ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 265

☆ 超売れっ子デザイナー☆

2009.08.12号  

 ジャン・ポール・ゴルチェは白髪を五分刈りにした若作りの風貌だが、野太い声で身体も大きく、ユーモアにとんだ白人男性である。1954年4月にパリ郊外で会計士である両親の元に生まれた。現在はパリのデザイナーランキングで、常に上位に位置する超人気デザイナーとなっている。若いときからデザイナーを志し、独学でファッションを学んだ。
自らデザインのスケッチ画を描き、既に活躍している多くのデザイナーに送り続ける努力をした苦労人でもある。それが縁で70年にピエール・カルダン(既号187.ブランドの大衆化)のメゾンに出入りするようになる。その後、ジャック・エステルの下で働き、翌年にはジャン・パトゥのアシスタントに抜擢され、クチュールとしての経験を積んでいった。
76年に初めてのアクセサリー・コレクションを発表し、翌年には自らの名を冠してプレタポルテ・コレクションにデビュー。78年にはジャン・ポール・ゴルチェ社を設立して独立。この時に出資したのがオンワード樫山(既号158.世界ブランドの構築)の、フランス現地法人カシヤマフランスだった。81年にオンワード樫山とライセンス契約を締結。
87年、第2回「オスカー・ドゥ・ラ・モード」受賞。翌年に「ジュニア・ゴルチェ」をスタートさせる。80年代のゴルチェは、アンドロジナス、下着ルック、ボディコン服等、斬新且つユーモラスな作品を次々と世に送り出し、トレンドセッターとしての役割を果たすようになる。

ゴルチェのアヴァンギャルドなパンク精神とクラシシズムを、融合させた独特の作風は世界のモード関係者から高い評価を受けた。さらに装飾がかった特異な感性が表現されたドレスなどが、多くのファンを集めて一躍トップデザイナーの座へ上り詰めていった。
92年には「ゴルチェジーンズ」を発表。翌年には香水「ジャン・ポール・ゴルチェ パルファム」をスタートさせる。97年S/Sからオートクチュール・コレクションを発表。これはゴルチェ自身が、デザイナーを志した原点に返るコレクションとして、位置づけた力作揃いであった。翌年には東京で初めてのコレクションを発表。03年には「浴衣」「リョーカ」「水着」を発表し、日本のマーケットでも深く浸透していくことになる。
オートクチュールの成功もあり、エルメスから20%の出資を受け、エルメスのデザイナーにも抜擢されるようになる。04-05A/Wからマルタン・マルジェラから引き継いで、エルメスのレディース・プレタポルテのデザインを担当している。06-07A/Wよりメンズ・ウェアーのコレクション・ラインを、女性も共用できるユニセックス・ライン「ゴルチェ・パワー・トゥ・ザ・トゥ」に変更。07年にはオンワード樫山との契約を、輸入・販売契約に切り替える。同年、レペットの創業60周年を記念して、同ブランドとコラボレートしたアイテムを発表した。

 ゴルチェがデザイナーを志していた70年代、イギリスの若者達の間ではパンク・ファッションが大流行し、パンク・ロックと共に社会問題にまで化した。このアヴァンギャルドなファッションは、ゴルチェの作風にも大きな影響を与えることとなった。当時のイギリスは中東戦争によるオイルショック等の影響から、経済不況に陥り、インフレや失業率の上昇、生活水準の低下などの経済的不安。その怒りのはけ口としての人種差別など、深刻な社会問題が広がっていった。マルコム・マクラーレンは美術学校出身で、前衛芸術や50年代のロックンロール、その頃のロンドン・ファッションの一つ、ティディボーイ(リーゼントスタイルに細身のロングジャケットが特徴)に強い影響を受けていた。アメリカでニューヨークドールズというバンドの、マネージャーとして活動したこともあった。イギリスに戻ってからは同棲していた恋人の、ヴィヴィアン・ウェストウッド(既号152.パンクの女王)が作った服や、CDをフリーマーケットで販売して生計を立てていた。やがて、フリーマーケットからのビジネスは拡大し、キングスロードのマリー・クワント(既号224.パリ・コレのミニルック)のバザーがあったエリアに、ファッションと音楽をテーマにしたショップを持つようになった。ショップはロックンロール系のファッションから始まったが、音楽とファッションのスタイルを何度も変え、そのたびにショップの名前も変えていった。パンク・スタイルを打ち出した時のショップ名は「セックス」で、ポルノショップのような雰囲気だった。このようなアイデアは権威に反発するもので、不況下にあったロンドンの若者達を惹き付けていった。マクラーレンは75年にセックスに出入りしていた若者達を集め、パンク・バンド「セックスピストルズ」を結成した。挑発的な音楽とファッショ・スタイルは一部の熱狂的支持を得るが、テレビで放送禁止用語を連発するなどで物議を醸した。しかし、若者達は権威への反抗を求めていた。同時期には「ストラングラーズ」や「クラッシュ」などのパンク・ロックバンドも登場。セックスピストルズの反体制的で暴力的なスタイルは、音楽的にも反抗的な立場を取り、よりアンダーグランドな歌詞が並べられていた。又、ヴィヴィアンがデザインする衣裳も、鋲を打った革ジャン、破れたTシャツやジーンズなど過激なものだった。それに、逆立てた髪などの煽動的なスタイルも、労働者階級を中心に広く受け入れられていった。当時の、保守的なロンドンでは伝統とか、正統とされる服の着方に関する上流階級のルールが残っており、そのような上流階級の洗練された美しさに対する、醜さや汚さから生まれたのがパンクだった。

ゴルチェは90年にマドンナのワールドツアーの衣裳、次いでマリリン・マンソンのステージ衣裳を手掛け、世界でも通用するトップデザイナーであることを実証して見せた。又、93年の「KIKA」、96年の「ロスト・チルドレン」、98年「フィフス・エレメント」、04年「バッド・エデュケーション」など、映画衣裳のデザインを担当し、異分野での活躍とモードの世界との相乗効果が、トップデザイナーとしての地位を揺るぎないものにした。
94年には世界モード界最先端の殿堂、パリコレクションの会場を舞台に、ファッション業界内部とそれを取り巻くマスコミ周辺の、狂騒を描いた映画「プレタポルテ」に出演。
パリ・コレの現場に撮影カメラが持ち込まれ、ソニア・リキエルやイッセイミヤケらと共に、ゴルチェも実名で登場した。この映画ではナオミ・キャンベル、クラウディア・シファーなどのスーパーモデルが続々と実名で登場。出演はティム・ロビンス、ジュリア・ロバーツ、ローレン・バコール、マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン(既号198.憧れのジュエラー)など、30人を超える新旧の国際的スターが登場。音楽は「シェルブールの雨傘」などを作曲した巨匠ミシェル・ルグランが担当。映画はスターの顔見せだけでなく、ビジネスのあり方を描いた作品としても大きな話題となった。
00年にはファッション・デザイナーとして、ビジネスマンとしても天才的なジョルジオ・アルマーニ(既号131.モードの帝王)を取り上げた映画「アルマーニ」が制作された。
医学を志しながら、恋人の死を契機にファッション業界に転身。パートナーのセルジオ・ガレッティの病死。その長いスランプを乗り越え、今日まで20年以上も業界の頂点で活躍を続けるアルマーニ。この映画にもゴルチェは、ゴルチェ本人として登場している。この映画はアルマーニの、男としての人生ドラマであるが、頂点まで這いずり上がる男の情熱と執念は、ゴルチェ成功の裏にも通じるものがあるようだ。


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