ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 303

☆ 菜食主義者が創る服☆

2010.05.12号  

 ステラ・マッカートニーは、1971年9月13日にロンドンで生まれたファッションデザイナーである。12歳でデザインを始め、15歳でクリスチャン・ラクロワの最初のクチュールコレクションの仕事をしたあと、ロンドンの高級仕立屋が建ち並ぶサヴィル・ローの、エドワード・セクストンの下で修行を積む。ジャケットやパンツスーツなどのテーラードの勉強をし、シャープな服創りの基礎を身に付ける。その後、ロンドン芸術大学のカレッジの一つで、ジャン・ガリアーノ(既号63.ディオールのシルエット)やフィービー・フィロ、アレキサンダー・マックイーン(既号302.天才デザイナーの死を悼む)等多くのデザイナーを輩出したセントラル・セント・マーチンズに学ぶ。1995年の卒業コレクションでは、旬のモデルであったケイト・モスを起用して一躍脚光を浴びる。ステラのデザインやテーラードを、ケイト・モスらがお気に入りとして着用するようになった影響で、大きな話題と人気を獲得。翌年にはロンドンでシグニチャブランド「ステラ・マッカートニー」をスタートさせる。1997年3月にフランスのクチュールブランドであるクロエ(既号164.ブランド名はバレエ組曲から)のクリエイティブ・ディレクターに、カール・ラガーフェルドの後継として大抜擢される。この時、ステラは若干25歳であった。クロエでは自身のコレクションを二度しか開催しなかったが、ブランドの成長に大きく貢献。最初のコレクションはセンセーショナルを呼び、ステラの才能について多くの人たちが持っていた疑問を払拭することになった。ステラの功績はブランドに大きな脚光を再び取り戻しただけでなく、売り上げは就任前の5倍の結果となった。クロエの伝統的な特徴に、ロンドンのストリート色を加え、若年層にも顧客を拡大したことが大きな要因であった。ココ・シャネル(既号136.試作品番号No5)、フェンディ(既号163.3世代で育てた世界ブランド)、クロエ、それに自らのブランドと、当時は四つブランドを掛け持ちしていたカール・ラガーフェルドも、ステラが後任に決まったときには、父親のコネだと考えていたと伝えられた。しかし、このスーパーデザイナーの懸念を、自らの実力をもつて払拭させたところが、ステラの凄さであろう。2001年にクロエを退社し、グッチ(既号127.ブランド商品の元祖)の後押しを得て自らのブランド「ステラ・マッカートニー」をスタート。この年の10月に行われた2002S/Sパリプレタポルテ・コレクションでデビューした。

 2003年にはバラの香りをベースにした初の香水「ステラ」を発表。この年にはハリウッドにショップをオープンさせる。2004年秋にはアディダス(既号138.ダスラー兄弟)と提携し、女性のためのスポーツウェアライン「アディダス・バイ・ステラ・マッカートニー」を発表。この契約は2010年までの予定である。翌年にはスェーデンのH&M(既号217.ファスト・ファッションの雄)と提携し「ステラ・マッカートニー・フォー・H&M」を発表し、アンダーウェアーからアクセサリーまでデザイン。2006年にはグッチグループのイヴ・サンローラン・ポーテから、スキンケアブランド「Care」を発表。この年にはナイロンやビニール、それにテクノキャンバスを用いた初のアクセサリーコレクションも発表する。2007年にはアメリカのチェーン店「Target」、2008年にはランジェリーコレクションを「Bendon」と、コーポレートジーンズを「Nofity」と、そしてバッグを「Lesportsac」とコラボレートする。2009年になると、パリに総売場面積150屬猟庄津垢鬟ープン。「Gap」(既号243.世界一のカジュアルブランド)とのコラボレートでは、ステラが初めて子供服をデザインし、ギャップキッズとベビーギャップを発表するなど、超売れっ子デザイナーとして活躍している。私生活では2002年に「Wallpaper」マガジン発行者の、アラスディア・ウィリスとスコットランドのビュート島で結婚。ステラは母が結婚したときに着たウェディングドレスをリメイクして着用した。式にはガイ・リッチー&マドンナ元夫妻、コールドプレイのクリス・マーティン&グゥィネス・パルトロー夫妻、プリテンダーズのクリッシー・ハインド、リヴ・ライター、それにケイト・モスやピアーズ・ブロスナンらが出席した。現在は二人の息子と娘一人のママである。ステラは両親の影響からか、厳格な菜食主義者でファーやシルク、ラムウールやレザーを用いたデザインを拒否している。また、動物愛護活動に熱心なことでも知られており、化粧品開発のための動物実験にも反対している。因って、ステラがプロデュースするスキンケアブランドは、全てオーガニック化粧品である。

 ポール・マッカートニーは1960年代に世界を席巻したザ・ビートルズの中心メンバーで、現在も精力的に音楽活動をしている。ギネス・ワールド・レコーズの「ポピュラー音楽史上で最も成功した作曲家」として認定されている。1997年にはナイトに叙勲され「Sir」の称号を贈られた。親しみやすく美しいメロディーの作風に特色があり、ビートルズ時代には「イエスタデー」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表曲と言われる多くの楽曲を作詞作曲した。バンドの演奏では主にベースを担当。ベーシストとしての評価は非常に高いものがあり、後のロックバンドのベーシストに大きな影響を与えたと云われる。アコースティックギター、エレクトリックギター、ピアノ、キーボード、ドラム、管楽器までも扱うマルチプレーヤーである。ボーカリストとしても希有な才能を発揮。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、楽器を演奏しながらリトル・リチャードなどの、難易度の高いロック曲を難なく歌いこなす。一方ではバラード調の甘い歌声を聞かせるかと思えば、「レディ・マドンナ」のようにエルビス・プレスリー(既号167.60万人の「聖地」巡礼)を思わせる唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。エルビスの死後、ポールとジョン・レノンはビートルズが最も影響を受けた歌手がエルビスだったと語っている。ポールはその多彩な歌唱法を生かして、コーラスの一人多重録音も行っており、世界で最も有名なシンガーソングライターとして活躍している。私生活では1969年に最初の妻リンダと結婚し、現在は写真家として活動している娘メアリー、ファッションデザイナーとして世界的に有名になった次女ステラ、それに長男ジェイムズをもうけた。リンダが先夫との間にもうけたヘザーも、自分の娘として育てあげた。1998年にリンダを乳ガンで失う。2002年に地雷撲滅運動を進める元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表。翌年には正式に再婚し一女をもうけた。しかし、家庭を重視するポールと、世界を飛び回ることが多くなったミルズは、心の離れた家庭となった。また、ミルズはポールの仕事にまで口を挟み、スタッフとトラブルを引き起こし、2006年には別居。2008年にロンドン高等法院で離婚協議の非公開審理が行われた。

 2008年10月31日、東京・青山に「ステラ・マッカートニー青山」がオープンした。日本初の路面店で、総売場面積は205屐E絞泙錬嘘と2階部分。吹き抜け部分には雨の降る様子を表現した真鍮製のアート作品を設置し、非日常的な空間を演出している。服やアクセサリーに交じって、おもちゃのブロックで造った愛らしい動物や、人形が随所に置かれている。洗練された雰囲気なのに、気持ちを和ませる気遣いや、遊び心も忘れない工夫が凝らされている。来日したステラは一泊二日の慌ただしい日程だったが、気さくな笑顔を振りまいて「日本の女性は個性的な着こなしが上手。私の商品もワードロープの中に加えて貰えれば、こんなに嬉しい事はないわね」とのメッセージを残して帰国した。
ステラは菜食主義者で動物愛護の立場から、天然皮革や毛皮を使わないことでも知られている。秋冬物のふわふわしたコートにはフェルト素材を使い、合成皮革や布製ブーツの靴底は木製になっており「素材にこだわり、気持ちよく感じられる服創りがモットー」と話す。自然志向ではあるがファッション性も重視し、それがエコロジーと相反することではない。高級ブランドなのに高価な皮革を避けるのは、両親の影響もあるだろうが、自然と培ってきた自分の価値観を、ブランドに反映させて人々に訴えるのも、デザイナーとしての社会的責任と考えているのかも知れない。昨年の春夏コレクションでは、ゆったりとしたジャケットとパンツが一体化したようなスーツを発表。リラックスした雰囲気と、女性らしいシャープな美しさを見事に表現していた。世界的に景気が後退していて不安な世相となっているが、ファッションは多くの女性にとって希望を与えてくれる必需品でもある。サヴィル・ロー仕込みの仕立技術に加え、三人の子を持つ母親でもある自身が欲しい物を造る。そんな自然体の服創りが消費者の共感を呼ぶのだろう。



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