ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 280

☆ トヨタの電装品☆

2009.11.25号  

 米国のサブプライムローン問題に端を発した住宅バブル崩壊を機に、資産価値の暴落が起こり、昨年9月15日にリーマン・ブラザーズは連邦倒産法の適用を裁判所に申請した。負債総額が約64兆円という史上最大の倒産劇へと至り、リーマン・ブラザーズが発行している社債や投信を保有している企業への影響や、取引先への波及拡大の恐れから、米国経済に対する不安が広がり、世界的な金融危機へと連鎖。日本においても日経平均株価が大暴落となり7000円台まで下落。それまでの国内自動車メーカーは、積極的な設備投資を続け、世界のマーケットで圧倒的優位の地位を築いた。自動車産業は裾野が広く、さまざまな種類の材料を使っている。とくに日本車は半導体と電子機器の塊と言っても良く、完成車メーカーの成長と共に関連産業も成長した。リーマン・ブラザーズが破綻した時には、多くの識者達が海の向こうの金融問題で、日本の実態経済に及ぼす影響は軽微なものと考えていた。しかし、実際には欧米よりも深刻な事態となった。何故なら、日本経済を牽引していたのは自動車産業で、日本車の輸出は震源地である米国が圧倒的に多かったからである。自動車を買う人の8割は自動車メーカーの、金融子会社のローンを利用していると云われる。リーマンショック前の米国では、住宅ローンと抱き合わせで簡単にローンが組めた。ところが、それまでは安全な資産として信じられていたリーマンの債権を、組み込んだマネー・マーケット・ファンドが元本割れをおこすや、消費者は瞬く間に買い控えに走った。さらに、信用収縮でメーカーの金融子会社の資金繰りは苦しく、ローンを利用した販売を絞らざるを得なくなった。売上は激減し、在庫は積み上がった。タイミングの悪いことに、日本の自動車各社は強気の設備投資と、それに伴う従業員の増加で固定費は急増していた。生産が減っても固定費は減らない。しかも、売上の急減で限界利益は一瞬にして消えてしまい、大幅な赤字決算に落ち込む。自動車各社は生産ラインが余剰となり、トヨタ(既号31.快走するトヨタ)は日産自動車一社分の生産ラインが遊んでいると云われた。トヨタは今年3月期決算で、59年振りの赤字を計上。最大手のトヨタ、浮き沈みの激しい日産自動車(既号33.ニッサンの再生)、堅実に成長を続けるホンダ(既号32.ホンダを支えた男)、これが大手三社の業績比較の常識だった。この序列が崩れ、連結ベースでトヨタはホンダ、日産自動車の後塵を拝する事となった。1990年代のトヨタは連結純利益5000億円が壁であった。しかし、この時期に毎年1000億円規模で原価低減する一方、海外生産拡大に乗り出す。2000年代に入ると、それまでの仕込みが結実し、世界販売は品質と価格競争力を武器に、毎年50万台規模で拡大。円高基調も一服した事もあり、純利益は1兆円、1兆5000億円と短期間で大台を突破。販売台数もGMを追い越した。しかし、急激な拡大はリーマンショックによる市場の収縮で、在庫の山を築き、資金繰り対策は急を要した。そして、いつの間にか高コスト体質になっていた。

 1949年、日本電装(現・デンソー)はトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の電装・ラジエター部門が分離独立して誕生。この前年にはマッカーサー(既号62.マッカーサーのサングラス)率いるGHQが、戦後日本の経済安定9原則の実施策を示した。この年になってGHQ経済顧問として来日した、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが立案した日本経済の、自立と安定のための財政金融引き締め策を勧告。インフレ・消費抑制と輸出振興を軸とした、いわゆるドッジ・ラインである。1950年にトヨタはドッジ・ラインに伴うデフレにより、経営危機に陥り豊田喜一郎社長が辞任。しかし、朝鮮動乱の勃発により、幸運にも倒産を回避した。その後のトヨタは、紆余曲折はあったにせよ、順調に拡大を続けて世界のトヨタにまで成長。このトヨタに歩調を合わせるが如く、デンソーも成長を続け、現在では世界最大の自動車部品メーカーとなっている。日本電装の設立前、初代社長・林虎雄はトヨタ創業者・豊田喜一郎から、当時としては不可能に近い目標と気概を聞かされていた。喜一郎は「自動車電装品は、今後ますます重要になっていく」との予見を語り、「新会社はそのための技術を磨き、トヨタ以外の自動車メーカーにも製品を供給できる力を持たなければならない」と説いた。誰もが新会社名は「トヨタ電装」になると思っていたが、喜一郎の期待に応えるにはスケールの大きい社名を検討せざるを得なかった。「愛知電装」「刈谷電装」「東海電装」などが候補に挙がったが、「将来、必ずや日本の自動車産業全体に寄与する電装品メーカーたらん」とする気概を表す会社名として「日本電装」に決定された。20年後、日本電装の製品は日産自動車を除く、全自動車メーカーと二輪車メーカーに採用された。その前夜、梶山季之が発表したトヨタと日産をモデルにしたと云われるスパイ小説「黒の試走車」が大ヒットした。

 『高速道路を覆面車がカーブを切ったとたん、車は横転して炎上した。翌日、業界紙は「タイガー試作車炎上、新車生産計画挫折か?」と、写真入りで報道した。タイガー自動車ではライバル社のヤマトに、試作車パイオニアの試走が事前に漏れ、写真まで撮られたことが問題になった。タイガー自動車の小野田企画部長(高松英郎)は、朝比奈部員(田宮二郎)らと協議。スポーツカーであるパイオニアを大衆車に見せかけるデータを作り、ヤマトを混乱させようとした。またヤマトの馬渡企画本部長(菅井一郎)が、バー「パンドラ」の常連客だと知るや、朝比奈は恋人の昌子(叶順子)を女給として勤めさせ、馬渡の身辺を探らせた。あらゆる手段で情報を集めた結果、ヤマトでもスポーツカーを製作中であり、タイガーがイタリアのデザイナーに依頼したデザインまで、盗まれて居ることが判明。やがて、車種とデザインの競争は、価格の競争へとなった。朝比奈の頼みで馬渡のいるホテルを訪ねた昌子は、新車に関する重要書類を盗み出したが、昌子は馬渡に身を奪われてしまう。昌子の貞操という高価な代償により、タイガーはヤマトを破る事ができた。しかし、喜びに浸る間もなくパイオニア第一号車が、踏切で急行列車に衝突する事故が発生。しかも運転手が車の故障と証言し、タイガーは追い込まれた。朝比奈が必死に調査した結果、タイガーの秘密をヤマトに漏らしたのは、企画第二課長の平木(船越英二)だと突き止めた。平木はヤマトの馬渡に買収されていたのだ。馬渡は列車妨害の罪に問われ、ヤマトを退社し事件が解決。ようやくパイオニアの売れ行きが上昇し、その功績でタイガーは朝比奈を企画第一課長に任命。しかし、朝比奈は会社に辞表を提出するや、街に飛び出して傷心の昌子の許へ走った。そして「俺は現代に生きられなくても良い。俺は自分のために生きたい」と叫ぶのだった。』梶山季之が産業スパイ小説という新分野を切り開いた作品で、1962年に発表された。単行本も映画も大ヒットした。この映画のヒットが契機となり、大映では「黒シリーズ」として11作が製作され、そのうち7作が田宮二郎の主演作品だった。その後、デンソーでも小説ではなく、実際の産業スパイだったと思われる事件があった。2007年3月、愛知県警は横領の疑いで中国人の技術係長を逮捕。県警の調べでデータを社外に持ち出している恐れがあると判明。この被疑者は1980年代後半に、中国の軍事関連企業に勤務していたとし、デンソーはデータを中国に漏洩した恐れがあると訴えていた。被疑者は前年の10月から12月にかけて、デンソーのデータベースからセンサーや産業ロボットなど、製品の電子図面約13万件のデータを、社有のパソコンにダウンロードし、自分のパソコンにコピーする目的で、無断で自宅に持ち帰ったとしている。デンソーが被疑者に貸与したパソコンを、県警で押収分析したところ、複数の記憶媒体が接続された形跡を発見。自宅や職場での家宅捜査で見つかった複数の記憶媒体と照合した結果、自宅の記憶媒体の他にも記憶媒体があることが判明。被疑者はダウンロードが増えた前年10月以降に2回帰国し、デンソーが事情を聞いた直後の2007年2月にも一時帰国していたため、デンソーはデータが中国に持ち出されていた疑いがあるとして訴えていた。しかし、名古屋地方検察庁は嫌疑不十分として不起訴処分に決定。結局、デンソーは泣き寝入りせざるを得なかった。このデータ流出事件を、発行部数1000万部を超える読売新聞が、ハイテク企業の機密情報管理問題として、社説(3月20日付)にも取り上げている。

 1966年、日本電装は米国への進出を果たし、世界の自動車メーカーを顧客に、ビジネスを展開するようになった。その間、海外拠点からは「NIPPON DENSO」では、ビジネスに支障があるとの声が挙がり、創業時に掲げた「日本」という目標は既に達成されおり、新社名が検討された。1996年に「デンソー(Denso Corporation)」に改称され、海外で使用する英語社名にも使えるものとした。直近の四半期ベースの業績は、トヨタと共に最悪期を脱して回復基調が見られ、再び世界のマーケット制覇に挑もうとしている。因みに、携帯電話で使われているQRコードは、子会社デンソーウェーブの登録商標である。また、歴代社長はデンソー生え抜きが就任しており、トヨタのグループ企業の中では異例の存在でもある。


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