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桃太郎のビジネスコラム 329

☆ 日本最大の繁華街 ☆

2010.11.10号  

 日本に近代化の明かりが灯った頃、大阪では城下の南端だった道頓堀に芝居小屋が造られると、対岸の城之内南部には遊里ができた。この遊里がミナミと称された。その後は城下の各地に点在していた遊里が西船場の新町遊郭に統合されたが、それ以後も島之内南部や道頓堀、難波新地に次々と遊里ができたので、総じて南地と呼ばれた。船場と道頓堀に挟まれた島之内は、北部は職人町として船場と共に城下経済の中枢を担っていた。船場の商い処に対して、色街となった南部は粋処と呼ばれるようになる。やがて、心斎橋筋は新町遊郭と道頓堀を結ぶ道路として発展し、小売店も建ち並ぶようになる。近代以降は刑場や墓地があった千日前にも繁華街が広がり始め、難波駅や湊町駅(現・JR難波駅)が開業すると街は一気に拡大した。現在のミナミは大阪市中央区と浪速区に跨り、広大な面積を誇る日本最大の繁華街の総称となっている。島之内や道頓堀、それに難波や千日前と云った地域に広がる繁華街は、これらの地域が大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半の地区が旧南区内にあったことからミナミと呼ばれるようになる。心斎橋は船場と島之内を結ぶ橋梁の名が由来であるように、心斎橋筋に沿って船場側にも及ぶ地域名称ともなっており、一概にはミナミと呼べない地区もある。島之内側の心斎橋筋沿いの、いわゆる心斎橋筋の商店街辺りはネームバリューも高く、土地の売買にでもなると、総称であるミナミと言い換えることは稀である。ステイタスエリアである心斎橋といった方が売買には有利となる。但し、現行の町丁名である東心斎橋近辺は例外で、狭義では東心斎橋の歓楽街を指してミナミと呼ぶことがある。因って、ミナミは明確な区域割りがされている訳ではなく、一般的には道頓堀と心斎橋筋(戎橋以南は戎橋筋)を基軸として、北は長堀通り、南は南海難波駅周辺、西は西堀川(現在は埋めて立てられ阪神高速1号線)、東は堺筋(日本橋筋)辺りまでの地域を指す。さらに繁華街としての呼称は、長堀通り以北の南船場、西横堀川以西の堀江、堺筋以東の黒門市場及び堺筋沿いのでんでんタウンにまで広がっている。

 宗右衛門町はミナミを代表する歓楽街である。宗右衛門町は島之内の南端、道頓堀川の北岸に飲食店が建ち並ぶ東西約350叩南北に約130辰涼楼茲任△襦K摸戮療貎敢惷兇箸箸發亡審擲垢箸覆辰討り、ミナミと通称される場合もある。道頓堀川に架かる橋として、戎橋が街の西南角に、日本橋が南東角にそれぞれ位置している。町内の道頓堀川には相合橋も架かっており、対岸の道頓堀に繋がる。相合橋は行政上「あいあうばし」で登録されているが、地元では長らく「あいおいばし」と呼ぶ人が多い。また、天保年間の頃には「あいあいばし」と呼ばれていたと云う。宗右衛門町の地名は道頓堀川の開削に関わった人物の一人、山口屋宗右衛門に由来する。1615年の道頓堀川開削の時に成立した道頓堀川八丁のひとつで、道頓堀川の北岸に民家が建ち並んだことが町の原型となった。1872年までは道頓堀宗右衛門町と云われ、昭和時代の初期までは花街として発展。約400年の歴史を持つ町は、キタの新地と共に大阪の顔として全国的に広く知られている。しかし、最近は不況の長期化による地域活力の低下というだけでは片付けられない状況にある。今では格式のある老舗の店は僅かとなり、風俗案内所がひしめき、けばけばしいネオン街と化している。節度を超えた内容や大きさの看板が氾濫し、路上での客引き行為が横行するなど、地域全体の共栄共存を理解しない事業者も多い。路上での違法駐車や迷惑駐輪、ゴミの不法投棄等も日常化しており、モラルの低下は著しく、解決しなければならない問題が山積しているのも事実である。

 1950年代後半、日本は戦後の復興が進み高度成長時代に突入していた。米国からエルビス・プレスリー(既号214.ホノルルを愛したエルビス)やポール・アンカなどが歌う、ポピュラー・ミュージックが入ってきてラジオを席巻。1958年には日本劇場(既号299.正統派娯楽の殿堂)でウエスタン・カーニバルが開催され、一大センセーションを巻き起こす。翌年に米国で結成されたベンチャーズという、エレキギターを抱えたバンドが1962年に来日し、エレキブームに火を付けた。それまでは流行歌と云われる歌が広まっていたが、音楽業界も一変する時代になった。そして、1966年にビートルズが来日するや、ファンからは熱狂的な支持を受ける。外国のミュージシャン達に刺激された若者達は、ビートルズ来日の前後に、次々とエレキバンドが結成する。グループ・サウンズ(GS)と称されたエレキブームは、あっと云う間に広がり若者達を熱狂させた。1967年にはジャッキー吉川とブルー・コメッツなるグループが、「ブルーシャトー」という曲でレコード大賞まで受ける。しかし、これをピークにGSも下火となり、1970年代になると殆どのグループが解散するようになる。高度成長に沸いていたエレキブームの頃、サラリーマン達は夜になると仕事の疲れを癒すとか、お客の接待などとか云って口実を作り、夜の街に繰り出していた。しかし、夜のネオン街で彼らを接客する多くの女性達は、人には言えぬ苦労を背負って仕事をしている人が少なからずいた。そんな女性の切ない気持ちを唄った歌が大ヒット。流しのギターを弾いて、ナイトクラブなどで唄いながら長い下積み生活をしていた北海道釧路出身のバーブ佐竹の歌だった。1964年に発売された「女心の唄」は250万枚を売り上げた。この頃から高度成長の歪みも表れ始め、歌謡曲と云うより「演歌」「艶歌」「怨歌」などの言葉も使われるようになる。GSブームが去った後には、レコード会社も次のヒット曲を創り出す必要に迫られる。そんな頃、コロンビアレコードが異色の歌手を発掘。シングルやLP、それにカセットテープを含めて500万枚を売ったという「女のみち」が1972年に発表された。ぴんからトリオの宮史郎という、どう見てもメジャーとは思えない芸人だった。これに刺激されたように、売れないコミックバンドだった殿様キングスも、1973年に宮路おさむをボーカルに「なみだの操」を発表。これも250万枚の大ヒットとなる。そんな頃、上方の演芸舞台に立っていた平和勝一・勝次という芸人がいた。1966年に漫才コンビを結成し、流行歌や自作の曲をギターで弾き語りをしながら、世相をおちょくったり、しゃべくりを織り交ぜた漫才をしていた。しかし、売れる気配は全くなく、お金も底をついていた。失意の日々が続いたある夜、勝次は下宿に帰る終電に乗り遅れ、仕方なくミナミからキタへ縦断する約4キロの御堂筋を歩いた。宗右衛門町筋で足取りの覚束ない酔客に「明日も、きっと来てね」と撓垂れかかって家路に送り出すホステス。ふと見とれて「いつか出世したら俺も、あんな娘と恋ができるのかも・・」そんな夢想が旋律に乗せて膨らみ、夜明けまでに曲が出来上がっていた。成功を夢見た歌は1972年、鳴かず飛ばずのコンビを解消する記念に、レコードを自費製作することにした。美男美女の歌手が多かった時代に、バーブも宮も宮路もお世辞にも美男子とは思えない。それが共に男が女心を唄って大ヒットした。それに何よりも、辛酸を舐めた先輩達の歌は勝次の心に響いた。勝次はダメで元々、自分の心を唄おうと思った。芸は下手だったが勝次の人柄に惚れた宗右衛門町で働くホステス達が、有線放送などに曲をリクエストして、ヒットの後押しをしてくれた。不遇な時代を共に生きた人達の応援が心に滲みた。やがて平和勝次とダークホースの「宗右衛門町ブルース」は、ミナミだけでなく東京や地方にも広がり、200万枚の大ヒットとなる。地元からは「宗右衛門町の名を全国に広めた」として表彰状も贈られた。最近の勝次は10年近くチャリティーで唄っている。老人会などで年寄りを無料招待して全国を縦断する歌の旅をしている。65歳まで芸人として生きてこられた感謝をこめて・・。
 
 宗右衛門町は2007年9月に、商店街振興組合法に基づき、地域事業者法人「宗右衛門町商店街振興組合」を設立。同年11月に認可行政庁である大阪市より設立認可が交付される。行政や警察との連携体制により、街の環境浄化や活性化を実現するために、様々な取り組みが行われることになった。警察による種々の取り締まりも強化され、安全で安心な街造りと、街の発展を図るとしている。旧宗右衛門町商店会設立以来の念願であった「宗右衛門町通りの美装化を含めた大規模な街並み整備」も実現しつつある。地元地域においても近隣町会の賛同を得て、「宗右衛門町活性化協議会」が、大阪市の街造り推進団体にも認定され、「食と酒、川のある街、宗右衛門町」をコンセプトとする街造り宣言も策定。早期に宗右衛門町通りの美装化を含めた、大規模な街並み整備を実現して、地域資産価値の向上と、地域全体への大きな賑わいを創出することを、中心事業に位置づけている。


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