要作品を挙げてみても「四十八歳の抵抗」「挽歌」「風船」「集金旅行」「青春残酷物語」「秋刀魚の味」「わが恋の旅路」「太陽の墓場」「乾いた花」「秋日和」などなど・・である。

 森英恵は1926年に島根県の六日市町で、5人兄弟の下から2番目として生まれる。父・徳造は開業医で、母・ノブは専業主婦の恵まれた家庭だった。両親は「英恵」という名前が呼びにくいのか、「はな子、はな子」と呼んでいたという。母・ノブは1891年に六日市町の地主の家に生まれ、裕福な家庭で育っていた。明治生まれの女性としては、身長が160僂發△蝓⊂个Δ肇┘ボのできる色白の美人だったという。英恵は幼少の頃、兄や妹に遠慮して母に甘えることはなかった。しかし、小学生の頃に東京・杉並に移り住んだ時、勉強の遅れを取り戻すため、家庭教師の家に通っていた。勉強が終わる頃、母がいつも英恵を迎えに来てくれたことを鮮明に覚えていた。冬の北風が冷たい頃には、母は自分のショールに包み込んでくれ、頬をくっつけては田舎訛りの言葉で話しかけてくれた。英恵にとって、ほかの兄妹に気兼ねせず、母を独占できる唯一の楽しい時間だったのである。
第二次世界大戦中、母や妹は田舎へ疎開したが、大学生だった英恵は東京に残っていた。
戦争が終わると直ぐに結婚したが、専業主婦に物足りなさを感じた英恵は、手に職を付けようと、ドレスメーカー女学院で再び学ぶことにした。
その後、1951年になりファッションという概念も、デザイナーという言葉もない時代に、新宿でスタジオ「ひよしや」をオープン。やがて、卓越したテクニックと創造性で、日本のファッション・ビジネスの礎を築き、世界に誇るクチュリエールとなった。

 『ハイスクールの学生・津川竜哉(長門裕之)は、ボクシングに興味を持つ若者だった。
ある日、竜哉は仲間達を誘って銀座へ。だが、持ち合わせのお金が足りないことから、若い娘を誘って遊ぶことにした。とある帽子屋から出てきた武田英子(南田洋子)ら三人に声を掛けた。運良く彼女たちも、時間を持て余していた処だった。竜哉は遊び回りながらも、片時も英子から離れなかった。やがて竜哉は試合の日になり、TKOで勝つものの傷を負ってしまった。待っていた英子は自分の車で竜哉を病院に送り届け、そして二人きりの夜を過ごした。そして夏になる前、英子は逗子にある竜哉の家を訪れ、二人は初めて結ばれることになった。8月になって海に漂うヨットの上で抱き合った二人は、お互いに愛情を感じていることを意識した。しかし、英子は自分が女であることに自信を持ったが、竜哉は愛情を捧げる英子を鬱陶しく感じるようになってきた。竜哉は英子を五千円で兄・道久に売り渡し、自分はそのままボクシングの合宿に入った。英子は自分の身体が売られたことを知ったが、英子は道久に五千円を突き返した。英子は竜哉が自分を、本当は愛していると信じていた。10月になり英子は妊娠したことを竜哉に告げるが、竜哉は始末するよう英子に告げた。英子も仕方なく同意し、処置することになった。しかし、英子は中絶手術の経過が悪く死亡してしまう。竜哉は葬儀の日に英子の家を突然訪れ、悲しみに暮れる列席者の制止にも拘わらず祭壇に進んだ。祭壇に置かれた英子の笑顔の写真をしばし見つめた後、竜哉はいきなり香炉を取り上げ、英子の写真に叩きつけた。そして驚く人達に向かって竜哉は「あんた達にゃ、何も判りゃしないんだ!」と叫んで、広間を飛び出して行った・・・』
若い世代の異常な生態を描き、大きな反響を呼んだ1956年公開の「太陽の季節」である。
原作は芥川賞を受賞した石原慎太郎(現・東京都知事)の、同名小説の映画化であった。
原作者の弟である石原裕次郎のデビュー作として、大きな話題となったが、この映画の主役は長門裕之であり、この映画で彼も青春スターの仲間入りをする。この共演がきっかけで、南田洋子と結婚したとされている。彼は芸能一家で育っていたが、当時の俳優としてのキャリアは彼女の方が格上だった言う。しかし、その後は後輩である裕次郎や、大部屋俳優からスターとなった小林旭らの後塵を拝するようになり、主役がなかなか回って来なくなった。その苛立ちのせいか、他の女優達との関係を書いた、暴露本を実名入りで出版。
これが業界や実名を出された女優達の顰蹙を買い、仕事を一時干されたこともあった。その時期を妻の南田洋子が懸命に支えた。長門裕之も不遇な時期を乗り越えたことで、今では味のある演技に益々磨きが掛かり、脇役としては右に出る者はいないとまで言われる。
現在、洋子は痴呆症を煩っているが、立場を変えた長門は仕事を控え、介護に適した住宅に転居するなど、懸命に洋子を介護している。
1956年にはもう一本、石原慎太郎原作の「狂った果実」が公開されている。この二本の映画とも衣裳デザインは、森英恵が担当しており、当時の若者の風俗を的確に表現していた。

2004年7月7日、森英恵はパリのオートクチュール・コレクションで、最後のコレクションを披露した。約50年に亘る活動に終わりを告げるファッション・ショーであった。会場には顧客はもちろんのこと、評論家や関係者達が駆けつけた。東洋から唯一のオートクチュール組合正会員として活躍した彼女に盛大な、そして誰もが労をねぎらう多くの拍手を贈った。ショーのテーマは「イースト・ミーツ・ウェスト」だった。東と西の出会いは、彼女が最初の海外進出として、1965年にニューヨークで開いたショーを、地元メディアが評した言葉だった。彼女は「原点に戻ろう」との思いを込めたテーマだった。
ステージでは森英恵の象徴であるチョウを、大きくしたデザインのカシミアのワンピースや、歌舞伎をモチーフしたサテンのジャケットなど、新作約30点を披露。そして、彼女の全盛時代であった80年代に、制作されたビーズ刺繍のドレスも披露された。今では職人不足で創ることができないと言われ、彼女を象徴する逸品である。
最後はショーのために制作されたウェディング・ドレスを着た孫娘の森泉とともに登場。
会場に駆けつけた平林博・駐仏大使夫妻や、彼女のバリ・デビューを取材したジャーナリストの、ジャニー・サメらから称賛の拍手を送られた。パリ・オートクチュール組合のディディエ・グランバック会長は「オリエンタリズムをエレガントに消化し、フランス人以上に、オートクチュールの規範や伝統を守った」と、最大級に称賛した言葉で引退を惜しんだ。ラストはモデル達と共に、総立ちの客席から万雷の拍手を受けて舞台を降りた。


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