ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 204

☆ フランスの香り☆

2008.06.04号  

 ニナ・リッチはパリのイメージを伝える代表的なブランドである。ニナ・ニエリ(本名マリー)は1883年にイタリア・トリノに生まれた。彼女は幼少の頃から、人形の服造りに興味を示し、13歳の時に家族と共にパリに移住してから、お針子をするようになった。18歳になってアトリエのプリマを務めた後、宝石商のルイ・リッチと結婚。縫製や裁断の技術を、お針子をしながら磨いていたニナは、やがてアメリカのバイヤー向けに、自作品のプロトタイプ(原形)を販売するようになった。1932年にパリで自分の名を冠したオートクチュール・メゾン「ニナ・リッチ」をオープンする。彼女の服造りはデッサンをしない独特の服作りで、顧客の身体に直接服地を掛けて裁断する手法であった。その手法から彼女は「彫刻家」と呼ばれるようになっていた。彼女の服作りの特徴であるエレガントで優雅なドレスは、若い頃から身につけた優れた技術に裏付けされており、女性らしい丸みを帯びたラインや、動きのあるデザイン、完璧なまでの縫製技術は、多くの人達から評価されるようになった。パリの上層階級の夫人達にとっても、リーズナブルな価格は大歓迎で、次第にファン層を広げていった。45年には息子のロベールに経営を任せ、彼女自身はデザインに専念するようになった。46年に「クール・ジョワ」で香水分野に進出。小瓶にハート形のデザインを用いて大ヒット商品となる。小瓶の製作を担当したのは、アール・ヌーボーの頂点を極めた、ルネ・ラリックが創設したラリック社だった。香水としての香りだけでなく、容器にもデザインを凝らしたことが、多くの女性の心を掴んだ。息子ロベールの企画力は、50歳を過ぎていた母ニナへの、最高のプレゼントになったのだ。ロベールの優れた経営手腕は、香水部門の成功と相まって「ニナ・リッチ」は、世界的なブランドとして展開するようになった。48年に発売された香水「レール・デュ・タン」は、今でも世界中でロングヒットを続けている。故ダイアナ妃も愛用されていたとの話も伝わっており、その清楚な香りは日本でも、お見合いの席での定番香水と云われている。今、旬の香水と云われるのが「レベル・ドゥ・リッチ」シリーズで、藤原紀香・浜崎あゆみ・後藤真紀・・新山千春らが使用しているらしい。日本女性向けに開発された「チェリー・ファンタジー」は、フルーツ系の香りが調香されており、容器もピンクを基調としていて、その可愛さが大人気となっている。

 ニナ・リッチは老齢のため59年に創作活動から引退し、70年に87歳で亡くなった。彼女の引退後はジュール・フランソワ・クラエが後任に就任したが、クラエがランバンに移籍すると、64年にプレタポルテで活躍していたジュラール・ピパールがチーフ・デザイナーに就任。ピパールは就任後に「マドモワゼル・リッチ」のブランドで、プレタポルテ分野を開拓し、ニナ・リッチのブランド名は躍進を続けることになる。76年にパリのジョルジュ・サンク通りにブティックを開き、79年にはモンテーニュ通りにビルを建設し、オートクチュール部門を移転させた。ピパールは多くの人気商品を発表し、87年にはデ・ドール賞を受賞するなど高い評価を得ていた。99年A/Wシーズンからカナダ出身のナタリー・ジェルヴォが、2001年S/Sからはマッシモ・ジュサーニがチーフ・デザイナーに就任。03年にはスェーデン出身のラーズ・ニルソンがアーティステック・デザイナーに就任。ニルソンは66年生まれで、ストックホルムで仕立てを学んだ後、パリのサンディカで学び、89年から9年間クリスチャン・ラクロワでキャリアを積んだ後、クリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)のオートクチュール部門で、鬼才ジョン・ガリアーノと共に働いていた。その後ニューヨークで4年間働いた経歴を持つ。07年A/Wからはオリヴィエ・ティスケンスがクリエイティブ・デザイナーを努めている。

 日本シャンソン界の女王と呼ばれた越路吹雪は、東京電灯のエンジニアだった父・友孝と母・益代との間に1924年2月18日に生まれた。35年に長野県飯山高等女学校を中退し、宝塚音楽学校に合格。同期には月丘夢路や乙羽信子、東郷春子ら後のスター達がいる。37年に宝塚歌劇団に入団、39年には初舞台を踏み、51年には退団して東宝専属となる。退団後は女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽の多くカバーし、特にシャンソンにおいては詩人の岩谷時子と、数多くの名曲を日本に紹介している。52年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、以後69年まで15回出場している。その間、テアトロン賞、日本レコード大賞歌唱賞、芸術祭奨励賞など数多くの賞を受賞。ヒット曲には結婚式では定番の「愛の賛歌」や、「ラストダンスは私に」「サントワマミー」「誰もいない海」「ろくでなし」など多く、往年のファンがカラオケで楽しんでいる。彼女は宝塚OGとしての活動にとどまらず、国民的人気を博していたが、64年の音楽番組「ミュージックフェアー」で、初代司会者を務めた以外は、テレビ出演を殆どしないことでも有名であった。68年に東宝から独立し、フリーとなる。翌年から東京・日生劇場で劇団四季が製作するロングリサイタルを挙行し、以後恒例となる。70年代には最もチケットの入手が困難なライブステージと云われた。彼女には政財界の重鎮達にもファンが多く、佐藤栄作元首相夫人の寛子も、彼女の大ファンで長く後援会長を務めていた。私生活では59年に作曲家の内藤法美と結婚したが、残念ながら子宝には恵まれなかった。家庭では家事の一切を仕切っていたと云われ、大変な掃除好きだったという。独身時代には三島由紀夫の恋人だったことや、大変な愛煙家だったことでも知られている。オシャレでは大のバッグ好きで、エルメス(既号14.イメージ戦略)やヴィトン(既号16.LVMHの5バリュー)、フェンディ(既号163.3世代で育てた世界ブランド)などを愛用していた。パリの有名店では「マダム内藤」で通っており、エルメス本店で革の手袋を購入する際には、「全色頂くワ」と言って購入したエピソードが残っている。日生劇場でのリサイタルは春秋の二回行われ、共に一ヶ月に及ぶ公演だった。舞台衣裳はイヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)とニナ・リッチのオートクチュール。特にニナ・リッチが大のお気に入りで、ニナ・リッチの本店には彼女の胴の木型が置いてあったほどである。80年11月7日午後3時2分、コーちゃん(旧姓の河野からついたニックネーム)は、多くのファンに惜しまれて逝った。享年57歳、乗法院越路妙華大姉。

 ニナ・リッチは香水が広く浸透しているため、「ニナ・リッチと言えば香水」と言うイメージになっているが、プレタポルテは勿論のこと、コスメチック、腕時計、バッグ、ジュエリー、ハンカチなど女性を捉えて離さないアイテムも数多く発表している。化粧品の歴史は浅く1992年に「ル・タン・リッチ」をリリースしたのが最初である。化粧水や口紅など、化粧品のアイテムを全てニナ・リッチ・ブランドで、揃えられるようにラインナップされている。メイクアップベースの「リッチ・ホワイト」は、紫外線防止効果もあり、毛穴の目立たない理想の肌を作るとの評判である。腕時計はメンズ、レディース共にラインナップされており、ファッション性も優れている。機能的にも技術力で定評あるスイスの技術を継承しており、満足のいく逸品揃いである。ジュエリーはニナ・リッチ本社でデザインしたものを、セイコーグループのセイコージュエリーが製作している。指輪はファッションリングだけでなく、結婚指輪や婚約指輪はパリの洗練されたデザインで、フォーマルな場におけるリングとしても評価が高い。昨年秋に発表されたネックレス「リュバン・ド・ヴィ」も、流れるようなリボンをモチーフにした立体的フォルムが、高級感を醸しだす逸品で大評判である。女性の必需品であり、さりげないオシャレアイテムのハンカチも、今年のS/Sデザインのキーワードは「鳥」。「レール・デュ・タン」のボトルに使われている2羽の鳩から着想されたテーマを元にデザインされており、早くも大人気となっている。正規ルートではネット販売等の乱売制限もあり、なかなか入手できないことが、より人気を高めている。これらのアイテムはオンとオフが切り替わっても違和感が無く、洗練されたデザインは、チョット控えめなラグジュワリー感を演出しており、その雰囲気がフランスの香りを漂わせている。国内では全国有名百貨店や、ブランド・ショップで求める事ができる。


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