ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 270

☆ クチュールの建築家☆

2009.09.16号  

 シンプルで完璧なシルエットが、パリファッションの象徴として、世界的な名声を得たクリストバル・バレンシアガは、「女性服の革命者」(既号268.近代ファッションの父)と呼ばれたポール・ポワレに師事し、「シンプル&エレガンスの父」と呼ばれたエドワード・モリヌーの影響も大きく受けた。あのシャネル(既号261.アトリエ開設100年のブーム)にして「本当にクチュリエと云えるのは、バレンシアガだけね」と言わしめた。バレンシアガの完璧な縫製技術によるシンプル、且つ芸術性の高いスタイルは「クチュールの建築家」と呼ばれ、顧客の高い評価のみならず、多くのデザイナー達に影響を与えた。愛弟子で大親友のジバンシー(既号157.1億円の映画衣裳)は「クラッシックエレガンスの神髄」と評し、22歳で弟子になったエマニュエル・ウンガロは「私にとっては教師中の教師」と尊敬の言葉を言い、ディオール(既号63.ディオールのシルエット)は「全てのデザイナーの師」と称賛した。そして、バレンシアガ自身は「私の服を着るのに、完璧も美しさも必要ない。私の服が着る人を完璧にし、美しくする」と語ったと言われ、相当な自信家だったようである。しかし、デザイナーを引退するときには「プレタポルテを始めるには、あまりにもクチュールを知りすぎた」との名言を残し、本の紹介文などに書かれているように、謙虚な性格も持ち合わせていたようだ。常に時代の先を読む感性、立体裁断の技術、身体に密着しないシンプルでエレガントなデザインは、オートクチュールから既製服業界まで大きな影響を与えた。ハーパーズ・バザー誌の編集長カーメル・スノーは、これらが既製服の大量生産へ移行する基礎になったことを指し、「今日すべての女性は、何らかの形でバレンシアガを着ている」と書いた。

 創業者のクリストバル・バレンシアガは1895年、スペインのバスク地方の港町ゲタリアに生まれた。母親の洋裁教室の影響で、幼少の頃から縫製技術を身につける。13歳の頃にカサ・トレス侯爵婦人のドレスをリメイクし、才能を認められてマドリードの仕立屋で修行をする。1915年に婦人の支援を受けてテーラリングの店を持ち独立。1919年にはパリ・オートクチュール・コレクションに初参加。若くして人気を得るようになり、1930年頃にはスペインの、ファッション業界をリードする存在となる。業容は順調に拡大していったが、1936年にスペインで内乱が起きパリに移る。翌年、パリのジョルジョ・サンク通りにメゾン「バレンシアガ」を開店し、秋にはコレクションを発表。1938年には、後にディオールが発表した「ニュールック」の前身ともなるスタイル、ウェストシェイプされた「ワイドスカート」のスーツを発表。翌年にはウール生地の「黒いドレス」シリーズを発表。1945年に四角い肩に狭めたウェストラインの服を発表。1951年、「パラレルライン」のスーツを発表。翌年に香水ラインをスタートし、「ル・ティズ」を発表する。1954年に「iライン」のドレスを発表。1955年に「チュニック・ドレス」を発表。チュニックラインのスタイルは、ディオールの「Aライン」と共に話題を独占。上着はロングトルソーでウェストを絞らないローウェスト、肩から背中をゆったりとさせ、全体がストレートに見えるシルエットに仕上げた。このチュニックは、その後のファッション業界のトレンドに、大きな流れを作った。1957年には「ベビードール」などを発表。その翌年には、歴史に残る「サックドレス」を発表し、レジョン・ドヌール勲章を受章した。1968年に73歳となり、春夏コレクションの後、民衆が起こしたゼネストなどの反体制運動(5月革命)の影響もあり、香水部門を除いてパリとバルセロナの店を閉鎖。「真のクチュールは贅沢。もう、そうした贅沢は不可能になった」と言って、デザイナーを引退した。1972年、スペインのバァレンシアにて77歳にて死去。

 バレンシアガは、モード界の貴公子と呼ばれたジバンシーや、バレンシアガの片腕となって支え、プリントの詩人と呼ばれたウンガロ、ヤングファッションを切り開いたアンドレ・クレージュ(既号224.パリ・コレのミニルック)、帽子デザイナーから出発したアドルフォ・サルディーニャなど、歴史に残るデザイナー達を育てた。三宅一生もバレンシアガで働こうとしたが、メゾンが閉鎖されたため断念。メゾンの一部を引き継いだジバンシーの下で、アシスタントデザイナーを努めたことがある。バレンシアガの死後、ブランドは長い眠りに就いていた。一時はドイツの化学メーカーの傘下に入って、香水ブランドとして継続していたが、1986年に高級ブランド企業であるジャック・ボガートによって所有され、ボガートの率いるフレグランスと、ファッションのグループに引き継がれた。プレタポルテのコレクションは、1987年に再スタートし、1989年にはブティックも再びオープンされる。1991年のバブル崩壊に差し掛かったとき、突如としてバレンシアガの歴史に日本企業が登場。日商岩井(現・双日)がバレンシアガの、発行済み株式の18%強を取得して業務提携を結んだ。しかし、2001年にグッチ・グループがバレンシアガを買収。かつては定着していた「リッチなマダムの御用達」ブランドのイメージを、本格的に再生するプロジェクトが動き出した。2006年にはリステアホールディングスと、グッチクループの共同出資で「バレンシアガ・ジャパン」が設立されたが、2008年にはリステアホールディングスの保有する全株式をグッチ・グループが取得して、グッチ・グループの全額出資会社となる。グッチ・グループの親会社は、世界第3位の高級ブランド企業ピノー・プランタン・グループ(既号240.フランスの複合企業)。グッチ・グループ傘下のファッションブランドにはバレンシアガの他、イヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)、アレキサンダー・マックィーン、ステラ・マッカートニー、ボッテガ・ヴェネタなどがある。

 バレンシアガでは1993年から1997年まで、アントワープ王立芸術アカデミー出身のジヨセフュス・ティミスターが、プレタポルテのデザイナーに就任していた。しかし、ティミスターのショーは評判が悪く、その後は未知のデザイナーであったニコラス・ゲスキエールを抜擢した。ゲスキエールは1971年に、ゴルフ場のマネージャーをしていたベルギー人の父と、フランス人の母との間に生まれた。幼い頃からファッションに興味を持ち、11歳の頃にはスケッチ画を書いていたと云われる。アニエスbのインターンシップを受け、ジャン・ポール・ゴルチェで2年間アシスタントを務めた後、フリーランスでニットウェアーのデザイナーをしていた。1995年にバレンシアガに入社。1997年にジャック・ボガートはライセンス・パートナーである日商岩井のために、ゴルフウェアーなどをデザインしていた社内デザインチームの若手、ゲスキエールをプレタポルテ・デザイナーに指名した。ゲスキエールのデビューコレクションは、98年春夏に発表され衝撃的な印象を残した。毎シーズン新鮮なデザインを提案。ペンシル型の薄いパンツ、80年代風ブルゾンジャケット、大胆にカットされたミニのオーバーオール、パステルカラーのコンバットパンツ等々。デザインセンスだけでなく、親しみがあり気取らない態度も好感され評価は急上昇。新生バレンシアガを、これ以上ない形でアピールした。2000年にVHIヴォーグファッション・アワードで「アヴァンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。翌年はCFDA「インターナショナル・デザイナー・アワード国際賞」「ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イヤー」を受賞。ヘラルド・トリビューン紙のファッション・ジャーナリストのスージー・メンケスは「最も興味をそそられるオリジナル性を持ったデザイナー」と評し、クロエ・ラヴィニーは「私はバレンシアガを崇拝します」と言い、ケイト・モスは「バレンシアガをたくさん持っているけど、まだ足りないの」とコメント。ニコール・キッドマンは第80回アカデミー賞授賞式に、バレンシアガの黒いドレスで登場して注目を浴びた。マドンナもゲスキエールの大ファンだという。グッチ・グループがバレンシアガを買収したのも、ゲスキエールの才能を評価してのものだったとの説がある。グッチの今日を築いた当時のCEOドメニコ・デ・ソーレと、デザインを統括していたトム・フォードの強い意志が働いたと云われる。バレンシアガのCEOに就任したパスカル・ペリエは「バレンシアガはファンタジックな才能を有しています。それは、ニコラ・ゲスキエールです」と最高の評価をする。ペリエはセリーヌ(既号114.B.C.B.Gの代名詞)の日本法人で常務を務めた後、イヴ・サンローランの副社長を務めた業界屈指の経営者である。デ・ソーレはバレンシアガ買収にあたって「これはニコラの希望でもあります。ですから私たちはバレンシアガを買うことを決めました。今までブランドは適切な投資を得ていませんでした。これから、それが行われるでしょう」。甦ったバレンシアガの快進撃が続いている。


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